△が降る街
私の街では時々、三角形が降る。
三角形が降る日は街中の公共交通機関が止まり、人々は家に閉じこもり、高校は臨時休校になる。街は濃い灰色の雲に覆われて暗くなり、呼吸を止めたみたいに静まりかえる。空から降りしだく無数の三角形は、家の窓やコンクリートの地面にぶつかり、カラカラと錆びた鈴のような音を立てて、弾ける。
三角形が降る日は人の声が恋しくなる。部屋のベッドに寝転がり、毎日顔を合わしているはずのクラスメイトを一人一人思い浮かべて、昨日の休み時間に話したたわいもない会話を頭の中で繰り返す。そして、午後を過ぎたくらいに、誰かから電話がかかってくることがある。だけど、いつも以上に人恋しくなっている時にかかってくる電話に限って、耳を塞いでしまいたくなるような、そんな話になってしまう。
「ずっと言おうと思ってたんだ。だけど、俺たち三人の関係を崩したくなくて、言えなかった」
俊介が意味もなく鼻をすする音が聞こえてくる。怒られるんじゃないかって緊張している時にしてしまう俊介の癖。子供の時から変わらない、本人すら知らない、私しか知らない俊介の癖。聞いてる? 電話越しに俊介が確認してくる。聞いてるよと私は寝返りを打ちながら答える。小学生の時から使っている古いベッドが重みで軋む。ぐっと足を伸ばすと、足先がざらざらとした壁に触れる。
俊介が何を言おうとしてるのかも知ってるよ。喉元からでかかかったこの言葉を、私はぐっと飲み込み、何のこと? とおどけてみせる。ボロ布のようにくたびれた、馬鹿みたいな期待を胸に抱いて。
「俺と麻里奈、付き合うことになったから」
外からは相変わらず三角形が降る音が聞こえる。電話越しに俊介が鼻をすする音が聞こえてくる。私はシーツのシワを人差し指でなぞりながら、返事を返す。
「うん。わかってた」
私の街では時々、三角形が降る。
朝の微睡の中、三角形が降る音で少しずつ目が覚めていく感覚は嫌いじゃない。窓の外からカラカラと音が聞こえてきて、寝ぼけ眼をこすりながら窓の方へ視線を向けると、カーテンの隙間から降りしだく三角形が見える。今日は休校かとぼんやりした意識のままつぶやいて、寝台に置いてあるスマホを手に取って電源を入れる。そういう時にいつだって通知画面に表示されているのは、幼馴染の麻里奈からの絵文字付きのメッセージ。
「怒ってるよね?」
どこか怯えるような声で麻里奈が聞いてくる。俊介との電話が終わって数分も経たずにかかってきた着信。さっき話が終わったよって、俊介から聞いたの? そりゃ、そうだよね。だって、二人は恋人同士なんだから。私は意地悪でそう言ってやろうかと思ったけれど、麻里奈の傷ついた顔が頭をよぎって言えなかった。
「昔から三人一緒で、それが当たり前で、これからもずっとずっと三人一緒にいられたら良いなって本気で思ってた。美樹が俊介のこと好きだってことも気がついてたし、だけど、私に気を遣ってそれを表に出さなかったことも知ってる。でも、私は美樹みたいに強くなれなくて、好きって気持ちがどうしようもなくなって、わけわかんなくなって、でも、俊介だけじゃなくて美樹のことも大好きで、それなのに……それなのに……」
風が強くなる。窓ガラスに三角形が勢いよく叩きつけられる。先の尖った三つの頂点が、互いにぶつかり合って音を立てた。カラカラ。カラカラ。それから消え入るような声で、麻里奈が言葉を続ける。
「ごめんなさい……」
私の街では時々、三角形が降る。
三角形は夜明けから降り始め、正午から夕方にかけてピークを迎える。だけど、一日以上降り続けるということは滅多になくて、夜のうちには三角形は降り止み、次の日の朝はいつだって、目が眩むほどの快晴になる。そして、街へ降り注いだ三角形は、翌朝になると跡形もなく消えてしまってしまう。側道に積もった三角形も、ベランダに散乱した三角形も一つ残らず。残されるのはただ、朝に吹く、湿気をたっぷり含んだそよ風だけ。
麻里奈は「気を遣って」なんて優しい言葉を使ってくれたけど、私には始めから可能性がなかった。女の私から見ても麻里奈は可愛かったし、小さい時から守ってあげたくなるような、そんな存在だった。子供の頃はよく、足の早い私と俊介の後ろを小走りで追いかけてきて、置いてけぼりにされないようにと私や俊介の服の裾を掴んでは、それをいつもおばちゃんに注意されていた。そんな子供っぽい所があると思えば、私と俊介が口喧嘩してしまった時には、まるでお母さんみたいに私達二人をたしなめて、まるで子供扱いするかのように、無理やり仲直りの握手をさせたりする。
私と麻里奈と俊介は物心がついたときから一緒にいて、同じ時間を同じ歩幅で歩いてきた。確かに私たちは一つの三角形だったんだと思う。だけどそれは多分、等辺が長くて、底辺が短い二等辺三角形。私はいつだって、近くで寄り添う二つの頂点を遠くから見つめる、仲間外れの頂点。同じだけの時間を過ごしてきたのに、同じだけの思い出を積み重ねてきたはずなのに、私の好きな人は私じゃないもう一人を選んだ。結局は顔かよ、バカ俊介。好きになった人にそう突っ込みながら、私は右頬のそばかすをそっとなぞる。
私の街では時々、三角形が降る。
街の人は家に篭り、降りしだく三角形の音を聞きながら止まった時間を過ごす。身体を寄せ合って仲睦まじげにひそひそ話をする人たちや、電話越しに愛を囁き合う恋人たちがいて、その一方で、鉛のようにずっしりと重たい孤独に耐えている人がいる。ベッドから起き上がり、窓に近づいてカーテンを開けてみる。三角形が降り注ぐ街を見渡してみると、ヘッドライドを点灯した車が、閑散とした大通りを横切っていくのが見えた。
ベッドの上のスマホが振動している。俊介か麻里奈のどっちかかなと思ったけれど、二人の声を聞いたら泣いちゃいそうで、私はその電話に出ることができなかった。風がまた強くなり、横殴りの三角形が吹き荒ぶ。私がちょっとだけ窓を開けると、外から勢いよく風が吹き込んで、それに混じっていくつかの三角形が私の部屋の中へと入り込んでくる。窓を閉じると再び静寂が訪れて、床に転がった三角形が部屋の照明を反射して鈍色に光った。
スマホの振動が止む。私の浅い呼吸の音。どっちからかかってきたんだろうって少しだけ気になり、ベッドに戻ってスマホの画面を覗く。画面に表示されていたのは、俊介でも麻里奈でもなく、仕事中のお母さんからの着信。私はベッドに倒れ込んで、仰向けになる。孤独感と、自分の自意識過剰さに、私は深い自己嫌悪に落っこちていく。目を閉じてみる。目を閉じると、三角形が降る音が鮮明に聞こえてくる。今日降っている三角形はいつもより大ぶりで、地面に落ちて弾ける音の音程が少しだけ、高い。
私の街では時々、三角形が降る。
なぜこの地域に三角形が降るのか、そして空から降って、次の日の朝には跡形もなく消えてしまうこの三角形が一体何なのか、その答えを知る人は誰もいない。翌朝に窓のカーテンを開けて外を見渡せば、空は晴れ渡り、遠くには薄い群青色をした山並みが見える。そして、街はゆっくりと呼吸を始める。街のあちこちから少しずつ人の声が聞こえてくる。窓を開けて外気を部屋の中に呼び込むと、湿気を帯びた風が私の髪を優しく撫でてくれる。
スマホが振動している。私はお母さんからだろうと思って、手にとって確認する。画面に表示される麻里奈という名前。画面をタッチしようとする私の指が止まる。スマホを持った私の右手が虚しく震える。振動が止まり、通知画面に戻り、麻里奈から電話がかかってきたことを示す通知パネルが画面に残される。
怒ってるよね? 麻里奈の言葉が耳鳴りのように聞こえてくる。怒れるんだったら、もっと気持ち的に楽になれたと思うよ。でもさ、私達ってそんな簡単な関係じゃないじゃんか。自分に言い聞かせるように、私はそう呟く。私達は物心がつく前から三人一緒で、この三角形が降る街で、同じ空気を吸って生きてきた。正三角形になったり、二等辺三角形になったりしながら、それでも決してバラバラになることはなくて、私達はいつだって三つの辺でつながっていた。今までも、そして多分これからも。
私は深く息を吐く。なんて言ったらいいのなかんてわからないし、麻里奈の声を聞いたら、悔しさと寂しさで泣いちゃうかもしれない。それでも、私はスマホをぎゅっと握りしめる。そして、もう一度深く息を吐いてから、私は、私の大事な三角形の一つの頂点に、電話をかけた。