表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/8

第7話

 教室を抜け出して取った突然の電話の向こうで、晴夏のマネージャーが暗い声で叫んでいた。はるか、たおれていた、びょういん、と耳から入る音が、最初はうまく言葉として飲み込めなかった。


 今朝も一緒にいた彼女が、どうして?


 理解がまるで追いつかないまま、わたしは乱暴に鞄をつかんで講義室を飛び出した。つんのめるようにして廊下で転んだ。目についたタクシーを止めるが、焦る指で病院の住所をうまく検索できず、走り始めるまで時間を浪費した。心臓がずっと喉元で跳ねていた。街の風景はピンがずれて、ぼやけて見えた。

 悪い冗談であってほしいと願った。


 病院に駆け込むと、消毒液の匂いが鼻腔を刺した。

 転がるように病室に入ったとき、晴夏はすでに処置を受け、ベッドに横たわっていた。規則正しく胸が上下している。瞼は固く閉じられている。カーテンから差し込む鈍い陽光を受ける彼女の顔は、あの鮮やかな彩度を失っていた。

「睡眠薬を過剰摂取したようです。ほんの短い時間だけ意識を取り戻したのですが、それきり——」

 連絡が付かなかった彼女を部屋で見つけたマネージャーは、病院の廊下でそう告げ、申し訳なさそうにどこかに謝罪する電話を再開した。

 彼女は、一度だけ意識を取り戻したとき、混濁した意識で、歌声ともうなり声ともとれる何かをスマホに吹き込んでいたという。

 真っ暗な画面のスマホが、ベッド脇のテーブルに横たわっている。それは黒さは死を連想させた。


 奥歯が、かたかたと鳴った。

 晴夏が睡眠薬を? なぜそんなものを? いつも笑っていた彼女が? なにをしようとしていたの? 喉の奥が締め付けられた。

 思考は渦を巻き、過去の出来事を必死にさかのぼった。少し疲れている様子はあったけれど、わたしたちは今朝も未来のことを話していた。次のMVについて、ユニットのネーミングについて、開設するSNSについて……。信じられない気持ちと目の前の現実が交錯し、混ざり合って濁った。


 「……お願い……」

 わたしは彼女の手を掴み、目を開けてくれることを祈った。

 ひんやりしたその手は、いつかのようにわたしの手を握り返してはくれなかった。


 何が晴夏を追い詰めたのか。

 医師に訊いても、昏睡状態の詳細と耳慣れない薬剤の名前以上の手がかりはなかった。

 意を決して、晴夏の部屋に足を踏み入れた。申し訳ない気持ちは、抗えない激情と研いだ決意が押し流した。


 ドアを開けた瞬間、彼女の匂いが押し寄せてきて、わたしを苦しくさせた。

 かわいらしく優しいインテリアは、彼女を映し出しているように見えた。机には楽譜と鉛筆が積まれていた。机の一角で、睡眠薬が散らばっていて、そこだけが、部屋の雰囲気にまるで似つかわしくなかった。横の本棚にはわたしの作品集と画集が並んでいた。窓辺には、小さな観葉植物が置かれていた。主を失ったグランドピアノが、やけに黒々しく見えた。


 部屋を探っていると、机の一番下の引き出しが施錠され開かないことに気づいた。引いても、押しても、微動だにしない。側面には小さな鍵穴がある。

 鍵を探して、机、クローゼット、本棚を何度も行き来する。だが、どこにもそれらしきものがない。服のポケットや古い家電の箱の中やリビングまで探したが、やはりなかった。

 無意味に、ぐるぐると同じ場所を巡る。わたしは、深いため息をついた。


 ふと、夜半にときどき感じていた、かすかな共々感覚を思い出した。

 小さく光る銀色が、海底のような黒に落ちる感覚。晴夏から届いていた色。あの色は——。


 目を閉じて感覚を辿る。

わたしは、グランドピアノに近づき、屋根をそっと開け、支柱を立てた。駒と側板の隙間で、何かが光る。

 そこに、鍵があった。鍵は裸のままで、触れるとひんやりと冷たかった。


 鍵を回し、引き出しを開ける。引き出しは、中に入った物の重みで、勢いよく手前へ滑った。

 中にあったのは、書きかけの楽譜。わたしからの手紙。二人で撮った写真。ノート。

 一つひとつが、わたしの胸を締め付けた。楽譜には、何度も消しては書いた歌詞が途中まで書き込まれていた。高校生時代に、彼女のはじめての曲への感想をわたしが書いた手紙もあった。大判の写真には、大学の入学式の日に着慣れないスーツを着て笑う二人が写っている。

 そして、表紙に何も書かれていない、緑色の厚いノートを手に取った。

 予感がする。ためらいながら表紙を開くと、手書きの文字が並んでる。


 それは、晴夏の日記だった。

 わたしは、晴夏にいつか質問をしたことを思い出していた。嫌なことがあったとき、彼女がすること。

 心の中で彼女に深く謝り、ページをめくった。


 語られなかった言葉が、晴夏の筆跡で叫んでいた。


          ◇


   9月2日

   いい曲ができた。

   美穂にも新しい装丁の仕事が来た。

   うれしい。

   今日は美穂が家事ぜんぶやってくれたから、明日は私がやる。


   9月11日

   変だ。音が色に見えないときが、あった。

   美穂もそばにいた。気のせいだと思ったけど、2回あった。

   色が、ぼやける。


   9月18日

   イベントをこなせてよかった。

   音が色にならないことが増えてきた。今日は4回。

   曲がつくりにくい。

   あの感じが消えてく。

   自分じゃなくなってく。

   

 冷たい汗が背筋を走った。わたしは拳を握りしめていた。

 わたしは何も知らずにいた間、彼女は孤独に苦しんでいたのだ。

 日記は、彼女らしくない乱雑な文字に変わっていく。


   9月20日

   隠すのしんどい。

   音楽を色に変えるから、一緒にいられるのに。

   感覚を分かち合えなくなったら、どうなるんだろう。

   こわい。


   9月24日

   クソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソ

   やだやだやだやだやだやだやだ

   色が見えない

   いっしょに作れない。いる理由がなくなる

   私はゴミ

   あなたに言えなかった


   9月25日

   なんで、あなたは気づかないの?

   ぜんぜん音が見えなくなったのに

   もしかして


 息をのんだ。

 たしかに、わたしはずっと不自由なく、色を聴いて描いていた。

 喉がひりついて、鼓動が暴れた。手のひらがじっとりと汗ばんでいることに気づき、ページから指を離した。

 

   9月26日

   美穂だけ色を聴けてる?

   →私からのテレパシーじゃない?

   →美穂の中だけ共感覚

   →いつも一緒にいるから気づかない

   →一緒にいないときはなんで???


   9月27日

   わかった

   あなたは思い込んでる


   9月29日

   ずるい

   あなたは私がいなくても色を聴ける

   盗られた

   私だって作曲に色が必要なのに

   笑ってる顔がつらい

   よろこぶふりしたくない

   私は空っぽなのに

   あなたが聴いた色なんてどうでもいいのに


 私の滑稽さは残酷だった。

 うまく呼吸ができない。


 もう、晴夏の身に起こったことで傷ついているのか、彼女の言葉で傷ついているのか、自分の愚かしさへの責めで傷ついているのか、わたしは気持ちを切り分けられない。働かない頭で、整理しようとする。


 晴夏は、共々感覚を失ってしまっていた。それを隠し通していた。

 わたしはいつの間にか、自分だけの力で、色を聴いていたのだ。

 わたしだけが得たのは、音を色にする、ある意味で一般的な「共感覚」だった。


 わたしは、自分の脳を思う。

 幾度も刺激されるうちに、感覚野に特殊な電気信号の通り道が生まれる様子を思う。

 特別な電気信号の通り道をうしなった彼女の脳を思う。

 あるシナプスとシナプスのつながりが、永久に損なわれる様子を思う。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ