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一章〈赤髪の儀式方術士〉2/6

 噂によれば、ベリトにいる赤髪の儀式方術士は、女性で、凄腕らしい。

 様々な依頼を受けて解決していると聞く。以前イサクが住み込みで働いていた酒場で聞いた話では、砦を越えるほどの大きな狼を退治したり、洪水に襲われた村を一晩で地形ごと変えて救ったりしたという。

 科学の発展した時代で、砦を越える大狼の存在すら怪しく、ましてや一晩で地形を変えるのはとても信じ難かった。

 ドラゴンやユニコーンなど、そのような幻獣が存在すると信じられてきたのは昔の話。今や空想の産物となっている。心から信じている者など、ほとんどいなかった。時々持ち上がる遭遇の話は、所詮噂とされ、すぐに薄れて消えていった。

 今回イサクが聞いた儀式方術士の話は、酒場で酔っ払いどもがしていたものだ。話にどれだけ大きな尾びれがついたものか、わかったものではない。信憑性はあってないものだ。

 荒唐無稽な酷いだけの話なら、他にもごまんとあった。

 曰く、小さな村で、子供に悪戯をされてカチンときた儀式方術士は、山を一つ消し飛ばしたらしい。

 曰く、祭りに乗して酒を飲み、酔っ払った儀式方術士は、その場のノリで巨人を召喚し、酔いが覚めるまで好き放題に暴れたらしい。結果、その町は壊滅的な被害に遭った。

 どれも酔っ払いどもが好きそうな馬鹿話にしか思えないものばかりだった。これらの話をイサクに教えた男性も完全に酒に飲まれていて、テーブルを一緒にした客とゲラゲラ笑っていた。

 それでもイサクは、噂の赤髪の儀式方術士に会うため、住んでいた町から遠く離れたベリトまで来ていた。

 一般用小型蒸気機関の車――蒸気車が走る、蒸気機関の信号機で交通整備されている道路を渡る。駅前からでも賑やかさの見えていた商店が並ぶ通りに入った。

 通りは車両および馬車の進入が禁止されていて、歩行者は安心して道路の真ん中を歩けた。道路は雪解け水で濡れ、所々に水たまりを作っている。さほど広くない道を、人々は器用に互いに避けながら歩いていた。

 道の両側に建ち並ぶ店から、蒸気機関の駆動音や熱、石炭や油の臭いは駅前のときよりも強く感じられた。

 汚れた空気はともかく、蒸気機関の駆動音は騒音というほどではない。むしろ、人の賑やかさのほうが大きかった。蒸気機関の臭いや音は、人の息づかいや臭いと混じり合い、ベリトの空気というものを作っていた。

 蒸気機関のパイプや歯車が露出した独特の外観をした店ばかりが並ぶ景色は、見るだけでも飽きないものだった。店のショーウインドウや路上販売されている、蒸気機関の技術が使われた見たことのない品や、蒸気機関以外の鮮やかなデザインの服など、イサクは様々な商品に目を奪われていた。


「すまなかったな。わざわざ見に来てもらって。やっぱあんたのとこに見てもらった方がいい。半日も経たずに直しちまうなんて、さすがだよ」

「俺も腕あげただろ」


 イサクの歩く前の店。出入り口のドアの向こうから男性二人の会話が聞こえた。


「ああ。親父さんにはまだまだ遠く及ばないがな」

「このっ。また何かあったら呼んでくれ」

「親父さんによろしくな!」


 おう、と返した一人の男性が店の名からドアを押して現われる。店の窓などから見える商品を見ながら歩いていたイサクは、前をあまり見ていなかった。

 外に出た男性も店の中の人を見ていたため、イサクに気づかいない。


「お」「うわ!」


 互いが接近に気づいたときには、二人はぶつかっていた。

 男性に弾かれたイサクは、尻餅をついてしまう。痛みにイサクは顔をしかめる。


「すまん。よく見ていなかった。大丈夫か」


 尻をついたイサクの前にぶつかった相手の手が差し伸べられた。


「はい。大丈夫です。僕も前を見ずに歩いていて。こちらこそすみません」


 イサクは、ぶつかった衝撃でずれたサングラスを慌てて直してから、男性の手を取った。

 堅い髪質の短い金髪、顎には無精ひげを生やす男性は、背が高く肩幅も広い。Tシャツに長ズボンという簡素な服装から浮き上がる肉体は、彼がとても筋肉質だということを伺えさせた。

 身体を起こしたイサクの前に立つ金髪の男性は、にかりと笑顔を作った。


「おう。怪我がないならよかった」

「気ーつけろよジーク。無駄にデカい図体してんだから」

「うるせーよ」


 店内から飛んできた別の男性のからかう声に、ジークと呼ばれた金髪の男性は笑みのある表情で返した。店に向かって、しっ、しっ、と手であっち行けの仕草をしている。店の中から聞こえたのは、先ほど店の中で金髪の男性と話していた人のものだった。

 金髪の男性は改めてイサクに顔を向けた。


「すまなかった。と、そのバッグ、お前のか」

「あ、はい。そうです」


 イサクが答えるのが早いか、男性は落ちていた茶色のやや痛んでいるバッグを手に取る。付いた汚れを軽く叩いて落とした。

 ほらよ、とイサクに渡す。イサクは礼を言って受け取った。


「怪我は本当にないんだな?」

「本当に大丈夫です」


 イサクの言葉に嘘はなかった。尻餅くらいで相手に何かと食ってかかる気はない。落としたバッグも幸いどこも破けていなかった。前々から痛んでいたので、落としたくらいでは何とも思わない。

 金髪の男性は、そっか、と笑みで返す。


「んじゃ、俺は行くからよ」

「はい」


 手を振った金髪の男性は、イサクに背を向けて歩き出した。

 男性の片手には工具箱と思われる金属の箱があった。腰には工具が収められたベルトが巻かれている。出てきた店のショーウインドウには、蒸気機関が組み込まれた工芸品などが飾られている。もちろん、実用的そうなものも見られた。

 あの男性は、蒸気機関の技師かもしれなかった。

 イサクは金髪の男性が遠くへ消えていくのを待ちながら、サングラスの掛け具合を確かめる。


(……気をつけないと)


 観光気分になっていた自分の気持ちを戒める。

 この繁華街は、マス目のような、きちんと整地された通りだ。イサクは来た道を戻り、左に曲がる。金髪の男性が歩いて行った方角とは違う道を意図して選んだ。

 ほどなくして、適当な店に入る。そこはアクセサリーを主に扱う店だった。宝石の類いは見かけず、ほとんどが金属類のものばかりだ。狭めの店内の棚にシルバーなどのアクセサリーが置いてある。壁にも飾り付けのようにかけてあった。高価そうなものは、店主が会計に使っている机の近くの棚にあるショーケースに並べてある。

 店内に入ったイサクを、店の奥の白い髭を整えた高齢の店主が無言の笑みで迎えた。

 静かな空気の流れる店内を、イサクは普段なら目移りしそうなアクセサリーが展示されている棚の間を抜けて、真っ直ぐ奥にいる店主の下へ歩いた。


「すみません。ちょっと聞きたいことがあるのですが」

「何かな」


 イサクが客でないとわかっても、店主はスマイルを崩さず、穏やかな態度で応じた。


「この町に、赤髪の女性の、凄腕の儀式方術士がいると聞いて来たのですが。どのあたりに住んでいるか、ご存じありませんか」

「ああ、最近の。話になら聞いたことがある。確か、旧市街区のフォンスに住んでいるという噂だ。そういえば、最近は人を集めて何かやっているらしい」

「人、ですか」

「詳しくは知らないが、新たな儀式方術士の覚醒をやっているとも聞いている。夜な夜な数人で怪しい術をやっているとも聞く。人を集めているのはそのためだとか」


 イサクは、気になる言葉を聞いた。


「儀式方術士の覚醒というのは? 望めば儀式方術士になれるということでしょうか」

「たぶんそうだろうね。でも詳しいことは、私にはわからないよ。お客さんから聞いた話だから」

「そうですか」

「君は、儀式方術士になりたいのか」

「……」


 イサクは黙り込んでしまう。答えることで深く追求されてしまうのを恐れた心理が働いていた。

 しかし、黙秘は言葉以上に語るものがある。察した様子の店主はこれ以上聞こうとしなかった。


「旧市街はここから北西にある。中央区のケントルムを挟んで真反対の位置だ」

「北西、ですか」

「そうだ。かなり距離があるから、馬車かタクシーか使った方がいいだろう」


 ところで、と老人の店主は話を続ける。


「君は、ベリトで起きた十年前の事件を知っているかね?」

「十年前、ですか。確か、反政府組織がクーデターを企んで町が二分しかけたことですよね」


 第二の首都ベリトと呼ばれるほどの大きな町が二極化しようとしていた事件だ。

 十年前、ベリトに儀式方術士を名乗る男性が現われた。彼は、儀式方術は神秘の術だと、神に選ばれし者にこそ使える力と説き、信奉者を集めた。

 男性は、反政府組織と繋がっていた。彼は集めた信奉者たちを、徐々に反政府、反王権支配の思想へ洗脳していった。

 ベリトのある国、ヤダルバオートは王権支配の国家である。しかも、王族を神の使徒と崇める宗教思想に基づくものであるため、王族以外の者を神または神の使徒、また王族の神以外を崇めることは憲法で禁止されている。

 科学が発展し、宗教崇拝の思想支配が弱まってきていたとはいえ、ヤダルバオートで王権支配に反する行為は厳罰が下される。

 儀式方術士を名乗る男性の、自身を神に選ばれし者と人々に崇めさせ、信奉者を募るのは法に違反する行いだった。もちろん、儀式方術士を名乗る男性を崇めた信奉者たちもほぼ同罪だ。

 信奉者たちは、何人かは自分たちが騙されていることも、大罪を犯していることも自覚していた。しかし、その中には現政府や王権支配に不満を持っていた者がいて、男性の反政府反王権支配思想に共感し、または賛同し、信奉を止めない者は少なくなかった。

 信奉者に限らず、現政府に不満を持つ人々も集まり始め、やがて第二首都ベリトをほぼ二極化するほどにまで、反政府組織は巨大化した。

 後手に回ってしまった政府がこれを解決したときには、ベリトの町の治安は壊滅。一時、町全体がスラム街になった。

 十年経った今は、事件の痼りを消し去れていないものの、町は治安を取り戻し、人々は科学の恵みと、安寧を手にしている。


「あの事件以降、始まりが儀式方術士だったためか、この町の住人の多くは、儀式方術士のことを良くは思っていない。儀式方術士を捜すのは自由だが、行動は慎重にした方が良い。中には、事件のことを思い出して暴力を振るってくる者もいるだろうから」

「はい。ありがとうございます」


 店主の親切なアドバイスに、イサクは素直に礼を言った。


「それでは失礼します。また近くを通ることがあったから、今度は客として寄ります」

「ああ、待ってるよ」


 老人の店主は笑みを浮かべて頷き返した。

 イサクは、老人に背を向けて去ろうとする。その向きかけた背中に老人の声がかかった。


「一つ、聞いてもいいかな」


 はい、と歩きかけていた足を止めて、イサクは老人へ振り返った。

 店主は真っ直ぐな目でイサクを見つめる。


「君は、儀式方術士の存在を信じているのかい? よくある占いの類いではない、本物の儀式方術があると信じているのかい?」


 儀式方術士とは、儀式方術を使う者のことを指す。そして、儀式方術とは、人間の古来の技術で、一般生活などにも使われていたものだった。

 イサクは、詳しくは知らないが、願いを叶える術とも呼ばれていたことを知っている。火を起こし、風を吹かせ、雨を降らせたらしい。人が空を飛ぶこともできたと聞く。これらを、科学的な技術を使わず、祈り、願い、想うことで可能にしたという。

 そのような不可思議な力を使う技術があったかどうかの真偽はともかくとして、科学の登場で儀式方術は表舞台から去ってしまった。そして、その名も、科学技術の発展と共に忘れ去られつつあった。

 最近は少しずつ名の認知を取り戻しているようだが、皮肉にもここ数年の中で儀式方術と儀式方術士の名を最も世に広めたのは、ベリトで起きた十年前の反政府組織が関わった事件だった。

 そのためか、以前は一般的に儀式方術と言えば占いかお呪いの類いを指していて、儀式方術士はそれらに携わる人たちのことを指すものだったはずが、現在は儀式方術士のことを詐欺師と呼ぶ人が増えていた。

 店主が聞いたのは、一般的な儀式方術に関してではない。昔話に出てきそうな、それこそ、願いを叶える技術を体現するものの存在に関して聞いたのだ。

 あまり自身のことについて聞かれたくないイサクは、その場を誤魔化すような言葉を作り、さっさと去ることもできたが、老人の店主の真摯な眼差しに可能な限り正直に答えることにした。


「半分信じています。もう半分を確かめるため、会いに行くんです」

「そうか。昔、私は本物の儀式方術を見たことがある」

「それは……!」


 思いがけない言葉に、イサクは店主に詰め寄りそうな勢いで聞いていた。店主は、慌てるなという仕草を、やんわりと両手でする。


「もう亡くなったが、私の祖母が使うところを数回見せてもらったことがあった。不思議な模様をテーブルに書いた思ったら、火が起きたり、陶器が現われたりと本当に不思議な光景だった」


 昔を懐かしむ目で、老人の店主は話す。


「子供ながらに手品の類いに騙されていたのかもしれないが、私はあの光景を本物だと思っている。何度か真似てみたが、私にはできなかった。どうも祖母の話では、才能が必要らしい。昔は多くの人が使えたが、ずいぶんと減ってしまったと子供の私に話してくれたのを覚えている。―――私はね、本物の儀式方術はあると思っている。私の祖母が使えたくらいだ。今でも使える人がどこかにいてもおかしくないと、私は思っているよ」


 店主の心からの言葉だった。大切な思い出と共に語られた言葉は、イサクにちゃんと伝わっていた。


「最近よく聞く儀式方術士が本物かどうか知らないが、私は、本物の存在を疑ったことはないよ。君の捜す儀式方術士が本物だといいね」

「はい」


 イサクは真摯な意思を込めて返答し、もう一度、失礼しますと言ってから老人の店主に背を向けた。

 またおいで、と店主の温かく優しい声を背中で聞きながら、アクセサリー店を後にした。

 ―――本物はいた。

 たった一人の証言だったとはいえ、今のイサクの背中を押してくれる原動力としては、十分な助けとなる言葉だった。自然と、イサクのバッグを持つ手に力が込められる。

 店を出たイサクは、今までより少しだけ強く地面を踏みしめて、歩き出す。

 場所を変えて、再び情報収集を始めた。

 老人の店主から聞いた、フォンスという旧市街区のある北西の方角へ歩きながら、イサクは町行く人に儀式方術士に関して聞いていった。

 繁華街を抜けた先、辺りはテナントビルが多く建っている。道路は駅前のところより蒸気車の通りが多く、イサクの歩く歩道の横を、ほとんど休み無く車が通り過ぎていた。

 賑やかで色鮮やかだった繁華街とは一転して、コンクリートと、蒸気機関のパイプと歯車で形成された灰色の町並みを、イサクは行く。金属類のアクセサリーを売っていた店主から聞いていたとおり、儀式方術士の単語を出すと、幾人かいい顔をしなかった。

 そのほとんどが、十年前からベリトに住んでいたか、ベリト近辺の町から来た人だろうとイサクは想像できた。

 イサクは歩きながら、聞いて集めた情報の整理をする。

 噂の儀式方術士は、赤髪の女性で、名をシャルロット・スフォルツァというらしい。

 スフォルツァのファミリーネームは、イサクでも知っているほどの有名な貴族の名だ。歴史の勉強をした者なら必ず知っている、ヤダルバオートの歴史に名の挙がる高位三貴族の一つだ。

 それほどの名家の人が何故何でも屋を開いて、依頼を受けているのかという疑問を、イサクは当然抱いた。しかし、誰もがその疑問に明確な答えを持っていなかった。推測ばかりが出た。

 シャルロット・スフォルツァの人相は凶悪で、犬歯を光らせる猛犬のような表情をしている。性格も顔に裏切らず凶悪。気に入らないことがあったらとりあえずぶっ飛ばすという。

 そして、柔らかく温かな表情で訪ねた人を迎え、優しい言葉で苦しむ言葉に応え、ときには願いを叶える。その姿は、神話の聖母にも見えるらしい。


「……」


 イサクは、自身の考えをまとめて浮かべた儀式方術士の人相に、顔をしかめた。まるで別人の顔が二つ、もしくは二重人格の人がぼんやりと浮かんだ。

 今更ながら、噂の当てのなさに頭を悩ませられる。イサクは、人相や性格は保留にして、情報の整理を続けた。

 シャルロット・スフォルツァの住んでいる場所は、ベリト北西の旧市街区フォンスのどこか。家の詳しい場所まではわからなかった。フォンスへは、イサクの現在地から徒歩で丸一日かかる。タクシーか馬車を利用しなければ、今日中に着くことはできない。

 儀式方術士は何でも屋をやっていたが、最近は夜に人を集めて規模の大きな儀式方術をやっているという。時には人の願いを叶えてあげることもあるらしい。望む者には、儀式方術士としての訓練もしてくれるという話だった。

 人を集めている場所の地区は、ベリトの東にある。ここからは北に当たる。詳しい場所は不明だ。目的の地区まで、徒歩で数時間かかるくらい距離があった。

 フォンスほど離れていないが、そこへ行くとなるとフォンスへの道は遠回りになってしまう。しかし、丸一日かかってしまうフォンス寄りかは遠い場所ではない。

 シャルロット・スフォルツァが今日も人を集めるか不明だが、集めていると仮定して、手早く会う方法はその地区へ行ってみることだった。

 イサクは、歩いていた足を止める。サングラスの奥にある蒼い瞳で北を見つめるイサクの前の道路には、横断歩道が引かれている。

 信号は歩行者用と車用の二つがあり、どちらも一定の時間で、色で意味を表している大きな札を回転させていた。車車用の信号が停止の意味を持つ赤の札に変わろうと、それを知らせるため一度、青と赤の間にある黄色の札を見せた。

 蒸気車の利用者が少ない町に住んでいたイサクは、信号機の存在を知らなかった。ただ、手信号は知っていたため、そのようなものだろうと理解している。だから、駅前の信号を周囲の人を真似ながらだが利用できた。

 蒸気機関が動力の信号を見つめながら、イサクは横断歩道の前で考えていた。

 イサクの持っている資金は限られている。宿も食事も、日数を重ねるほど難しくなっていく。無計画な行動は危険だった。


(フォンスへ行くかどうかは、今日明日儀式方術士の集会のある場所を探してからがいいかもしれない)


 いつ集会が行われているか知らないが、もし偶然にも開かれていれば、その日のうちに儀式方術士に会うことができる。もしフォンスに住んでいるという情報が嘘だったとき、往復で戻って来られるほどの金の余裕があるとは限らないとも考えたからだ。

 儀式方術士が集会を開く地区は、北の方角にある。横断歩道の前に立つイサクの正面の方角だ。


(道々で安い宿も探さないと)


 雲に覆われた空の下にあるベリトは昼間でも薄暗いが、夜が近づくにつれて暗さは一層濃くなり、夜の訪れを自然と人は察することができた。

 イサクも、もちろんわかっていた。時間は昼を過ぎて、影は忍び寄る闇に解けて薄くなり、辺りの暗さは濃くなっている。雲の向こうから地上を照らしていた太陽が地平線の向こうへ沈み行くことで、光が弱まっていた。

 夜までには、可能であれば宿も見つけていたい。雪の積もるベリトの冷たい夜を野宿で乗り切れると、イサクは思えなかった。

 歩行者用の信号の札が青に変わる。他の歩行者と並んで、イサクは横断歩道を渡るため足を踏み出した。

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