夏の静寂
――意識の端から、たたん、たたんと電車の揺れがやってくる。
俺は、背中側の車窓から射す西日の暑さで目を覚ました。ごうごうと空調の音がうるさくて、ああ、まだまだ夏が終わらなそうだと思った。キラキラ、ギラギラと反射する海が覚めたばかりの目にしみる。隣においた、エナメル地のスポーツバッグをおざなりに寄せて、スマホをとりだした。
違う人間の右足と左足でくっついた、同じ指定の黒のスラックスがぴくと動いて、くあ、と右上からふぬけた声がふってくる。
「あと、何分?」
「十分ってとこ」
「ふうん、そ」
おもむろに肩を組んでくる。と、と脈が跳ねる様を幻視する。
「……あついんだけど」
「気にすんな」
ヘラりと、彼が笑った。
「これくらいなら、大丈夫だろ」
それをやにさがった目と詰ることもできた、でもしない。わかってるからだ、のみ込んだ言葉も想いもお互い全部。
――自分のことが酷く浅ましい者に思えて目を伏せた。
つんつんと、不埒な指が頬をつつく。
「オマエは、考えすぎだって」
「わるかったな」
「んー。べつに? それだけ、真面目に考えてくれてるってことでしょ」
――オレたちのこと。音にはせずに最後にそう付け加えて、話を切り替えた。
「つか、寒くね? むしろ」
「あー。絶妙にビミョーな感じ、日差しはあつい」
「オレは少しさみぃもん」
「冷房嫌いだったなそういや」
と、引っ付き虫の膝をぽんぽんと撫でて宥めた。スキンシップがイヤな訳じゃないという意味もほんのりこめて。
◇
「あっつ!!」「んあー、やべぇ」
電車を背中で見送って、降りた無人駅で伸びをする。思わずでた言葉に二人で笑いながら、駅舎を出た。錆の少し浮いた赤い自販機をみつけて、「なんか、買った方がいいな」と半袖の端をひいて促す。
「アンバサあるじゃん、珍しいね。オレこれにする」
「炭酸にすんの? 多分この先目的地まで水分補給できねぇと思うけど」
「え、まじ?」
「のみさしでいいなら、途中で俺のお茶わけてもいいけど」
「やりぃ。間接キスじゃん。オレのも飲みたかったら言って!」
「おう」
そして、スマホでマップを確認して、「じゃあ、行こうか」と言った。
セミの声による重奏が鳴り響く。道の両側は木々が生い茂り、空を虫食いのように木の葉が遮って、時折通るのは軽トラくらいの山道を二人で進む。
「なんつーか、トトロいそうじゃん」
「トトロは西日本在住らしいぞ、だからここにはいない」
「映画の舞台はそうかもだけど、トトロには全国展開しててほしいから、ここにもいる」
「ハハ、断定かよ。でも俺もネコバスには乗りたいかも」
「わかる! でも、今の時期はあのもふもふ暑そうじゃね」
「どうかな、お化けだから案外中は快適かもよ」
なだらかな坂道を並んで歩き、ひたすらとりとめのない日常を讃歌するように話をした。終わらないでほしいと心の水底の泥の部分がもわっとわき立つ。淀んだ水の気配を誤魔化していると、ふと顔にさした暑い夏の日差しに目が眩む。
「ついたな」
と。続けて大丈夫か? と影が顔にかかった。「ああ、問題ないさ」と返した。
丘の上にある少し寂れたこの公園からは、水平線に沈んでいく夕陽と、橙に染まり行く海を一望できた。周囲には他の人間はいない。木製の二人がけベンチに座り、お互いに道中の賑やかさは鳴りを潜め、静かに眺める。
どちらともなく、二人の距離は縮まっていき、ほんのり汗でベタついた頬が触れ合う。
「……好きだ」
三文字の為に控え目に動いた口のせいで、くっ付けたままの頬が擽ったい。赤く染まった肌が名残惜しいが、「俺も好き」と相手の口の端に吐いた言葉をくっ付け直した。
「――来年も、その先も、もっとその先もこうして二人で美しい海を見にこよう」
「俺なんかで本当に良いのかよ」と、声が震えてしまう。「アホが。オマエとじゃなきゃ綺麗な海も、ただそこにあるだけのでっかい水溜まりだ」ぎゅうと抱き締められた。
「オマエとじゃなきゃ嫌なんだ」
「俺だってお前が他のやつとこんな綺麗な想い出作って欲しくなくて。――俺とのこと、綺麗な想い出って奴にして欲しくなくて! ぐらぐらすんだよっ」
「は、両思いじゃん」
「んなの最初からだろ」
「そうだな、ああ、そうだった」
互いの鼻と鼻が触れ合う距離。俺達はようやく、泥中の想いを吐き出した。ひきつれるほどの心の痛みを感じるのに、口のなかはどこまでも爽やかで。そんなどうしようもない心中を共有したくて、結んだ口を付けた。