1-1:ラインボックスに来て半年たちました!
仮眠室の薄暗い空間に、スマートフォンの青白い光が浮かび上がる。ベッドに横たわる石上莉那は、片耳だけイヤホンをつけて、ぼんやりと画面を見つめていた。
ここは明星テレビ東京本社。その地下2階にある仮眠室である。ネットカフェの一室のようなこの仮眠室は、狭い空間を好むスタッフの間で、「意外と落ち着く」と評判だった。
両隣の部屋からささやかな寝息が聞こえる中、莉那は眠ることができず、スマートフォンで動画を見ていた。小学校のころ幼馴染から教えてもらった彼らのチャンネルはすでに登録者数五百万人を超えており、世間でも知らない人がいない程の人気だ。久しぶりにこの人たちの動画を見てみたが、相変わらず派手な字幕が画面を賑わせていた。莉那が人気配信者の動画を眺めていたのには特に理由はなかった。ただ、夜勤業務中の仮眠休憩の際に微睡んでいたところ、苦くもあり懐かしいあの頃の夢を少しだけ見た。そして目が覚めてしまった莉那は、休憩終了の時間まで特にやることもなかったので、こうして動画サイトを開いていたのだった。
ふと時計を見ると時刻は4時50分を表示していた。そろそろ、上に戻らなければ。莉那は耳につく笑い声が聞こえるイヤホンを外し、付属のケースにしまい込んだ。上半身を起こし軽く伸びをする。十分な睡眠にありつけなかった脳みその重さにウンザリしながら、莉那は靴に足を入れる。その時、隣の仮眠室から、眠りの世界から現実に引き戻されているであろう人の不機嫌そうな唸り声が微かに聞こえた。
数分後、しんと静まり返ったエレベータホールに莉那の姿があった。程なくしてエレベータの扉が開き乗り込む莉那。莉那は、“3”のボタンを押して軽く目を閉じた。明星テレビ東京本社は、地上九階建てのビル型の総合テレビ局だ。一階から二階は一般向けのエントランスフロアで、社員用の入り口の他、カフェやグッズを売っているショップなども並んでいる。三階から五階までの中層階は報道局管轄の階層。六階に社員食堂を挟み、それ以上がスタジオや出演者楽屋、また番組スタッフの事務所などがある階層だ。莉那が押した三階は報道局技術部門の階層でこの春から莉那が働いている職場があるフロアだった。女性の声が目的の階に着いたことを知らせる。少し間があってエレベータの扉が開き、莉那はエレベータから降りた。
3階のエレベータホールを抜けると、一本の長い廊下が目の前に現れる。両壁から微かに機械の駆動音がする廊下を行くと、少し開けた空間が現れ、莉那は足早にその空間に入っていった。天井からは「ラインボックス」と書かれた掛札が垂れ下がっている。ここが莉那の普段働いている、報道局報道技術部門ラインボックス。通称「ライボ」である。入り口から見ると奥には広い空間が広がっており、数人のスタッフが各々持ち場の機械の前に座っている。莉那は入り口の一番近くに設置されているモニターの前の席に腰を下ろした。
「休憩、ありがとうございました。」
「あ、おかえり~。」
莉那の声に、先に隣の席に座っていた小泉胡桃がこちらに体を向けながら答えた。莉那より二年先輩の彼女は、夜勤業務中だというのに少しも眠たそうな素振りを見せず、その双眸はしっかりと莉那を捉えていた。
「あれ、なんか疲れてない?」
「あまり眠れなくて・・・」
「ありゃ、それはドンマイだね。まぁ、特に引き継ぎもないし、この様子だと朝まで暇だろうから、ゆっくりしとき。」
小泉は穏やかにそう言うと、彼女の机の上に置かれた資料を纏めながら立ち上がり、リーダー席に座っていた男に一言「OA行ってきます」とだけ声をかけ、OA室の方に姿消した。その背中を見送った後、莉那は席のモニターに目を移した。小泉が言っていたように、今、莉那がやるべき仕事はなさそうだ。そのことが分かると莉那はゆっくりと椅子の背もたれに体を預けた。
ラインボックスは大きく三つの区画に分かれている。一つ目は莉那が今座っている“受信室”だ。ラインボックスには日本全国、世界各地からニュース映像が送られてくる。その映像たちが一手に集められるのがこの受信室。いわば、ラインぼっくの“玄関口”だ。事務所の役割も果たしているこのエリアは、今の時間こそ稼働が少ないが、日中になるとラインボックス内で一番人口密度が高いセクションとなる。受信室での主な作業は、送られてきた映像をカテゴリーごとに分類し、メタデータを打ち込むことだ。メタデータとは、その映像がどのような内容の物なのか、どこで撮影されたものなのか、などといった対象の映像に関する詳細のことである。このデータは後々明星テレビの映像資産として保存されるので誤植や間違いなどがあってはならない。もし間違いがあると、データを添削している担当のスタッフからチクチクと指摘が飛んできてしまう。入社半年目の莉那は、指摘される度に、少しくらい良いではないかと思ってしまうが、仕事なので仕方がない。
ラインボックス二つ目の区画は編集室だ。ここは文字通り、映像を編集する部門である。受信室で受けた映像をニュース番組で流せるように編集を行っている。新人の莉那はこの部屋に入ることはほとんどなく、編集に携わるのは殆どが中堅以上のスタッフなので、莉那はここでどのような作業が行われているのかあまり詳しくはない。ただ少し前に先輩が、「ライボで唯一ヒリつく可能性がある場所」と言っていたので、漠然と大変なんだろうなあと莉那は思っていた。
三つ目の区画は先程小泉が向かったOA室だ。OA室は、ニュース番組のオンエアに直接関わる業務をしている部署であり、具体的には毎日決まった時間に行われる“帯”のニュース番組にて、編集室で編集されたニュース映像を流している。ここも莉那のような新人が担当になることは少ないが、編集担当に比べると若手が勤務することが多いセクションだった。その証拠に、今年で三年目の小泉がOA担当に割り当てられることも多い。
ラインボックスの業務はこの三つの部門から構成されており、流れとしては受信室で映像を受信し、編集室でそれらの映像を編集、その後完成した映像をOA室で電波の波に送り出している。
莉那はその中で言うとOA室への憧れが最も強かった。本当は、お笑い番組やバラエティ番組に携わりたかった莉那にとって、ラインボックスで唯一“番組を制作している感”を感じられるのがOA室での業務だと睨んでいたからだ。ラインボックスに配属された新人は、まず受信室での仕事を覚えさせられる。これは莉那も例外ではなく、配属されてから半年間、莉那は受信室での仕事を黙々と続けてきた。初めこそ慣れない仕事に新鮮味を感じていたものの、しばらくすると作業は体になじみ、今となっては、およそテレビ局で働いているとは思えない事務作業感に飽きが来つつあった。先日、同期にこのことを愚痴ると、そういうのはデータがミスなく打ち込めるようになってから言うべきだと正論を突きつけられてしまったが…。兎にも角にも、入社半年目の新人は、憧れた職場での仕事とのギャップに、なんだか煮え切らない気持ちで日々を過ごしていたのだった。そしてOA室での仕事こそがそんな燻ぶった自分に火をつけてくれる着火剤になりえるのではないかと夢想していた。
小泉がOA室に向かった後も、意識が宙を舞っていた莉那だったが、突然電話のコール音が鳴り響いたことでハッと我に返った。背もたれに預けていた体を素早くお越し、音の出所の方へ体を向ける。と同時に、リーダー席に座っていた大柄な男が、音が鳴る電話の受話器を持ち上げているのが目に入った。男は、「はい。はい。」と短く応答を繰り返し、「わかりました、ありがとうございます」とだけ告げて受話器を置いた。そして、イスをくるりと回転させて莉那の方を向いた。
つづく