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死に水

当作品には筆者が実際に体験した人の死に関する描写が出てきます。苦手な人はご注意下さい(ホラー/怪談作品を読もうとされる読者に言うのもおかしな話ですが)

 以下の体験は筆者が実際に体験したものを、不要な部分の描写を削り人名を仮名に置き換えて綴ったものである。当時分からなかった事柄などに関してはこれを記すにあたって記憶を頼りに調べたものが殆どであり、当時の私は何も知らない只の子供だったことを明記しておく。



 忘れもしない。あれは、私が中学一年生の夏。

 汗だくで帰宅すると、なんだか家の中が騒がしい。聞いたことのあるような無いような、少なくとも家族ではない男女の声もする。庭には知らない車が多く停まっているし、また親戚が集まっているのだろうか?それなら今日の夕飯はご馳走だ。などと呑気に考えながら声のする床の間を過ぎ、洗面所で手を洗っている最中、どたどたと足音が近づいてきた。


「純、シャワーを浴びて頭と体を洗ったら、制服に着替えて茶の間に来なさい」


 暖簾から顔を覗かせた祖父が、いつになく真面目なトーンで話しかけてきた。どうせ汗を流すのにシャワーは浴びるつもりだったのでいいのだが、もう一度制服に?なんだかよく分からないが、取り敢えずシャワーを浴びよう。


 今日の夜は風呂に入らなくていいな。そう思うほどきっちり頭と体を洗って風呂を出ると、脱衣所には先程脱ぎ捨てたものとは違う学ランが綺麗に畳んで置いてあった。そういえば予備の学ランがあると母が言っていたような覚えがある。しかし、何故わざわざ?そんなに汚した覚えはないのだが。

 用意された学ランに着替え、言われたとおりに茶の間へ向かっていると、もう床の間は静かになっていた。なぁんだ、ご馳走は無しか。

 茶の間の襖を開けると、そこには厳しい顔つきで座る祖父と、さて誰だったか。何度か見覚えのある、恐らく親戚であろう御婦人が同じく深刻そうな面持ちで座っていた。


「出かけるぞ。何も持たなくていいから、お手洗いだけ済ませてきなさい」

「え?うん……どこ行くの?」

「……錠が死んだ。まだ家に居るから、最後の挨拶にな」


 錠というのは祖父の弟さんの名前で、随分前から患っていたらしい。私が帰宅するちょっと前に亡くなったばかりらしく、錠さんの娘さんが直接伝えに来たようだ。行きの車内には祖父と私、そして先述の娘さんが乗るのみだったので「ばあちゃんはいいの?」と聞くと、喪服を着た祖父は「ばあちゃんは留守番だ」と珍しく無愛想に返してきた。葬式というものを知らなかった私はこれは遊びじゃないんだなと、これまた珍しく真剣な気持ちになるのだった。


 錠さんの家に着くと、門の周りには人だかりができていた。急いで駆けつけたのか私服姿の、恐らくは親戚一同だろう。

 門の前で娘さんが降りると、少し離れたところに駐車する為少しの間車内は祖父と私の二人っきりとなった。


「ねぇじいちゃん、俺なにすればいいの?」

「じいちゃんの真似をすればいい。だがいいか」


 車のエンジンを切り、こう言うと祖父は振り向いて俺の顔を見ながら


「車から降りたら、一言も喋るなよ」


 あんなに怖い祖父は初めて見た。ひょっとすると、この時の私は泣いていたかもしれない。何か作法があるのか、あるいは私が余計な口を聞くのがまずいと思ったのだろうか?

 結局何故とは聞けぬまま車から降りると、祖父は大人たちの集団に紛れ何やら話し始めた。中にはちゃんと覚えている人の姿もあったが、喋るなと言われていたので会釈するだけに留めておいた。しかし、親戚の死に気も漫ろだったのだろう。皆こちらに気付く気配はなく、なんとなく居心地の悪さを感じていると向こうで祖父が手招きしている。

 人混みの中央に空いた道を通って祖父の元へと行くと、先程の娘さんが白い喪服?に身を包んで待っていた。


 彼女の案内で玄関まで行くと何故か娘さんは入らずに、祖父と私だけが家の中に入ることになった。

 家の中は当然静かで、外の親戚たちが話す声は全く聞こえない。まるで世界に自分と祖父の二人しか居なくなってしまったような寂寞感に縋る気持ちで祖父を見ると、無表情で取次に座って靴を脱ぎ、三和土に靴を揃えていた。自分も祖父に倣って同じ様に靴を脱いで揃えてから立ち上がると、奥の廊下が曲がっている所で祖父がこちらを見ながら待っていた。

 慌てて着いていくと、既に部屋を知っていたのだろう祖父が廊下の途中にある襖を開いて中に入った。


 中は畳敷きの和室で、開けた襖から見た両側は壁、向かいにはこちらと同じ襖がある。家具も調度品も無いその部屋の中央に布団が一組、錠さんの顔に白い布が被せられた状態で佇んでいた。祖父は錠さんの頭の方から向こうへ回り、襖を開けると向こう側の廊下においてあったのであろうソレを持ち、襖を閉めてこちらへ戻ってきた。


 ソレとは、焼香台であった。

 焼香台をゆっくりとした所作で錠さんの枕元に置くと、彼の顔の上の白い布を取り払った。

 彼は今にも目を覚ましそうな顔色で眠っており、とても死んでいるとは信じられなかった。人の死に接するのはこれが初めてだった自分はまじまじと錠さんの顔を見つめていたが、祖父が何かをしていることに気づくと注意はそちらへ向いた。


 祖父は焼香を済ませると、台から取ったのであろう竹串の先に脱脂綿を付けその上から木綿を巻いたものを錠さんの口元に何度かあてがっていた。見れば彼の唇は濡れたように艷やかになっており、どうやら水を布に染み込ませて唇を湿らせているようだ。

 何度か繰り返した後、祖父は正座のまま後ろへ下がると、私の方へその竹串を渡してきた。同時に焼香台の方を身振りで示したので、そちらへ寄ってよくよく見てみることにした。


 外見は至って普通の焼香台だった。左右に一つづつ窪みがあり、常であれば右側に抹香、左側に香炉が設置される。

 だがこの焼香台は右側に抹香が置かれているのは普通と変わらないのだが、左側の窪みには灰も香炭もなく、そこにはかすかに揺らめく水が光を反射するばかりだった。加えて、その水面には抹香がいくつか浮かんでいる。

 私も祖父に倣って焼香(と言っても抹香を押し戴いてから水面に落とすだけなのだが)を済ませるとその水面に竹串の先端を軽く浸し、祖父と同じ様に錠さんの唇を拭いてやった。


 祖父の方を振り返るとうんうんと頷いている。これで良かったのかとホッとしたところで、祖父の後方は閉まった襖の向こうにある廊下の左側、つまり私達が元来た方向からどんっっと大きな音がした。

 はっとした表情で祖父がそちらを振り向くと、さらにどんっどんっと音がする。


どんっ どどんっ どどどどどんっ ばんっばんっ


 まるで拗ねた子供がわざと大きな足音を鳴らしながら歩いているかのように、その音は左から徐々に襖の前まで近づき、右方向へと過ぎ去っていった。


 何事かと呆然とする私に振り向き直した祖父が近づいてくると、右手を開いたまま私に向け突き出し、その後人差し指を立てて口元にあてた。喋らずに待っていろということだろう。私が頷くと祖父も頷き、襖を開けて廊下へ出ると、静かにそれを閉めてから右側へと歩いて行った。


 部屋に錠さんと二人残されてしまった私は再び竹串を水に、今度は滴らない程度にしっかりとつけ、先端を唇にぎゅっと強く押し当て水を絞り出していた。今考えればとんでもない行いだが、その時の私は何故か錠さんは喉が渇いているに違いないと決めつけており、完全に善意で水を飲ませてあげていたに過ぎなかった。

 二、三回も繰り返すと今度は飽きてしまい、竹串を焼香台の空いている場所に置くと手持ち無沙汰に辺りを見回してみる。が、見るべきものは何もなく、祖父はどこまで行ったのか物音一つしない。

 そうやって所在なさげに何度か辺りを見回していると、不意に錠さんと目が合った。


 いつの間にか錠さんは体を起こしており、白く濁った片目だけをあけ、半開きの口から涎を垂らしながら私を見つめていた。

 あれ、大丈夫だったのか。そう思った私は挨拶をしようとしたが、喋ってはいけないことを思い出して慌てて口を噤む。

 どうしよう、祖父を呼びに行ったほうがいいだろうかと逡巡していると、錠さんは手を伸ばして私の腕を掴むと、心なしか口角を上げてこう言った。


「じゅん、俺以外にはやるなよ」


 そう言うと、錠さんは再び仰向けに倒れ込み、そのまま動かなくなった。


 疲れて寝ちゃったのかな、だとすれば悪いことをしたなと思っていると、再び廊下から、今度はよく聞くどたどたという足音がする。


 間もなくして襖が開くと、祖父と一緒に先程の娘さんが顔を覗かせた。私は早く車に戻って今の出来事を祖父に伝えたかったのだが、錠さんの布団が乱れ、更に腕まで外に出ている様子を見た祖父は怒りの表情を浮かべ、私の肩を掴みながら錠さんの方を指さした。

 私は必死に頭を振って自分は何もやっていないと示そうとするのだが、祖父は今にも大声で叫びそうな顔で私を見つめてくる。

 困り果てた私は藁にも縋るかのように娘さんを探すが、いつの間にか姿が見えなくなっていた。どうしようどうしよう、でも喋っちゃいけないし……私が今にも声を上げて泣き出しそうになっていると、すっすっと畳を滑る音と共に娘さんが私と祖父の間に割って入り、お待ち下さいと身振りで示すと部屋の四隅に何かを置き始めた。

 すると得も言われぬ良い香りが漂い始め、部屋全体が薄い靄に包まれ始めた。


「もう喋っても結構ですよ」

「おお、春ちゃん助かったわ。こら純!お前何した!仏様に触るたぁなんつぅ罰当たりな」

「違うよ!水をあげてたら錠さんが起き上がって……」

「はぁ?お前はなんでそういう嘘を」

「駿さん、待って下さい。純くん、本当に父が起き上がったの?」

「は、はい……」


 私は大きな足音がしてからのことを全て話した。

 喉が渇いてると思い、ちょっと多めに水をつけて飲ませてあげたこと。片目と口を開けた錠さんが起き上がって自分の腕を掴み、こう言ったこと。

 話し終えて祖父を見ると、納得していない様子でぶすっとした表情だったが、娘さんの方はうんうんと何度も頷き、心なしか目に涙を溜めているかにも見えた。


「分かりました。駿さんも、あまり純くんを叱らないであげて下さい。父の体は私が直しておきますから。本日はわざわざありがとうございました」


 娘さんのその一言に流石の祖父もそれ以上は追求出来なくなったのか、帰りの挨拶を済ませて二人帰途に就くことになった。車中ではお互い一言も発さず、帰ってからも、というかその日以降、祖父が亡くなるまでこの日の話は一度もしなかった。


 後年、また別の親戚が亡くなった時は私が末期の水をとることはなく、いつも祖父母や両親が葬儀に出かけるだけだった。いつの間にか記憶の片隅にしまわれていたこの出来事が再び浮上したのはつい先年、祖父母が相次いで亡くなった時のことだった。

 悲しみは未だ癒えないものの葬儀社の方が末期の水をとるように勧め、息子である父、母、私の順で行うことになった。


 家にあった透明なガラスの容器に水を張り、葬儀社側で用意してくれた先端に脱脂綿のついた竹串で父が、母が末期の水をとってゆく。

 自分の番となった私が母から竹串を渡された瞬間、ふとあの日の出来事が鮮明に蘇ってきた。


 もしかすると多めに水を付けて飲ませてやれば、祖父もあの時の錠さんのように起き上がってくれるのだろうか。

 だとすればその時、祖父は私に向かってなんと言うのだろうか。


 錠さんの言葉を思い出した私は、湿らせるだけに留めた脱脂綿で祖父の唇を拭いてやると、なんともいえない気持ちで今にも目を覚ましそうなその顔を眺めるのであった。


未だ分からない点は多々ありますが、現場に居た人間で今生きているのは私だけなので、もう確かめようがありません。これを読んだ方はどうぞ、末期の水をとる際はご注意下さい。

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