ガブリエル=アーネスト
「お前さんとこの森には、野獣がいるな」
駅への道すがら、絵描きのカニンガムは馬車に揺られながらそんなことを聞いてきた。道中でカニンガムが発したのはその一言きりだったが、ヴァン・チールにしてみれば自分がひっきりなしにずっと喋り続けているので、同乗者の沈黙などはさして気になるものではなかった。
「狐なら一、二匹、よく彷徨いているのを見かけるな。鼬鼠も住み着いているみたいだ。ただ、危険なのはいないさ」
ヴァン・チールはそう答えてみるが、画家の方は何も喋ろうとしない。
駅舎に着いた時、ヴァン・チールは再び尋ねた。
「野獣の話、あれは何のことだい?」
「なんでもないよ、俺の妄想さ。そら、汽車が来た」とカニンガムは告げる。
その日の昼下がりになると、日課の散歩のため、ヴァン・チールは私有森へと足を運んだ。ヴァン・チールという男は書斎に山家五位鳥の剥製を飾り、野花の名前についても造詣が深い。伯母がこの甥っ子のことを偉大な博物学者と呼んでいるのにも、多少は根拠があるのだろう。
博物学者かどうかはともかく、偉大な散歩家なのは確かだった。ヴァン・チールは散歩中に見たものを余すことなく頭の中に書き留める癖があったが、それは現代科学への貢献のためなどではなく、後々の話のタネにするためだった。たとえば、藍鈴花が姿を見せ始めると、それを色々な人に話してまわるのである。そんなことは時季になれば誰でも気付くことなのだが、話を聞く人たちも、裏表の無い男と思うだけで悪い印象はない。
だが、この昼下がりにヴァン・チールが見たものは、今まで見てきたものの範疇を遥かに超えていた。楢木の繁る雑木林の窪地には、底の深い小さな池がある。その池に突き出している平たい岩棚の上に、十六歳くらいの少年が大の字で寝そべっていた。太陽の光を贅沢に浴びながら、濡れた小麦色の手足を乾かしている。つい先ほど池に飛び込んだばかりなのか、濡れた髪は幾筋にも分かれて、顔にぴったりと張り付いていた。その薄い褐色の瞳は、暗闇で光る虎の眼のような輝きを放ちながら、ヴァン・チールに向けられており、一種の物憂げな警戒心の強さを感じさせた。
思いがけぬ邂逅に、ヴァン・チールは気が付けば、話しかけもせずに、物思いに耽るという奇妙なことをしていた。この野人のような身形の少年は一体どこから来たのだろうか? 粉屋の奥さんが子供を亡くしたのは、二か月ほど前のことだ。粉挽き水車の用水路に流されたそうだが、それは赤ん坊で、大人になりかけた若者のことじゃない。
「そこで何してるんだね?」とヴァン・チールは声を掛けた。
「見りゃわかるだろう、日向ぼっこだよ」
そう少年は返した。
「どこの子だい?」
「ここの子さ、この森だよ」
「森になんか住めるものか」とヴァン・チール。
「ここはすごくいい森さ」
どことなく恩着せがましい口ぶりで、少年は言った。
「なら、夜はどこで眠るんだ?」
「夜は寝ないよ。夜が一番忙しいからね」
ヴァン・チールは苛立ち始めた。のらりくらりと躱されて掴みどころがない。
「普段は何を食べてるんだね?」とヴァン・チールは尋ねる。
「肉さ」
まるでその口の中で味わっているかのように、少年はゆっくりと美味しそうに言葉を発した。
「肉だって!? 何の肉だ?」
「あんたも物好きだね。穴兎だろ、それと野鳥に野兎、民家の鶏なんかも。あと今の季節なら仔羊もいいな。手に入るなら子供でも。だけど狩りのときは大体さぁ、夜になるとアレは大事に奥の方に仕舞われちゃうからね。最後に子供の肉にありつけたのは、二か月も前だよ」
最後の一言は悪ふざけと思って黙殺した。それよりも少年が密猟をしているのではないかと勘繰って、ヴァン・チールは深く探りを入れてみた。
「野兎を食べると言ったが、どうにも嘘っぽく聞こえるな。大風呂敷を広げるんじゃないぞ。ここらの丘じゃ、野兎はそう簡単に捕まらんからな」
(「大風呂敷」もなにも、少年は一糸纏わぬ姿なのだから、どうにも不適切な喩えだった。)
「でも夜になったら、僕は『四つ足』で狩りをするからね」と、なにやら意味深な答えが返ってきた。
「それはつまり、犬を使って狩りをするということかね?」
ヴァン・チールは当てずっぽうを言ってみた
少年はゆっくりと仰向けに転がり、そのまま低い声で不気味な笑い声を上げた。それは、さながら愉悦に浸った忍び笑いのようでもあったし、不機嫌な唸り声のようでもあった。
「犬が僕の仲間になるわけないじゃないか。特に夜なんかはね」
奇妙なことを口走る、この奇妙な瞳の若者にはなにやら不気味なものがあると、ヴァン・チールは確信を持ち始めていた。
「とにかく、これ以上、君をこの森に住まわせるわけにはいかない」とヴァン・チールは居丈高に言い放った。
「ここに住まわせといた方があんたのためだと思うけどなぁ。あんた家に連れてくよりマシじゃないかな」と少年は返す。
野生児の言う通り、きちんと綺麗にされた我が家にこの真っ裸のけだものを連れ込むなんて、確かに憂慮すべきものがある。
「出て行かないと実力行使に出るからな」
ヴァン・チールがそう告げるとと、少年は閃光の如くパッと振り返り、そのまま池に飛び込んだ……かと思えば、その濡れて輝く身体を、ヴァン・チールが立っている土手の中腹に投げ出している。川獺なら別に珍しい動きでもないが、少年がそんなことをやってのけたものだから、ヴァン・チールは心底驚いていた。思わず後退りすると、そのまま足を滑らせてしまい、気付けば滑りやすい草生した土手の上でほとんど腹這いになっていた。そう遠くないところには、あの虎のような黄色い眼が光っている。もはや本能がそうさせるかのように、ヴァン・チールは片手で自分の喉を軽く押さえた。
少年がまた笑った。今度は、忍び笑いよりも唸り声の方が勝っているようだ。そして、またもや電光石火のように驚くような速さで、撓りのある羊歯や草木の繁みに飛び込んで、そのまま消えてしまった。
「並外れた野獣だな、あれは!」
起き上がりながらそんなことを漏らすヴァン・チールは、カニンガムの言葉が脳裏を過った。
『お前さんとこの森には、野獣がいるな』
ゆっくりと家路を歩みながら、ヴァン・チールはこの辺りで起こった様々な事件についてあれこれと思い返していた。もしかすると、あの驚異的で野蛮な若者に繋がる事件があるかもしれない。
近頃、森で猟をするにしても、どうにも獲物の数が減ってきているし、農場で飼っている鳥も姿をくらましている。不可解なことに、野兎だって今までよりも少なくなっているのだ。丘で放牧していた仔羊が、まるごとすっかり盗まれてしまったという苦情もヴァン・チールのもとに届いていた。
本当にあの野生児じみた少年が、頭の良い密猟犬を引き連れて、こんな田舎町の家畜や動物を狩っていたのだろうか? 夜になると『四つ足』で狩りをすると少年は言っていた。しかし、その後だ、犬なんて『特に夜なんかは』寄り付きもしない、などと奇妙なことも仄めかしていた。実に不可解。しばらくの間、ここ一、二か月の間に起きた様々な盗難事件を頭の中で反芻していると、ヴァン・チールは突然、歩みとともに考えるのをピタリと止めた。
二か月前に粉挽き水車のところで行方不明になった赤ん坊……水車の用水路に転げ落ちて、そのまま流されたというのが皆の信じる顛末だ。だが、粉屋の奥さんがいつも声高に言っていたじゃないか。悲鳴が聞こえたのは家から見て丘の方だった、と。つまり、用水路とは逆方向だ。当然、とても考えられないことだが、でも……あれは嘘だと願いたいが……あの少年は、二か月前に子供の肉を食べたなんて気味の悪いことを言っていた。そんな恐ろしいことは、たとえ冗談でも止めてほしいものだ。
いつもとは違って、ヴァン・チールは、森で見たことを誰かに話そうという気分にはなれなかった。悪評の立ちかねない人間を自分の敷地に匿っているなどと噂にでもなれば、教区評議員であり治安判事でもある己の立場は、いずれにしても傷付くことになるだろう。襲われた仔羊や家禽を弁償してくれと詰め寄られて多額の損害賠償を突き付けられることになるかもしれない。その夜の夕食の席では、ヴァン・チールは異常なまでに沈黙を続けていた。
「声でも失くしちゃったのかい?」と伯母が言う。
「狼に会ったみたいな顔してさ」
古い諺か何かを喩えも出しているのだろうが、生憎、諺に明るくないので、ヴァン・チールは伯母のこの発言を馬鹿らしいと思ってしまった。もし自分の敷地で狼に出くわしたのなら、そのことを語るのに忙しなく舌が回っていることだろう
翌朝、朝食の席にあっても、昨日の不安は完全には拭い去れなかった。そこで、ヴァン・チールは汽車に乗って大聖堂のある隣町に行き、カニンガムを探すことに決めた。カニンガムが口にした森の野獣とは何なのか、実際のところカニンガムが森で見たものが何だったのか詳しく問いただすことに決めた。肚を決めると、ヴァン・チールはいつもの快活さを少しばかり取り戻し、ちょっとした明るい旋律を口遊みながら、日課の煙草を喫いに居間へ足を運んでみた。
だが、居間に足を踏み入れるなり、鼻歌は止まり、代わりに敬虔な呪言が口から飛び出した。オットマン椅子の上に、この上なく落ち着いた様子で、優雅に寝転がっている男がいる……森で会った少年だ。最後に見たときよりも身体は乾いているが、全裸の少年にそれ以外の変化は認められなかった。
「よくもまあ、来られたものだな」
ヴァン・チールは怒りを露わにしながら言い放った。
「森に住まわせるわけにはいかないって、あんたが言ったんじゃないか」
少年は冷静にそう言ってのける。
「だとしても家には来てほしくはなかったんだがね。伯母さんに知られたら、どうしろって言うんだ!」
大惨事を出来るだけ小さくしようと、ヴァン・チールは折り目だらけのモーニングポスト紙で招かれざる客人のアレやコレを慌てて覆い隠した。その瞬間、伯母が部屋に入ってきた。
「この子はね、道に迷って困ってたんだよ……なんでも、記憶喪失らしい。自分でもどこの誰かさえ分からないんだ」とヴァン・チールは死に物狂いで弁解しながら、不安な気持ちで浮浪児の顔をチラチラと伺っている。これ以上、野生の本懐を馬鹿正直に露呈されては具合が悪いと、ジッと目を光らせていた。
しかし、ミス・ヴァン・チールはすこぶる興味を持ったらしかった。
「きっと下着なんかに身元の手がかりがあるんじゃないかしら」と伯母は提案してくる。
「何から何からまでみんな失くしちゃってるみたいでね、下着も何もないのさ」
ヴァン・チールはそう言いながら、小さくなったモーニングポスト紙を必死に押さえて、ずれ落ちないように留めていた。
この素っ裸の家無き子という存在は、迷子の仔猫や捨てられた仔犬と同じくらい熱烈に、ミス・ヴァン・チールの心に訴えかけるものがあったようだ。
「この子のために出来るだけのことをしましょうね」と伯母は決意した。
牧師館には給仕の少年がいるからと言って伯母が使いを出すと、すぐに給仕服一式と肌着や靴、襟飾りなどの必要な装身具を携えて戻って来た。だが服を着せても、清潔にして身なりを整えても、ヴァン・チールの見立てでは、少年の不気味さは消えていなかったが、伯母の目には素敵な少年に映っているようである。
「この子の素性が分かるまでは、何か呼び名が必要ね」と伯母は言う。
「ガブリエル=アーネストにしましょう。ぴったりで素敵な名前だわ」
ヴァン・チールも納得してみせたが、聖天使や正直者といった名を接ぎ木のように据えたところで、果たして本当に名前にぴったりの素敵な子なのだろうか。内心、疑わしい気持ちでいた。
少年がやってきた日には、いつもは大人しいはずの老いたスパニエル犬が家を飛び出して、今でも果樹園の端の方で震えながら執拗に吠え続けている。金糸雀だって、いつもならヴァン・チールと同じように真面目に囀ってくれるのに、今や脅えてピィピィ鳴くしか能がない。こんな事実を前にしては、ヴァン・チールの疑念は晴れるはずもなく、早いうちにカニンガムに相談しようという決心はいっそう強いものとなった。
伯母はというと、日曜学校で受け持っている幼年学級の午後の紅茶の時間に、子供たちの相手をガブリエル=アーネストに手伝ってもらおうと、あれこれ支度をしている。一方その頃、ヴァン・チールは駅へと馬車を走らせていた。
カニンガムには会えたものの、はじめのうちはなかなか話をしてくれる雰囲気ではなかった。
「俺のお袋は脳を患っててね、それで死んじまったんだ」とカニンガムは口を開いた。
「だから、分かるだろう。どうして俺が詳しく話したくないかぐらいさ。俺はとんでもなく異様なものを見ちまったのかもしれないし、単に見たつもりになってるだけなのかもしれないぜ」
「でも、何か見たんだろう?」とヴァン・チールはしつこく食い下がる。
「俺が見たと思ってるのは、いたって真面な人間なら、事実というお墨付きはとても与えないような、常軌を逸したものだったんだ。お前さんと別れる前の日の夕方のことだ。果樹園の門の傍だ、あそこの生垣にちょいと隠れるようにして立ってたんだ。夕日が沈んでいくのを眺めていると、急になにやら目についてね。近くの池で水浴びでもしていたんだろうな、裸の少年がいたんだよ。がらんとした丘の中腹にいたから目立ってたし、少年も夕日を眺めているらしかった。あの姿を見て思ったよ、自然崇拝される原野の牧神だとね。すぐにでも絵のモデルになってもらいたかった、実際、すぐに声を掛けるべきだったな。でも、ちょうどその時だ、夕日は沈みきって姿を消した。橙色と薄紅色に染まる景色は全て視界から消え落ちて、残ったのは寒々とした灰色の世界だけだった。そのとき、驚いたことに……少年も姿を消してしまったんだ!」
「何だと! 姿を消した?」とヴァン・チールは鼻息荒く尋ねた。
「そうさ。だが、恐ろしいのはこれからだ」と芸術家は答える。
「ほんのちょっと前に少年が立っていた開けた丘の中腹には、一匹の大きな狼がいたんだ。黒っぽい毛色の、鈍く光る牙と残酷な黄色い目をした狼だった。お前さんはこう思うかもしれないが……」
あれこれ思いを巡らせるのはもはや時間の無駄だ。そう悟ったヴァン・チールはすぐにその場を立ち去り、駅に向かって全速力で疾走していた。電報という手は既に諦めていた。「ガブリエル=アーネストは人狼なり」と打っても、現状を伝えるには不十分だし望みも薄い。それに伯母にもヒントを書き漏らした暗号文だと思われるのが関の山だ。日没前には家に着くだろうというのが、唯一の希望だった。
汽車の旅路も終わりを告げ、辻馬車を掴まえたまではよかったが、馬車が田舎道を腹立たしいほどゆっくりと走るので、ヴァン・チールはすっかり頭を抱えてしまった。沈み行く夕日で田舎の街道は薄紅色や藤色に染まっている。家に着いた頃には、伯母は食べ残しのジャムやケーキを片付けていた
「ガブリエル=アーネストはどこだ?」
ヴァン・チールの声はほとんど叫び声に近かった。
「あの子なら、トゥープさんのとこの小さい子を送ってもらってるよ」と伯母は答える。
「もう遅いからね、子供ひとりで帰らせるのは危ないでしょう? あら、夕日が綺麗だこと」
西の空を照らす光に気付かなかったわけではないが、ヴァン・チールにはその美しさについてわざわざ立ち話をする暇はなかった。歯車もほとんど噛み合わぬほどの速さで、ヴァン・チールはトゥープ家へ続く狭い路地を疾走した。傍らには流れの速い用水路があり、反対側には殺風景な丘が広がっていた。赤い太陽は次第に小さくなっているものの、まだ地平線のところで端っこの方を覗かせている。次の角を曲がればきっと、捜し求めていたチグハグな二人組が姿を見せるに違いない。
だが、突然、世界から色が消え、灰色の光景が揺らめきながら辺りを包み込んでいった。恐怖に慄く甲高い叫び声が耳に入り、ヴァン・チールは走るのをやめた。
それから、トゥープ家の子供やガブリエル=アーネストに出会うことはなかった。だが、ガブリエル=アーネストの服が路地で打ち捨てられているのが見つかったので、トゥープ家の子供は用水路に落ち、少年が服を脱ぎ捨て身を投げ出したものの、努力の甲斐も虚しく助けることは出来なかったのだろうということになった。ヴァン・チールや、たまたま近くで働いていた数人の証言では、服が見つかった場所のすぐ近くで子供の大きな叫び声を耳にしたと云う。トゥープ夫人は他に子供が十一人もいるので、自分の子の死を真っ当に受け入れていたが、ミス・ヴァン・チールは拾った我が子のことで心の底から胸を痛めていた。そして、ミス・ヴァン・チールが旗振り役となって、教区の教会には「他人のために勇敢に命を犠牲にした名も無き少年、ガブリエル=アーネスト」と刻まれた真鍮の記念碑が置かれることとなった。
ほとんどのことで伯母の意見を尊重してきたヴァン・チールだったが、ガブリエル=アーネスト記念誌の購読だけはきっぱりと断った。
原著:「Reginald in Russia」(1910) 所収「Gabriel-Ernest」
原著者:Saki (Hector Hugh Munro, 1870-1916)
(Sakiの著作権保護期間が満了していることをここに書き添えておきます。)
翻訳者:着地した鶏
底本:「Reginald in Russia」(Project Gutenberg) 所収「Gabriel-Ernest」
初訳公開:2020年12月19日
【訳註もといメモ】
1. 『ヴァン・チール』(Van Cheele)
「ファン(van)」は「~出身」を意味するオランダ語の前置詞で、オランダ語圏の姓でよく見られる。オランダ語風にファン・ヘーレやファン・シェーレと訳してみたかったが、オランダ語圏では語頭がchで始まる単語はほとんどが外来語で、作中でもVan Cheele家は英国にかなり根を下ろしているようなので、オランダ・ベルギー系の移民だとしても、英語読みのヴァン・チールで訳した。ノーフォーク出身のオランダ系英国人のジョージ・ヴァンクーヴァー艦長の例もあることだし、ヴァン・チールは土着したオランダ系移民なのだろうと思う。
ちなみに「Cheele」そのものの意味はよく分からない。著名な地名でないようだ。一説にはドイツ東部のヴェストファーレン地方(オランダと隣接)で見られる名字にCheeleがあり、その由来はオランダ語のschel(甲高い、英語で言うところのshrill)だという話もある。また北インドにはCheele(cheelaやchillaと綴られることもある)というメジャーなパンケーキがあるので、Van Cheeleとはローカルなギャグ(植民地ギャグ)だったのかもしれない。
2. 『山家五位鳥』(bittern)
bitternはサンカノゴイやヨシゴイの総称であり、湿地に住むサギ科の鳥である。ずんぐりとした体に細長い首をしたボウリングのピンのような形の鳥。
3. 『藍鈴花』(bulebell)
ブルーベルは英国に多く自生する、春咲きの多年草で、鐘のような形の青色の花弁が頭を垂らし、鈴なりに連なる。藍鈴花は訳者の造語、だと思っていたが中国語でも同じように綴るようだ。
4. 『大風呂敷を広げる』(talking rather through your hat)
原文は「You’re talking rather through your hat when you speak of feeding on hares.」で「talk through hat」は「帽子越しに喋る=大法螺を吹く」という慣用句で、ガブリエル=アーネストが全裸なので「(帽子を使った)この比喩は相応しくない(the simile was hardly an apt one.)」と続く。日本語に衣服と嘘を絡めた慣用句があればいいのだが、こなれた言い回しがパッと思いつかないので「大風呂敷」で落ち着いた。先人たちもあの手この手を駆使しているようだが、何か良案はないだろうか。
5. 『教区評議員、治安判事』(parish councillor and justice of the peace)
海外の小説を読んでいると教区評議員や治安判事などがよく登場するが、その社会的地位がいまいちよく分からないので、簡単に調べてここにメモしておく。教区評議会は英国の地方自治体の一番下の組織で課税権等を持つ。規模にもよるが町議会~市議会くらいの立ち位置。治安判事は選挙で選ばれる下級裁判官で、管区の治安維持や経済の統制を任とし、かつては警察権や裁判権の一部も有していた。いずれの職位も下級とは言え、地方行政の中で様々な権限を握っているので、江戸時代の地方三役(庄屋・名主・肝煎)のような立ち位置なのだろう。
6. 『モーニングポスト紙』(The Morning Post)
モーニングポスト紙は1772年から1937年まで刊行されていたロンドンの日刊新聞。論調は保守でで、サキは本紙の特派員として東欧へ派遣されていた。「Gabriel-Ernest」が掲載されていたのかと思いきや、本作の掲載誌はリベラルな政治新聞であるウェストミンスターガゼット紙であった。ここでのモーニングポスト紙はヴァン・チールの保守的な姿勢を表すとともに、ライバル新聞屋からの揶揄を含んでいると邪推する。
7. 『日曜学校』(Sunday-school)
教会学校(Church-school)と呼ばれることもある。教区の児童に向けて読み書きや聖書の物語を教えたり讃美歌を歌ったりするなど、聖書教育を行う場。
8. 『原野の牧神』(wild faun)
ファウヌスは古代ローマで信仰されていた家畜や森の神。ギリシア神話のパン神やサテュロスと同一視され、半神半獣の姿で描かれる。本作のガブリエル=アーネストの人ならざる妖艶な野性味を表した良い比喩に思えるが、その怪しい魅力も然ることながら、夕暮れから宵闇に瞬間的に変わる情景描写が秀逸だと訳者は思う。