味
※拙作はボーイズラブではありませんが、想起させる内容を含みます。
初投稿です。よろしくお願いいたします。
拙作はオリジナルですが、作家の江戸川乱歩先生の世界観を再現できないかと思い立って書いたものです。オマージュも特にありません。「それっぽいな」と感じていただければ幸いです。
「じゃりじゃりするね。砂を噛んでいるような感触がするよ。手が汚れたものがずっと持っていたのかもしれない。しかし、微かにシンナーの香りもする。マニュキアを付けたばかりの女性だろうか。人の手についた粉末――砂……?は、単に砂としての味だけでなく、手の皮脂や角質まで含んでいるのだから興味深い。ただの砂とは違い、少し舌に残る感触があって…………っ この味は、何なのだ…… この風味はぁっ…… もっと、……もっとぉ……」
彼は、私の部屋に落ちていた5円玉を拾うと、口に含み、湿り気を含んだ言葉でそうつぶやくのだった。
最初は飴玉を口内でころころ転がすように。その後、もっと深く味わいたいのか、一度指先で取り、側面に舌を這わせるように激しく撫でるのであった。
小さな銅貨に自らの唾液をまとわりつかせるように、ねっとりと――はたまた、舌から脳に刺激を与えるように、ぐりぐりと押し付ける。
そして、彼はそこで得た印象、感覚、情景を、ゆっくり吟味しながら、言葉の中に収めるのだった。
彼は同じ下宿の隣人だ。同い年で、大学の入学に合わせ、ほとんど同じタイミングで入居した。お互い越してきた際に挨拶は交わしたものの、彼の様子を窺うなり、私はもうこれ以上の交流はないだろうと思っていた。
というのも、彼は私が関わるべきでない部類の人間であるからだ。
講義前の教室での過ごし方を見れば良く分かる。彼は気難しい性格なのか、座席の前のほうで一人、読書をしている。しかし、生まれ持った顔の良さと清潔感のある身なりのせいで、女子らの注目の的だった。本人は話しかけるな、とオーラを纏っているにも関わらず、逆にそれが彼の魅力を引き立たせてしまっている。
そんな彼からしてみれば、私のような地味で凡庸な文学少年なぞは相手にしないだろうし、最悪隣人としての認知すらないだろう。聞いたところによると、どうやら彼とは学部が違うらしい。もう同じ講義を受ける機会もないだろうと、同じく地味で凡庸な文学仲間を談笑しながら、座席の後ろのほうで彼を眺めているのが日常だった。
噂をすれば影が差す、とは正しくこのことだろう。彼について考えながら帰宅していた折、玄関先で彼を見かけた。部屋の鍵が見つからないのだろうか、カバンの中を不安げに漁っている。中の財布やらノートやらが今にも落ちそうに、彼の手の動きに合わせて揺れていた。
関わるべきでない部類の彼ではあるが、ご近所付き合いも大事だろうと思わないこともない。ましてや困っているようだし、手助けされて気分を気分を害する方が、むしろ人間としてそうなのかとも思う。
「だ、大丈夫ですか? カバン持ちましょうか……?」
決意して、声をかけたのが遅かったのだろう。声をかけたと同時に、彼のカバンから何かが落ちてしまった。古い下宿で音がよく響き、落としたものを拾ってやる意味でも、私は落とし物へ眼をやった。
そこにあったのはアダルトビデオだった。中古で購入したのか定かでないが、ビニールも何もかかっていないDVDケースが転がっていた。タイトルはよく覚えていないが、モザイクのかかった陰茎から出た白濁の液体が、近くにいる裸の女性の顔に噴出されているのが印象的だった。
男に生まれてきたならば、9割5分の確率でこのような代物の世話になる。暗黙の了解とも言える。私もその経験はあるし、わざわざ他人に言うようなことでもない。しかし、知人の性癖、ましてや薄い壁一枚隔てた向こう側にいる隣人の醜態を――故意でなかったにせよ――知ろうものなら、私は明日からどんな顔をして過ごせばよいのだろうか。
何かフォローせねば、と私は大して回らない頭で考えを巡らせた。そして口をついて出た言葉が
「奇遇だね。うちにも同じものがあるよ」
だ。これと共に地面のDVDを取り、彼に手渡した。
この発言で、私が被る不利益をざっと提示するとこうだ。
一、ありもしない自身の醜態を晒す。
一、相手も醜態が晒されたにも関わらず、引かれる可能性がある。
以上、二点だ。「余計な事」だと言わざるを得ない。
何も言わずに手渡すだけで充分であったのに、無駄な文句を口走ってしまったのは、私の対人能力の無さを物語っている。
さて、相手の出方次第では、ここで救われるかもしれないし、はたまた地獄へ堕とされる可能性もある訳だ。知りたいような知りたくないような、引っ越しの算段を頭の中で巡らせながら、私は彼の顔を見た。彼は、DVDを両手で掴むと
「君、味覚について興味はあるかい?」
などと、顔を輝かせて言うのだ。彼の言葉の意味が、私にはよくわからなかった。
前述した通り、私には一般人が持ち合わせているべき対人能力が欠如している。にも関わらず、特に交流もなかった隣人に、関わるべきでない部類の隣人に、地味で凡庸な私に対して顔の造詣が整っており異性に人気の高い隣人に、このような形で声をかけられようものなら、脳機能が停止して、生きた化石のようになってしまうのだ。相手が引いていないという視覚情報が追加され、想像と現実が追い付かない。さらに、誰もが持ち合わせている「味覚」に「興味」という語彙が結びつかず、相手の意図することが全く読み取れない。聞き間違いだろうか。しかし、彼は期待を湛えたまなざしでこちらを見ている。
私は壊れかけのロボットのように、頭を上下にガクガクと揺らした。よくわからぬままに、肯定の意思を伝えた私である。この時には、どうにでもなれという気持ちの方が強かった、と後に記憶している。
「味覚」とは、舌に刺激を受けることによって生じる感覚である。特定の味を感じない「味盲」という存在はあれども、ほとんどの人が持ち合わせている感覚だ。
彼に言わせると、味覚はどの感覚器よりも視野が狭いのだという。
目の話をしているのか舌の話をしているのか明らかにしてほしいところだが、言わんとしていることは伝わる。
つまり、他の感覚器に比べると使用頻度が低く、舌で感じるものは限定されているということだ。死角や聴覚は寝ている時以外、常に働いている。騒音で目を覚ますこともあるから、視覚以外は常に働いているだろうか。
それに比べて味覚は、口に何か物が入った時のみ働き、大口を開けて生活でもしない限り、自ら口内へ入れた物の味しか感じない。そして、使用目的が限定されているからこそ、別の機会に利用すれば様々な情報が得られるのではないか、と彼は力説する。
別の機会と言ったって、舌は口内に異物が入った際に、検知して吐き出すための器官でもあるのだから、使う機会などそう多くもないはずだが。感覚器の限界を試す、という意味の興味でもあるのだろうか。
玄関での悲劇の後、流れで上がった彼の部屋でその話を聞いていると、彼はカバンにあった財布の中から10円玉を取り出し、小さな菓子をつまむように、それを口内へ放り込んだ。
潔癖の人はつり革が握れないというのは有名だが、それと同じくらい硬貨に触りたくないという人も多くいる。ましてや、10円玉などはその色味のせいで、他の硬貨よりも汚く見えてしまう。私は特に潔癖ということもないが、煤でも触らない限り、そんなことにはならないくらい手が黒い爺さんが持つ、なぜか砂が付いた財布から出てきた硬貨は、死んでも触るまいと心に決めたことがある。
彼は舌の上で転がすと、上あごに張り付けて感触を確かめたり、唾液で溶けてしまうのではと感じるほどしつこくねぶったりした。
「汗のような、しょっぱい感じがずっとするけど、その奥にはどぶ川にでも落ちたようなエグみが支えているね。化学薬品みたいな味もする。少し華やかなにおいもするから、においの強い香水かハンドクリームをつけた人が持っていたんだろうか。それにしても、このエグみはなんだろう。自動販売機の下にいたとか……棚の下でホコリまみれになっていたとか……」
一通りねぶり終わると、彼は日記帳を取り出し、どんな味がしたかを事細かに書き記すのだ。そして、更なる空想のために、さらに激しく舌を動かす。
息を荒げ、小さな鉄の塊に一心不乱に欲望を注ぐ。舌から送られてくる刺激に知的好奇心が揺さぶられ、丹念に丹念に、感覚器を擦り付けていく。その間も何かブツブツ言いながら日記帳に記そうとするのだが、脳内を蹂躙するアドレナリンに神経を奪われ、唾液が纏わりついた指先ではペンがうまく握れず煩悶していた。
正直、私は何を見せられているのか、結局彼は何がしたかったのかわからなかったが、純文学にも造詣がある私としては、まるで私小説の世界の中に入ったような心持になり、ある種興奮する部分もあった。
なによりこの男だ。世の平均水準よりは顔が整っているため、みだりに欲望をさらけ出していても絵になるのだ。などと考えていたら、日記帳に書き記せないで苦しんでいる彼がかわいそうにも思えてきた。気付けば、私は彼からペンを奪い、「代わりにやってやるから続けろ」とまで言う始末だ。こうして、私たちは互いの部屋を行き来するほどの仲となった。
私が彼の奇行に肯定的になり――むしろ興味を持ち始め――自ら集めた硬貨を彼に与えるようになるまで、一ヵ月もかからなかった。過去についた嘘が真になり、味覚に興味を持つようになったかと思いきや、それに関してはさほど興味は持てなかったし、彼の真似をしてみようとも思わなかった。
私は、彼が妄想の果てに発する言葉に興味があった。そして、知的好奇心を満たしたいがために、痴態を晒しているさまに目が離せなくなっていた。
男が男に――と私も思わないでもなかった。しかし、他人の前で恥じることなく、小銭のために満身創痍になっている男を眺めるのは実に愉快だ。どんな映画より鬼気迫っていて、日常に溢れるどんな事件よりも刺激的であった。
私は、彼の部屋を訪れるたび、大量の硬貨を持っていき、一言一句聞き漏らさぬよう、日記帳に書き記していった。
とはいえ、常に口に物を入れている状態で話すため、聞き取りづらいことこの上ない。そのため、耳で言葉の判別がつかない時は口元を見るようになり、皮肉にも読唇術の心得が多少身についてしまった。
自然に手元、口元に目がいくようになったのだが、ずっと見ているうちにむずがゆくなっていった。なんだか私自身が、彼に嘗め回されているかのような、全身を蛇が這いずり回っているかのような、だがふとした瞬間、妙な快感が得られるような、異様な気分だ。
尾てい骨の辺りから背筋にかけて下から上へ、スゥっと線を描いたり、そこから脇の下を舌の表面の神経を使って皮膚のシワを確かめるように這わせていったり――目には見えない舌の存在を、私は確かに感じていたのだった。
ある日、いつものように彼の部屋で彼の痴態を眺めていた。彼は私の方を見て怪訝そうな顔をすると、手を止めて私の方へ寄ってきた。
これまで何はあっても、気の済むまで手を止めなかった男だ。珍しいこともあるものだ、と彼が口を開くまで待った。
「君、顔が真っ青だけど、大丈夫かい?」
まさか、いつも奇行を繰り広げている彼に心配される日が来ようとは。彼にそうさせるまでに酷い顔をしていた、ということだろうか。
洗面台の鏡を覗き込むと、自分でも重症だとわかるくらい青ざめた顔をしていた。何か変なものでも食べたか、自覚がないほどに疲れているのだろうか。
「ほんとだ、酷い顔色をしている。すまないが、今日は切り上げて、帰って休ませてもらうよ」
そうして、彼の部屋から数歩の私の部屋へ向かった。自覚すると急に気分が悪くなるもので、私の部屋のドアの前で耐え難い吐き気を催し、気付けば便所で蹲っていた。
吐瀉物の中には、硬貨が数枚混ざっていた。
翌日、彼が私の部屋を訪ねてきた。昨日の様子が気になったようで、手土産まで用意していた。彼と私の部屋は薄い壁一枚しか隔たりがないのだから、私が嘔吐している様子が漏れ聞こえたのかもしれない。
とはいえ、吐いてみると、それまでの不快感が嘘かと感じるほど楽になるものである。私はその後、すっかり気分が回復し、念のため安静にはしていたものの、今朝はここ数年で一番といえるほど快調だった。
手土産の果物を二人でつまみ、大学での世間話に花を咲かせていると、彼が横目でチラチラ何かを気にしている。私の後方には背の低い棚があり、その上の硬貨が気になって仕方ないのだと、すぐに察しがついた。
「これ、昨日掃除をしていたら出てきたんだ」
私は三枚ほどあった硬貨を取り、彼に差し出した。
「果汁の味が残っているから、正確には感じ取れないかもしれないな」
と苦笑しつつも、期待に満ちた目で硬貨を口に含んだ。
すると、すぐに考察は始まらず、戸惑う様子で目を左右に二、三度泳がせた。
「これ……どこから出てきたのかな……? よくわからないが、複雑な味がする。今までにない感覚だ。少し酸味が強いような、奥にまだ何かあるような…… 少し表面が擦れているのか、凸凹してなくて、舌触りが柔らかい………… こんなもの、どこで手に入れてきたの? すごいなぁ、君は」
完