第3話
「いい海が、聴こえた」
わたしはささやく。マグノリア・ブルーをまとった絵筆を走らせながら。
晴夏の指が鍵盤を舞う。そのメロディに導かれるように、青で染めていく。持ち込んだキャンバスに、海ができていった。
「澄んでるね」
晴夏は、キャンバスに目をやってつぶやいた。
「ほら、波来たよ」
リフレインする旋律に合わせて、わたしは押し寄せる波を描き重ねた。晴夏は、くすっと笑った。音が強まると、濃い青が打ち寄せ、音が穏やかになると、薄い青が引いていく。その上から、点描の要領で筆を置く。スイート・ピンクの光彩を、海面できらきらと反射させた。
「泳ぎたい」
晴夏のささやきは、幼い子供のおねだりのような無垢な響きをまとっている。
「気持ちよさそう」
想像の海は、わたしたちを深く浸していた。海面から顔を出しては息をするように、言葉を交わした。
わたしたちは、お互いの耳元でささやき合うのが癖になっていた。話している内容を聞かれたら、きっとおかしな二人に見えてしまうから。そして、そのささやきは、誰かに聞かれるには特別すぎたから。
わたしたちは、放課後の音楽室に集まる日々を続けていた。その教室で、言葉よりもずっとたくさんの感覚を交換した。
わたしは、補色をまとって艶やかに輝く海を、少し離れた場所から見た。桃色と青色の組み合わせは、不思議なほどに相性が良い。透明感があるのにどこか蠱惑的で、少し背伸びした絵だと思った。
わたしは、もう一度自分の絵を好きになれそうな気がしていた。
共々感覚を使って絵を描くこと。それは、予想以上にうまくいった。
その力を使ってわたしは、「正しい色」をいとも簡単に見つけることができる。画題をもっとも際立たせる色、たいていは大胆なその色を。
のみならず、楽曲に込められたモチーフ——例えば海、森、建物、乗り物、人——までも具体的に浮かび、作画を助けてくれるのだった。
調べたところ、一般的な音にまつわる共感覚は、「色聴」と言われる色が浮かぶ程度のものが多く、形状まで浮かぶ人は少数派だった。わたしたちの共々感覚には、なにか強力なイメージ喚起力があるようだ。偶然得た幸福。それは、晴夏と出会えた喜びと合わさって膨らんで、もう、うまく切り分けられなかった。
一緒に海の絵を眺めながら、晴夏はゆっくりと言った。
「わたしも、つくりたい」
その声には、芯が通っていた。晴夏は、ピアニストを目指している、と出会ったばかりのころ言っていた。
「本当は、演奏だけじゃなく——ずっと曲が作りたかったの」
わたしの創作を見ているうちに、「コップから水があふれるみたいに、曲をつくりたい気持ちが溢れた」、と言った。晴夏の演奏は彼女の容姿のように端正だったから、その衝動を少し意外に感じ、すぐあとでとても嬉しく感じた。彼女は、照れくさそうに微笑んで言葉を続けた。
「作曲、音楽教室の授業でやったことがあって。でも、難しかった」
「作れなかったの?」
「作れた。——好きな曲に似てる曲、だけ」
「枠からはみ出せない感じ?」
「そう。それでやんなっちゃって」
「分かる。わたしも、そうだった」
そう言って、わたしはスケッチブックを渡し、過去の凡庸な絵たちを見せた。晴夏は、神妙な顔でページをめくりながらつぶやいた。
「昔から絵うまいけどなあ」
わたしは返す言葉をうまく見つけられず、代わりに言う。
「——晴夏なら、素敵な曲つくれるよ」
「美穂と一緒なら、できそうな気がする」
晴夏は顔を上げた。その肌は夕日を受け止め、清らかな輝きを放っていた。
彼女の指先が、鍵盤の上でメロディを探り始める。晴夏の横顔は真剣だ。目を閉じて音を見ている。しばらくの間、音の断片があふれて、色が野放図に舞っていた。やがて、晴夏はふとしたきっかけから音は心地よい調性とリズムを見つけ出した。色は一枚の絵画に収束する。
「あっ、それいいっ!」つい声が出た。
晴夏の口角が、柔らかく持ち上がる。指先は、美しい色を奏で続けていた。
「……できたかも」
しばらくして晴夏はそう言うと、背筋を伸ばして鍵盤に置いた指を整え直した。
左手が、四分音符で低音を刻み出す。大地の色のようなクイーン・チャコールの連なり。
右手が打ち鳴らすパワフルなメロディがその上に重なる。ハーモニー・グリーンが、濃密に生い茂る木々を描き出す。リフレインされるたび樹木が立ち上がり、緑が濃くなっていく。
ときどき、ホース・ホワイトの装飾音が、枝のあいだから陽光のようにきらきらと差し込まれる。教室の空気さえ、澄んでいくように感じた。
「どうだった?」
演奏を終えた晴夏は、少し息を弾ませながらわたしを見た。音楽のことは詳しくないけれど、これは——。
「すごいよ! かっこよくて、凛々しくて、力強くて、——晴夏みたいな曲」
「ありがとう! そっか……うれしい」
「尊敬する……!」
「美穂が絵を描いているところを思い出しながら——頭の中で色を塗って、曲をつくってみたの。」
わたしは、いつもの音から色をつむぐ作業を逆回しにした映像を、思い浮かべた。
「共感覚を持ってた作曲家は結構いて」
晴夏は、少し頬を紅潮させて、普段より早口で続けた。
「そうなんだ。共感覚を持った画家もいるもんね」
「そんな人たちみたいに作れたらって思って、調べてたんだ」
「うん」
「スクリャーピンは、音から色が見える共感覚を持ってた。作曲にもその力を使ってたみたい。ピアノの鍵盤と照明の色を連動させた改造ピアノも作ろうとしてたんだって」
「現代アートっぽいね」
「メシアン、リスト、シベリウス、リムスキーも共感覚持ってたみたい」
ちょっと分からない名前が出てきた。わたしの表情を見ながら、晴夏は言う。
「レディ・ガガも」
「好き!」
「ガガは、作曲するとき、音が色の壁に見える、って言ってた。そういう感覚、なんだかつかめそうな気がする。——ね、今度は一緒に描いてよ!」
晴夏の瞳が期待に満ちて輝く。声には熱が込められている。わたしは、うん! と力を込めてうなずく。
やわらかいオリジナルの旋律が、紡がれ始めた。晴夏の指が迷いなく鍵盤を駆ける。音から思い浮かんだのは、人混みの生徒のなかでこちらを振り返る晴夏だった。淡いパープルを基調に描き出されたそのシルエットは、人々のなかでひときわ際立っている。ひとりだけこちらを見る少女。その姿へ向かって、伸ばす手——。
晴夏が絵を横目で見る。わたしの置いたスモーキー・パープルを、次のメロディへと再構成しようとしている。
八分音符の和音が、リズミカルに刻まれる。そのリズムは、少女に向かって駆ける足音そのものだった。絵の中で伸ばした手が少女へ追いつく瞬間、力強く最終和音が鳴った。
余韻が消えるまで、わたしは強く絵筆を握りしめていた。
彼女はペダルからゆっくり足を離して、陶然とするわたしの方を向いて言った。
「次は、どんな色の曲が聴きたい?」