井戸の月
8月の通り雨は涼感とはほど遠く、生ぬるい風を連れてくる。
雨上がりはムッとした温気が立ち込めて、呼吸をするのも不快だった。
辰野かえでは傘をちょっと持ち上げ、アスファルトから立ち上がる湯気を眺める。
蝉時雨。
思わずため息が漏れた。
ひと雫の汗が額から頬を伝う。
片手に下げたマイバッグには、日持ちする食品が入っている。おひとり様分だが、豆乳や醤油なんかも買ったから、結構重い。
ここからアパートまでの距離を考えると、うんざりした。
もう少しスーパーに近いところに引っ越そうか、などという考えを弄ぶ。
どうせそんな気力もないくせに、と、口元に苦い笑いが浮かんだ。
あの日から時間は止まったままだ。
突然のことだった。
夫と2人の子供たち、それにかえでの両親が、共に土砂に埋もれたのは。
お盆に久々の帰省をしたら、実家の裏山が崩れたのだ。
生き残ったのはかえでだけだ。
子供たちは6歳と4歳だった。
今生きていたら、とは考えないようにしている。無意味だから。
自分の年齢を数えることも、すっかりやめてしまった。
ただ黙々と日々を過ごす。
生きているのか死んでいるのかもわからないまま。
夫の死は、住まいを失うことでもあった。
それまで暮らしていた社宅を出なければならなかったから。
それにしても暑い。照り返しのせいで眩暈がする。
蝉時雨は一段と激しさを増す。
かえでは立ち止まった。このままじっとしていたら、死ねるのではないか。
それならそれでいい。
もう、歩きたくなんかないから。
蝉の声が喧しく響いている。短い命は騒音になって、青空に四散していくようだ。
忌々しいほどに青いあの空。遠くの入道雲が、青空をそこだけ白く塗り潰しながら輝いている。
歩きたくないのではない、もう一歩も歩けないのだと、突然気付いた。
ジリジリ照りつける太陽は、晴雨兼用の傘を無視する勢いでかえでの体を焼き、アスファルトから立ち上る湯気は、陽炎にとって変わられつつある。
だが、致命的な真夏の昼下がりも、凍てつく真冬の深夜も、もはやかえでには何の意味もない。
自分が壊れているのだということは、何となくわかっていたが、それもまるで他人事としか思えなかった。
わんわんと響く蝉時雨が頭蓋を締め付け、思考を侵蝕していく。
断片的に去来する、形のないものは、虚しさなのかそれとも…。
ふと巡らせた視線の先。
道路の反対側にあるのは、鬱蒼と木々を茂らせる空き地だ。
かつてはその中に、建物があったのかもしれない。
この辺りには、空き家や廃屋が点在している。かつてニュータウンと呼ばれた住宅地だが、いまは過疎化に歯止めが効かないのだ。
私鉄の路線が変更されて、最寄駅が廃止になり、新駅からは遠くなってしまったのが原因らしい。
〝私と同じ〟
自嘲を通り越して、単なる事実の認定。
街も自分も、白昼夢の中で緩やかな死に向かっている。
その空き地に見て取れるのは、道路に面した石垣と、それを真ん中辺りで分断する階段だ。
道路からは、かなり高さがある。
珍しい積み方の石垣。確か、野面積みとかいっただろうか。自然石の形を活かす、古いやり方のはずだ。
この住宅地では他に見かけたことかない。
中央の階段は、家の玄関に続いていたのかもしれない。
これも石でできていたが、自然石に近い石垣の石とは違って、表面は平らだった。
石垣の上に伸びた夏草には、まだ雨の名残りの水滴が光っていた。
キラキラと陽光を反射する水滴は、眩しいけれども爽やかな清涼感を運んでくる。
だからかもしれない。
かえではまるで蝉時雨に誘われるように、階段を登っていた。
かえでは、我に返って息を吐いた。
蝉時雨の音量は凄まじかったけれど、アスファルトの路上とは別世界だ。
容赦ない陽射しは、伸びすぎた木々に遮られ、道路の照り返しがない分だけ足元は涼しい。
空き地とはいえ、勝手に他人の地所に侵入している訳だが、気が咎めたのは一瞬だけだった。
あのまま路上で倒れるよりはまし。これは緊急避難だ。
言い訳にもならない言葉を自分に呟く。
ずっとさしていた晴雨兼用の傘をたたみ、
マイバッグを反対の手首に持ち変えて、汗ばんだ両の手のひらをワンピースで拭った。
そうしながら見回すと、ここは確かに家が建っていた場所のようだ。
石垣の上には木の柵の痕跡がある。思った通り、階段を登り切った左右には門柱の基部が残っていて、その間に細長い切り石を敷いたアプローチが続いていた。
空き地は見かけよりずっと奥行きがあるようだ。茂った木のため奥は見えないが、木々の下は草があまり伸びていないし、通路部分は石が敷き詰められていて歩きやすい。
数歩進むと、通路脇の草の中に鮮やかな色彩がのぞいていた。
三輪車。
フレームのところどころにサビはあるものの、ハンドルやサドルには鮮やかなピンクの色彩が残っている。
それは、空き地の様子からすると、ひどく真新しく見えた。
近所の子供が乗り捨てたのだろうか。
三輪車の横には、小さな靴が片方だけ落ちていた。5歳くらいの女の子が履くような運動靴。これもまだ新しい。
〝何かあったんだろうか?〟
ふと、そんな疑念がよぎった。
乗り捨てられた三輪車、片方だけの靴。
この靴の持ち主はどこへ行ったの?
石垣はかなり高さがある。子供が道路に落ちたら危険だ。
かえでは首を傾げながら、更に奥へ進んで立ち止まった。
〝ずいぶん大きな家だったのね〟
かつて家が建っていたらしい場所には、崩れた家の残骸が残されていた。
平家だろうか。それなりの建坪がありそうた。木造家屋の瓦礫は、灌木と夏草に半ば覆われている。
近寄って見ると、残骸の中に雑誌の束らしいものがあるのに気付いた。
子供の頃に読んだことのある、少年漫画週刊誌のようだ。
それが何冊か束ねられている。
何とはない懐かしさを覚えて、そっと触れてみた。印刷はすっかり色褪せ、紙は表面がでこぼこした、灰色の何かに成り果てている。
数冊を束ねていた紐は、残骸しか残っていなかった。1番上の雑誌をちょっと持ち上げたら、パリパリと軽い音を立てて分解してしまった。
その下から覗く次の表紙は、辛うじて読み取れる部分が残されている。
平成…3年?
かえでは首を傾げた。
34年前の日付けだ。彼女が生まれる前からずっとこれはここにあったのだろうか。
家が廃屋になって崩れ落ちたのはいつ頃だったのか?
さっきの三輪車は、やはりこの家とは関係なさそうだ。あまりに新しすぎる。
そんなことを考えながら、かえではふと違和感を感じた。
何かが奇妙だという感覚。
なぜだろう?
答えははっきりとそこにあるのだが、言葉としては出てこない。もどかしさを感じたその時、視界の端を鮮やかな色彩が通り過ぎた。
タタっという、軽い足音と共に。
〝女の子?〟
崩れた廃屋の向こう、灌木の茂みに見え隠れするのは子供、小さな女の子らしい姿だった。
あの三輪車の子?
圧倒的な緑のボリュームの中にチラチラするのは、その子の上着の赤い色。
ふんわりした赤いノースリーブの下は、ベージュの5部丈のパンツのようだ。
少女の姿はすぐに緑の向こうに見えなくなった。
〝子供は元気ね〟
かすかに胸が痛んだ。
こんな真夏の昼下がり、駆け回る体力があるのは、子供たちだけかもしれない。
あの子たちはもう駆け回ることはないが。
それにしてもここは涼しい。日陰ではあるけれど、と考えて、かえでは不意にさっきの違和感の正体に気付いた。
〝蝉が…?〟
あたりを見回す。
気のせいではなかった。あんなにもやかましかった蝉時雨が、完全に止んでいた。
辺りは奇妙にしんと静まり返っている。
〝どういうこと?私が来たから?〟
だが、そんなはずはなかった。
すぐ横にある木だけなら、人の気配で蝉が鳴き止むことはあるだろうが、空き地全体の蝉が一斉に沈黙するなど考えられない。
〝何かしら?又雨でも降るの?〟
そういえば、妙にひんやりした風を首筋に感じる。
傘もあるから、仮にまた降り出しても問題はあるまい、そう気を取り直して、また瓦礫に目を向けた。
繁茂した植物のせいでよくは見えないが、雑多な家財道具が一緒に埋もれているようだ。手前に見えるのは箪笥の残骸、あちらに見える平らな板は、ダイニングテーブルの天板だろう。絹ものらしき布の堆積。大量の食器は完全な形を保ったものも多い。
あれは掛け軸だろうか。その横、壊れたキュリオケースの中には、陶器製の人形の残骸が覗いていた。
そのどれもが、かなり高価なもののように見える。
空き家になった経緯はわからないが、捨て去って忘れてしまうのは勿体無いような品々である。
まるである日突然、人間だけが消えてしまいでもしたような…、と考えて、かえでは内心苦笑した。
この令和の日本で、そんな怪談めいた話が成立するはずがないではないか。
その時、彼女は足元の草に隠れた、小豆色の何かに気付いた。
拾い上げてみれば、それは合成皮革の表紙を持つ、小型のノートだった。
デパートの高級文具コーナーで見かける類の品で、ボールペンより万年筆が似合いそうだ。少しくっついたページがあるみたいだが、全体的には奇跡的なほど傷みが少ない。
外側には何も書かれていなかった。
中は?
パラパラページを捲る。
日記のレイアウトではなくて、単純な罫線だけだが、文字が書き込まれている。
全ページの半分位までが埋まっていた。男性の筆跡に見えるが、そう断言できる根拠は見当たらない。
最初のページから数ページを拾い読みした限りでは、アポイントメントや予定が几帳面な文字で記されている。
件名、人名、場所、時間…。
学会、という単語がいくつか目についた。学会のタイトルをみると、このノートの持ち主は、民俗学の研究者のようだ。
かえでは大学で日本史を専攻していたが、ゼミの教授は元々民俗学の方の人だったから、何となく親しみを覚えて更にページを繰る。
淡々としたメモが続いていくなかで、次に目を引いたのは、謎めいた一文だった。
枡形の月
ますがた…?って、あのお城の?
ゼミの教授の声が蘇る。
『この類話はいくつかあります。例えば、枡形の月という説話では…』
城の枡形とは、直角に配置された二つの門の間の、四角い広場を指す。
クランク状の通路になっていることもあるが、開口部である門以外は高い石垣や土塁、壁などで塞がれ、城に攻め寄せる敵が簡単には通過出来ない仕組みだ。
しかし、枡形の月、というのは、少し気味の悪い話である。
教授は説話と紹介したが、むしろ怪談と呼ぶべきだろう。
なぜなら…。
昔、落とされた城があった。
ウンカの如く攻め寄せる敵軍は、堅牢な城の守りを突破して、遂に落城となったのだが、その際勢いに任せて血生臭い殺戮行為が行われたという。
武士は元より、逃げ惑う奥勤めから下働きに至るまで、老若男女を問わず夥しい人々が命を落とした。
斬り落とされた首が、手足が、胴体がそこかしこに散らばった。遺体の一部は井戸や堀に投げ込まれ、天守には火が放たれた。
後に遺体が集められた枡形は血に染まり、辺りに立ち込めた腐臭と焦げ臭い臭いが何ヶ月も消えなかったという。
それから、毎年落城の日の真夜中、城の枡形の地面に月が映るのだ。
これを見た者は死ぬと言い伝えられている。
すっかり忘れていた話だったのに、いま思い出すとゾクっとした。
ゼミの教授からこの話を聞いた時は、地面に映る月なんて、あまりに荒唐無稽だと思った。だが地面に血が大量に流され、それがまだ乾かないない状態なら、あり得るかもしれない。
べっとりと粘性を帯びた、まだ凝固していない血糊。
そこに映る月影。
ノートに記された枡形の月という言葉には、強くアンダーラインが引かれている。
縁起でもない、とかえでは首を振った。
更にパラパラとページを繰る。
次に目が止まったのは文字ではなく、図だった。
略図…、この敷地の図のようだが、ところどころに印がつけられて、書き込みがされている。今居るここは、建物のあった付近だ。最初上がってきた階段の両側は石垣だったのだが、その石垣部分に○印がつけてある。
添えられた言葉は…
「襲門…?」
思わず声に出してみたが、意味がわからない。
かさねもん、は門の名前なのだろうが、石垣は別に門のような形ではなかった。
他の○印に目を転じると。
「二の丸櫓?」
この○印は、位置からしていま歩いてきた通路あたりだろう。
櫓、と書かれているが、建物の痕跡は全くなかった。ただ、細長い拍子木型の切石が敷かれていただけである。
家の裏手あたりにも○印と「閂門」。
建材のことだろうか?石垣や、敷石のことを指している?
かつて別の建物に使われていた石材を転用するのは、古今東西珍しいことではない。
ピラミッドの表面を覆っていた化粧石は、民家の建材になっていたりするし、日本の有名な城の石垣にも、誰かの墓石が混ざったりしている。
新たな石材を切り出し、運び、加工する手間を考えたら、合理的な選択であると教授は言っていた。
石は産地が限られ、硬く、重いのだから。
だとすると。
かえでは考えを巡らせる。
この近くに、城跡があったのだろうか。
ここが大規模に宅地造成されたのは、30年ほど前のことらしいが、あの石垣はもっと古くからあったように見える。
以前からこの地に住んでいた人が、建材として城跡の石材を使用した?
だとしたら、文化財保護法ができる前のことなのだろう。
今から考えたらとんでもない話だが、あの姫路城だって、かつて建材として売却されたことがある。
そういう時代ならば、朽ち果てた城址の石垣を転用することくらい、当たり前に行われていたのだろう。
そうやって人知れず失われた文化財は、いくつもありそうだ。
更にページを捲ると、今度はいくつかの人名が並んでいた。
アポイントメモではない。
人名の横に書かれた数字と単語はあまり穏当でない内容だった。
柏原 孝人(14)1989 行方不明
土岐 栄子(48)1997 〃
櫻井 美優(21)2015 〃
櫻井 大翔(7) 2020 〃
鈴木 藍里(5) 2024 ?
行方不明、はそのままの意味なのだろうが、最後の?は何なのだろう。
年齢、性別はバラバラだし、西暦と思われる数字も異なっている。
櫻井という姓の人物が2人いるが、きょうだいにしては年が離れすぎているようだ。親戚か、全くの赤の他人ということも考えられるだろう。
何気なくめくった次のページを見て、かえでは更に首を傾げた。
見出しの鈴木藍里は、?マークの5歳児に間違いないだろう。
その下に書かれた言葉。
『両親どちらかの仕業か?』
どういう意味なのだろうか。更に。
『或いは共犯の可能性あり』
かえではまゆを顰めた。行方不明、が4人。?が1人。
何らかの共通の理由による行方不明と、その理由かどうか不明な行方不明とでもいう意味なのか?
それが両親の共犯である可能性、となると、つまり手帳の主が示唆しているのは、殺人…?
2024年と言えば去年ではないか。
5歳の子供を殺す両親?
嫌な気分だった。ネットとかでそういう事件が騒がれることはあるから、個々の事情はどうあれ、世間ではままあることなのだろうけど。
しかしなぜ?
それは答えのない疑問だ。ただ、その少女は両親から愛されてはいなかったということかも知れない。
それはそれとして、ノートの主はどういう基準で、この人々の名前を並べたのだろうか?
行方不明というだけではない、何か別の共通項があるのだろうが、そのヒントは書かれてなさそうだ。
ノート自体はあまり傷んでいないものの、ページがところどころ抜けているし、真ん中あたりの数ページは茶色く変色して固まってしまっている。
乾いた手触りだが、くっついたページを剥がそうとしたかえでは、何故かそれ以上触りたくない気分に襲われた。
この色。
茶色だけじゃなくて、よく見たらドス黒い緑とか薄黄色、それに乾いた黒っぽい何かの塊が縁にへばりついているのだ。
本能的な嫌悪を誘発するのは色彩だろうか、それともこの臭い?
さっきから気になっていた微かな臭いが、少し強くなった気がする。
それはこの場所全体に纏わりついているみたいだ。
最初は、気のせいだと思っていた。
崩れ落ちた廃屋という、物悲しい舞台装置のせいだと。
家族の全員が埋もれてしまった実家の惨状がフラッシュバックして、そのために想起された幻臭に違いないと決めつけていたのだが。
何の臭いかと問われたら、答えは一言では言い表せない。
ただ重く澱んで湿った、イヤな臭気。
あの時、崩れ落ちた実家の裏山の土砂からは、ただの土だけでない臭いがした。
独特の奇妙な生臭さの正体は複雑だ。
カビのにおい、動物の組織が腐り、潰れた植物組織が分解していく断末魔の腐敗臭。
そうだ。この臭いは、あの時の土砂の臭いと似ている。
かえでは思わず、手にしたノートを取り落とした。
無意識に手を服で拭う。何故だか、もう二度とこのノートには触りたくない。
ノートは、開いたページを上にして瓦礫に乗っている。
そこに大きく書き殴られた文字が目に入った。
『孤独』
かえではその文字を凝視した。
ページの真ん中に大きく、強く書かれたその言葉のまわりは、グルグルと何重にも囲われて強調されている。
その下には、読みにくい文字の走り書きが数行。辛うじて読み取れたのは、
『孤独があれを呼んだ』
その他は殴り書きに近く、判読不能だ。
孤独…?呼んだ?何を…?
孤独とは、まさに今のかえでの境遇だ。
あれ以来、ただ引きこもるようにして、何もかもかもに背を向けてきた結果、友人や親戚、パート先の同僚など、少しでもかえでを気にかけてくれていた者は、みな去っていった。
見捨てられた、と言えば語弊がある。
無理のないことだった。一瞬にして家族の全てを失ったかえでに、誰が掛ける言葉を持っていただろうか。
少しでも常識やデリカシーがあれば、いかなる言葉も無意味と気づくだろう。
何とか寄り添おうとしてくれた友人もいたが、結局、皆がかえでとは距離を置くようになっていった。時間が解決すると、そう考えた人もいただろう。それに彼女らの感じている後ろめたい気分も、かえでにはわかっていた。
つまるところ友人たちは、自身の大切なものをいちどきに失ったわけじゃない。
そのことに無意識の安堵をおぼえ、そういう自分に後ろめたさを感じる。
立場が逆ならかえでだって同じだっただろうから、そんなことで嫌な気持ちになって欲しくはない。
だから、人々と疎遠になった時に感じたのは、むしろ微かな安堵感でもあった。
このまま独りで壊れてしまっていい。
そうすれば誰かに迷惑をかけなくてもすむから。
それはそうなのだが…。
かえでは、ノートの文字から目が離せなかった。
孤独。
そう、確かにそれこそが今のかえでの全てを表す言葉に違いない。
その時、突然の物音が、かえでを現実に引き戻した。
かえでは、はっとして顔を上げた。
〝今のは、水音?!〟
音のした方向は、廃屋の裏手である。
そちらは茂った灌木や高木の陰になっていて、こちらからは見通せない。
〝あの方向は、確か!〟
思うなり、その場に荷物を振り捨てて駆け出した。あっちは、あの女の子が走って行った方だ。
さっきの水音は、少しこもった感じだが、かなり大きな音だった。
何か重いものが、深さのある水に落ちた音である。
音は一度きりで、あとは何も聞こえない。
あちらに池でもあったのだろうか?
まさか、さっきの子が?
廃屋の堆積物を大きく迂回して、かえでは走る。
ずいぶん長いこと走っていなかったから、すぐに息が切れたが、そんなことにかまっている場合じゃない。
葛の蔓に足を取られそうになりながらも、かえではあの子が消えた方向へと急いだ。
木の間に石を敷いた道が伸びている。
あの子はここを通って行ったに違いない。
そのまま更に道なりに進むと。
〝あれは、井戸だ!〟
裏庭と思しき場所、道の突き当たりに、四角く石を敷き詰めた3畳ほどのスペースがあった。その中央あたりに、頑丈そうな石組みと、そこを覆うように作られた屋根がある。母屋は倒壊しているが、井戸の屋根は健在で、四隅の柱やつるべを吊るした滑車までが見てとれた。
かえでは夢中で井戸に駆け寄って中を覗いた。
〝え…ここじゃなかったの?〟
さっきの今である。
もし、女の子が落ちたのなら、そのまま沈んだとしてもまだ波紋は収まっているはずがない、
しかし、はるか下に光る水面には、全く波紋が見当たらない。
〝良かった。でも、あの子どこに行ったのかしら?〟
そう思った途端、背後で笑い声がした。
くすくすと、それはとても楽しそうな女の子の声だ。目の端にチラッと赤い服が動いて、石畳を踏む軽い足音が遠ざかる。
〝ああ、無事だった〟
安堵の胸を撫で下ろし、かえでは再び井戸を振り返った。普通、使わなくなった井戸は転落防止のために蓋をするものではないか?
あんな小さな子が出入りする場所に、これは危なすぎる。かなり深そうだし。
かえでは、再度井戸を覗き込んだ。
〝やっぱり誰かに知らせるべきよね〟
湿っぽくひんやりした空気と、苔みたいな臭い。水面には、丸い光が浮かんでいる。
かえでは、ふと違和感を感じた。
〝あの光、どこかおかしい…〟
最初、井戸の上から丸く射しこんだ光が水面に映っているのだと思ったが、どうもそんな感じではないのだ。
井戸を覗いた経験はあまりないものの、こんなふうではなかったはずだ。
井戸の内壁の苔や何かが映り込むし、井戸を覗いた自分の姿も、水面に陰を落とすはずである。
なのに、水面の光は丸いまま。
まるで満月のような…まるで、光源は別にあるかのような。
目をぱちぱちさせて、かえでは井戸から離れた。まあ、何かの理由がある現象なのだろう。それより、ここのこと、アパートの大家さんに聞いてみないと。
とりあえず、井戸をスマホで撮影した。
大家の美津江さんは宅地造成される前からこの地域に住んでいた人だから、きっとここの廃屋のことも知っているはずだ。
そんなことを考えながら、荷物を放り出した場所に戻った。
〝そうだ、もう一つ〟
気になっていたことを思い出した。しかし瓦礫の上のあのノートには、二度と触りたくない。
かえでは周囲を見回して、手頃な枝を拾い上げた。
枝の先でノートをめくる。
やっぱり何か臭う気がして、どうにも気が進まない作業だが。
とにかく、必要なページをスマホで撮影した。
スマホをしまい、マイバッグと傘を拾いあげて、廃墟に背を向ける。来た道を逆に辿って、あの三輪車の脇を通った。
〝靴がない?たしかここにあったはずだけど〟
周りを見回したが、あの小さな運動靴は見当たらない。
〝さっきの子が拾っていったのかな〟
それが妥当な線だと、かえでは頷いた。
靴はあの子のもので、三輪車はあの子とは関係なかったのだろう。第一、あの階段を三輪車を持って上がるなんで、あんな小さな子に出来るはずはない。
長居は無用だ。あの子はもうどこかに行ってしまったみたいだし、この場所のそこはかとないイヤな感じが鼻につく。
かえでは階段を降りた。
暑い。半分も降りないうちに階段と石垣、それにアスファルトの照り返しがいちどきに襲いかかってくる。
階段の途中で立ち止まって、傘を開いた。
その時、背後で蝉が鳴き始めた。
振り返ると、最初1匹の鳴き声と思えたそれは、あっという間に大合唱となり、眩暈さえ覚える暴力的な音量で、かえでの鼓膜を圧倒した。
「井戸ですか?」
冷えた麦茶をテーブルに置いて、玉置美津江は首を傾げた。
かえでは頷く。
アパートの大家である玉置は、60代半ばくらいの寡婦だ。夫は数年前に他界していて、子供はいないと聞いている。
ふっくらした丸顔で、話好きな彼女は、この辺りの土地を何筆も所有していた。
それらは実の両親から相続したもので、このアパートも税金対策らしい。相続がかかるたび土地が目減りすると、笑いながら話す彼女からは、物欲は感じられなかった。
おしゃべりて事情通だが、どこか超然とした態度が心地良くて、かえではしばしば彼女を訪ねる。
美津江は以前、高校の教師だったとのことで、出身大学が同じという偶然から、親しくなるのに時間はかからなかった。
「仰る辺りなら、櫻井の屋敷跡があるわね。たしか、裏手に井戸があったはずだけど、でもあそこは…」
美津江は、困惑したように言い淀んだ。
櫻井?
あのノートにあった行方不明者の中にその姓が二人いたはずだ。
「櫻井、ですか?あの、それってどういう人たちなんでしょうか?」
「ああ。昔、ここいらの領主だった一族なのよ。でも代々、あまり周りとは付き合いがなかったわね。いつのまにか廃屋だけが残されてたけど、住人がどこへ行ったかは、誰も知らない。櫻井ってば、戦国の頃、高井戸ってとこに山城を構えてたらしいわね。今は城跡もよくわからなくなっちゃってるけど、まあ由緒ある一族ってことになるんだろうけど。ああ、櫻井って言えば、春ごろだったかしら、櫻井宗馬って人が訪ねて来てね。高井戸の城址の場所を教えて欲しいって。」
「その人はなぜ美津江さんを?」
「現役の頃、私この辺りの城跡について、地方の学会で発表したことがあるのよ。郷土資料館でその原稿を見たとかで。櫻井宗馬さんは民俗学者で、その櫻井一族の出だって言ってた。自分が最後の直系だともね。」
「最後の…。」
「家族はいないとも言ってたわ。天涯孤独、だって。私と同じね。」
美津江はそう言って微笑む。
かえでも微笑みを返したが、しかし。
〝天涯孤独とは、大家さんより私に相応しい言葉だ。美津江さんには、それでもまだ社会との繋がりが沢山ある。でも私には…。〟
それからふと思った。
その櫻井宗馬という民俗学者が、あのノートの持ち主だとしたら…?
強調されていた、『孤独』の文字。
その言葉をグルグルと囲んだ線の強さ。
紙が破れそうなくらい、筆記用具が折れかねないくらいの、あの…呪詛。
なぜ呪詛などと感じたの?突拍子もない言葉だ。なぜ…
それに、孤独が何を呼ぶというのか?
「かえでさん?」
訝しげな美津江の視線に、かえでは我に返った。
同時に立ち上がる。
「ごちそうさまでした、美津江さん。それじゃ。」
「かえでさん…?」
取り繕う笑顔を残して、かえではそのまま美津江の家を後にした。
「かえでさん、どうしたのかしら?井戸は、櫻井屋敷の井戸のはずはないんだけど…。」
美津江は、茶器を片付けながら独り言を呟く。近頃独り言が増えた。歳のせいなのだろうと思いつつ。
「櫻井屋敷に上がる階段が崩れて落ちてから、もう10年近いわよね。」
かえでは帰宅してまず、スマホを充電コードにつないだ。スーパーで買ったものは、袋ごとそこらに置いたまま、何かにせき立てられるようにして検索を開始した。
とはいえ、あまり捗々しい成果はなかった。
櫻井一族について、おおよそ美津江が言った通りのことがわかったが、表面的な情報にしかすぎなかった。
人名リストについては、全くヒットなし。
同姓同名のヒットはあったものの、年齢が食い違っている。行方不明と書かれていたが、そのような行方不明者は検索に引っ掛からなかった。大人ならともかく、子供の行方不明者ならば近親者などが届けを出していないはずはないのだが…。
それに皆、ネットとは無縁の人生を歩んできたようだ。もっとも、匿名アカウントはかえでには探しようがないし、ネットに個人情報を晒す人の方が珍しいとは思う。
櫻井宗馬については、今年40歳という年齢と、確かにそういう名の学者がいることはわかったものの、あとは雲を掴むような話だった。
地方の小さな大学の准教授を昨年退職した後は、その足跡が完全に途絶えている。
もともと、SNSなどをやっていた形跡はない。
大学のある地方都市名や、参加したらしい学会の種類を見る限り、あのノートはやはり櫻井宗馬のものだろうとは推測できたが
そこまでだった。
どれほどの時間検索を続けていたのだろうか。
気がついたら、いつの間にか日は暮れ、室内は薄暗い。
照明をつけて、ノロノロと買い物の整理を始めた。
どうにも気になるのは、あのノートに書かれた『孤独』の文字列だった。
櫻井宗馬は何を言いたかったのか?
或いは何を見つけたのか?
テーブルに置いたスマホを再び手に取って、かえでは写真ファイルを開く。
あの井戸。2枚の写真は、少し離れた場所から撮った全景と、井戸の真上から撮ったものの2枚だ。確認するのは撮影後初めてだったが、まあまあよく撮れていた。
真上から撮った一枚には、しっかりと井戸の水面が映っている。
これなら誰でも危険性がわかるだろう。
明日もう一度大家さんを訪ねて、これを見てもらおうと、かえでは心に決めた。
それにしても。
この、イヤな臭いはなんだろう?
ゴミは今朝出したし、腐るようなものは何も室内にないはずなのに…。
かえでは、井戸の写真から目を離して、室内を見渡した。
やはり臭いの素になりそうなものは見当たらない。
〝まあいいわ。お隣かもしれない。よくゴミ出し忘れるもんね、あのお婆ちゃん。
次は声をかけてあげようか〟
そう思って、スマホに目を戻した。
井戸の水面には、丸い光が映っている。
翌日。
〇〇県警××警察署に、玉置美津江の姿があった。
温厚な丸顔は、すっかり強張り青ざめているように見える。
「そうすると、夜中に不審な物音がしたと、知らせてこられたのは、辰野かえでさんの隣室の方なんですね?それで、大家さんであるあなたは、その人と一緒に辰野さんの部屋へ行かれたと?ここまでよろしいですか?」
中年の警察官の質問に、美津江は頷いた。
「その時、鍵はかかっていた。それであなたは鍵を開けて、あの状態を確認した。」
美津江は頷いた。こわばった顔に痙攣が走る。
もう、わかることは全て話した。
何度も何度も。
今は、内容の確認作業だ。
それはさらにしばらく続いた。
「うわっ、こりゃひでぇな。」
辰野かえでの部屋の写真を見ながら刑事が呟く。
「まだ見つかってないんだろ?この辰野ってガイシャ、家族を去年の豪雨災害でなくしたってなぁ。踏んだり蹴ったりって、このことだよ、気の毒に。」
「被害者と決まったもんじゃないがな。なんせまだ遺体は出てないし。」
「DNAは独り分。辰野かえでのものだけだ。部屋中に撒き散らかされた血の量からして、生きていられるはずはないだろうさ。肉片もわずかだが出ている。まるで、なまくらな刃物でぶった斬って飛び散った破片みたいな…」
言いながら刑事の顔は歪んだ。現場を見た印象では、正気の沙汰じゃない。
捜査本部は複数人の犯行と推定している。
血液など遺留物の鑑定から、被害者は生きたまま解体されたようだ。
「だが、犯人の遺留品は皆無だ。こんなことがあり得るか?複数の犯人があれだけ暴れ回って、なんの痕跡も残さず消えるなんでバカな…」
迷宮入り。
イヤな言葉が刑事たちの脳裏に浮かんだ。
「なんか違うんだよな。これは…本当にいるんだろうか、犯人が?」
「お前まで何を言い出すんだ?」
「そういうおまえも、感じてるはずだけどな、これは違う、ってな。」
刑事たちは一瞬見つめ合い、同時に目を逸らした。お互いの目に浮かんだ感情、自分と同じその感情から、目を背けるように。
〈完〉
初めてホラーに挑戦してみました。
ホラーとして成立しているかは微妙ですが、
お楽しみいただけたら幸いです。
評価、ご感想などもいただけたらうれしいです。