序章〈慟哭〉
国土の大半が一年を通して寒い国―――ヤダルバオートでは、親が子供の教養のため、一度は聞かせる話がある。雪への畏怖を形にした、白い化け物の話だ。
この世のものとは思えぬ恐ろしく白い肌。四肢には肌と同色の鱗を纏っている。背中の薄い皮膜の羽を大きく羽ばたかせる。蝙蝠のものに似たその羽もまた、純白だ。その者の両眼に瞳はなく、紅のみが開かれた瞼から世界を見つめる。
人の形に似て、人では有り得ぬ純白の身体と紅の目。白の髪を夜風に靡かせて、人の前に姿を現すとき、この世の災いを連れてくると伝えられた異形の怪物。
不吉で、死を招く存在として人々に語り継がれ恐れられるそれを、人はモルスと呼んだ。
†
月と星が輝く夜。
ある生き物は眠り、ある生き物は目覚めて活動を始める。闇が降りても生命の息吹のある夜の世界で、少年は逃げていた。背後の、嚇怒と怨憎の塊と化して追いかけてくる人間たちの手が届かない目指す。
慣れない羽で空を飛ぶ感覚は、恐怖に塗りつぶされてしまっている。今にも背中から一突きにされそうな気配を振り払いたかった。
少年の背後。遥か後方では、人間たちが夜の草原を松明のような明かりもつけずに少年を追いかけている。闇夜に光る満月と星々が世界を淡く青白い光で照らしているため、明かりを作る必要はなかった。何より、空を行く少年は、月明かりの下でもあまりに目立ちすぎる姿をしていた。
純白の髪を風に靡かせる少年の全身の肌は、髪と同じく純白の色の鱗に覆われている。そして、空へと身体を飛ばせている蝙蝠のものに似た薄い皮膜の羽も、純白だった。顔の肌も人に近い肌質をしているもののやはり純白で、紅い眼には瞳が無く、文字通り紅い宝石のような眼をしていた。
人間とはかけ離れた全身白のその姿は、まるでお伽噺か、幼い頃しつけのときに言い聞かされた異形の怪物――モルス。少年の純白の姿は、月の光に照らされて、夜の世界でも映えていた。遠目からでも、わかるほどだった。
しかし、月明かりは、逃げる少年にも恩恵を与えていた。
空を飛んで逃げ続けている少年は、無闇に飛んでいたわけではなかった。彼の紅い眼には、小高い丘とその森が映っていた。
夜の森は、月の光が届き難く、漆黒の闇がひっそりと沈んでいる。あそこまでいってしまえば、地上を行く人間たちの足では、少年を追うのは難しくなる。諦めるかもしれなかった。生き延びるため、逃げるだけで精一杯の中、少年は知恵と本能で森を越える進路を取っていた。
森へ行かせまいと、人間たちはライフルや銃などの飛び道具で少年を空から落とそうと攻撃している。距離が開きすぎていて、届く気配すらない。それでも無駄な弾を消費し、執拗に少年を仕留めようとしているのは、それほどまでに彼ら人間が少年を憎んでいるという表れだった。
少年を殺そうとしている人間たちは、彼の育った町の住人たちだ。当然、少年と親しく、共に笑い合った人たちもいる。その彼らもまた、他の人間たち同様の、化物に殺意をむき出しの顔をしていた。
最初は幾度か振り向いていた後ろを、もう少年が見ることはない。もう、知人たちの豹変した姿を、彼らの歪んだ表情を、見たくなかった。
頬に流れる涙も、時折脳裏に過ぎる育った町での思い出も、親しかった人々の顔も、空を飛ぶ少年の身体を突き抜ける風に飛ばされていく。
少年は、声を上げた。言葉も意味も無いただの声を、力の限り、夜空へ向かって放つ。
彼の獣のような声が、煌く星々と淡く青白い輝きを放つ月の夜の世界に響いた。