第6話
シーツが擦れる音は、うっすらと虹色を描く。
月の光が、カーテンの隙間からそっと差し込んでいる。セミダブルのベッドで身じろぎするたびに、衣擦れの音が次の色を生んでいく。柔らかなラベンダー・イエローからオーキッド・パープルへ。晴夏も、表情から同じ美しさを感じているのが分かる。
そっと晴夏の肩に触れる。彼女の吐息の音は、ペール・ミントの輝きを放った。その色は、夜の冷たさを和らげるあたたかさを伴い、わたしたちを包み込む。晴夏がわたしの髪を撫でると、淡いパープルがちらついた。晴夏の爪は、ピアノを弾くために短く切り揃えられていて、くすぐったい。わたしは、アイリス・パープルのくすくす笑いをこぼした。
微笑み合い、同じ感覚を味わう。
晴夏がつばを飲み込む小さな音が、紅い波紋となって広がる。
わたしは、その色から晴夏が何を求めているのかが分かった。
「美穂から聞こえる色は、特別」
少しあとで、ささやきから生まれたサファイア・ブルーが、わたしたちを染めた。
共々感覚が、身体より近くに二人を結びつけている。もう言葉はいらなかった。
わたしたちはきっと同じ色の夢を見ながら、眠りについた。
夜にしじまに少し目が覚めたとき、深海のような黒に小さな銀色がまたたいた。
わたしたちは、いつも一緒にいる。部屋の中だけでなく、出かけるときも。
晴夏が、なによりのインスピレーションになる。彼女の顔を見ながら、彼女の音を描ける幸せ。晴夏がいなかったら、絵を描き続けられなかった。大学にも入れなかった。ずっと一人だった。
晴夏もまた、わたしの絵でインスピレーションが湧くのだと言う。
「美穂がわたしの曲を素敵に描いてくれるから、次の曲を作りたいと思うの」
胸の奥で、ひそやかな炎が揺らぐ。わたしも、彼女のためにもっと描きたいと思う。二人でいれば、世界は鮮やかだ。
◇
観客席が静まり返る。暗闇のなか晴夏が鍵盤に指を落すと、最初の音が会場に響き渡った。
ピアノの隣で巨大なキャンバスに向き合うわたしが、スポットライトで照射された。冒頭の音に合わせ、モンドリアン・レッドの色をのせて大きな絵筆を走らせた。
晴夏が奏でる音が、次々とわたしの筆を通してキャンバスへと導かれていく。
力強いメロディーが真紅のうねりへと変わる。素早いトリルが、ホワイトの彩りを加える。
「ライブペイントライブ」。そう銘打たれたイベントは、音楽と視覚が一体となるパフォーマンスだ。ライブペイントと音楽のライブを組み合わせた造語。晴夏が即興を織り交ぜながら自作曲を演奏し、わたしがリアルタイムで音楽に合わせて絵を描く。共作したMVが好評だったことがきっかけで、広告代理店からオファーが来たのだ。それは、隠された共々感覚を知らない人たちにとっては、恐ろしく息の合った、かつ下書きを飛ばせるダイナミックなパフォーマンスになると分かっていた。
晴夏の指が舞い、32分音符が駆け上がる。その音が、情熱的な紅の羽根となってキャンバスに跳ね返る。歓声のパリ・ゴールドを、わたしはドリッピングして散らす。
赤と黄金が、グランドピアノの筐体にプロジェクションされた。打鍵のリズムに合わせて、描く色がピアノを次々に染める。スクリャーピンの改造ピアノの発想をヒントに、わたしたちが提案した演出だった。音と色のシンクロニシティ。観客が息を呑むのがわかった。
そのとき、不意にわたしのこめかみに痛みが走った。集中しすぎたせいだろうか。急いで息を整える。こちらを見た晴夏が、微かに眉をひそめた。指が迷うように鍵盤を滑り、リズムが一瞬だけ揺れた。わたしの頭の中の色が、わずかに滲む。かすかでありながら、確かな違和感。観客には気づかれないほどの、わずかな破綻。
すぐに晴夏がリズムを取り戻す。それに呼応するように、わたしも絵筆を握り直した。わたしたちは、再び音と色の秩序のなかへ没入していった。
フォルテッシモの旋律が会場を包む。私は、肩を大きく回すようにして、キャンバスに線を重ねた。
晴夏が弾いた最後の一音を、わたしはアレキサンド・グリーンの眼光に変えて描き、キャンバスのなかで緑の麒麟が生命を得た。
立ち上がって拍手と声を送る観客たちの反応が、成功を物語っていた。
ステージの上には、本日演奏した曲数分、6枚のキャンバスがそれぞれの魅力を湛えて並べられていた。
——ここまできたんだ。
行き場のない劣等感を抱えて、ひとりスケッチブックを開いていた昔の自分を思い出す。
隣を見る。わたしをここまで連れてきてくれた人。
わたしは、晴夏とハイタッチした。
「美穂と音楽作れるようになって、ほんとうに幸せ」
わたしも、と言って大きくうなずいた。
ステージを降りると、晴夏のマネージャーと談笑していた広告代理店の営業が満足そうに駆け寄って「最高でした! 次のプロジェクトもぜひお願いしたいですね」と話しかけてきた。
歓声の余韻は、まだ黄金色に響いている。
◇
わたしと晴夏は、晴夏の部屋で次のミュージックビデオの企画を練っている。
窓の外は薄暗く、ちらほら灯り始めた街灯の光が、部屋の中へ差し込んでいる。季節は秋めいていた。出会った頃の季節だ。
晴夏はピアノの前に、わたしはフローリングに置いたクッションに座っている。それぞれに楽譜とペンタブレットを広げ、音楽と絵をどう組み合わせるかを話し合っていた。
「もう少し柔らかい世界観がいいと思うんだよね」
わたしがタブレットをにらめながら提案した。次のシングルでは、有名な歌い手をゲスト起用する予定だ。彼の中性的な声と歌詞の世界観の魅力を引き出したい。
晴夏は書き溜めていた曲から一曲を選んでビジュアルに合わせてアレンジを考え、わたしはアレンジに呼応するMVのビジュアルを考える、という同時進行での作業。変則的だが創発的なこの進め方を私たちは双方のマネジメント企業に提案しPR性も加味して快諾されていた。前回よりも制作費がぐっと増えて、大きな仕事になりそうだった。
「淡いピンクとパープルで、おとぎ話の世界みたいな……」
晴夏が鍵盤に指を置く。指先から音のかけらが溢れる。
「うん、方向見えた気がする」
柔らかな笑顔を浮かべ、晴夏はわたしの提案にぴったりの和音を鳴らした。いつだって最短距離で、わたしたちはインスピーションを与え合うことができる。
嬉しくなり、彼女の肩にもたれかかった。
「ね、新曲はつくらないの? もちろん前の曲も最高なんだけど」
「……ちょっと待っててね! すごいのつくるよ」
「楽しみ!」
晴夏は鍵盤から視線を上げ、じっとわたしの顔を見つめた。「あのさ、」
そのとき、さっきの色の断片がわたしの琴線に着地し、着想へ結びついた。
「ごめん、一瞬」わたしは唐突に沸いたインスピレーションを、あわててタブレットに落とし込んだ。
「——そろそろ夕飯にしようか。頑張りすぎもよくないからね」
晴夏の声はやさしい。もうそんな時間だ。晴夏は、過剰に集中しがちなわたしをよく見て、バランスを取ってくれる。そんなところも好きだと思う。
「久しぶりにシチューでもつくろうよ。晴夏が好きな、野菜いっぱいのやつ」
「じゃ、一緒につくろう」
晴夏はにっこりと笑って、すっとキッチンへ立ち上がる。わたしたちの日常はこんな風に、創作と生活が溶け合うリズムでできていて、心地よかった。
包丁が野菜をとんとんと切る音が、幸せなトイ・イエローを描く。この色のイメージ、新しいMVに使えるかも——そんな興奮が胸をくすぐる。そうだ、そろそろ二人をユニットにして名前をつけてもよいかも。あの広告代理店の営業に相談してみようか。
鍋をかき混ぜる彼女の横顔は穏やかだ。優雅に扱われるスープレードルが、シチューの中でダンスしているように見える。
ぐつぐつという音が、おいしそうなリヨン・ベージュになり、キッチンを満たしていった。
◇
晴夏が救急車で運ばれたと連絡を受けたとき、何かの間違いだと思った。わたしは大学で講義を受けていた。久しぶりに、一人で過ごす時間が長い日だった。