第88話 大浮き球(中編)
第88話 大浮き球(中編)
海岸にある空き地に車を停めて、少し歩いて浜辺に下りた。砂浜半分、岩肌半分で、時々やや大きめタイドプールがあって、粘膜のような怪奇が泳いでいた。晴れていたから足元はそこまで悪くなかった。
「上野さん、大浮き球はどう見えていますか」
藍風さんは双眼鏡越しにそれを覗いている。
「あれは…海苔のような怪奇が表面に生えていますね。臭いも…そうですね、潮の香りが強いですが、海苔のものと似ています。音は、難しいですね」
普段は感覚を制限しているが調節すれば容易にわかる。やりすぎると情報量が多すぎてパンクしそうになるけれども。
「双眼鏡越しでも同じです。後は相応の気配といいますか、ざわつくものがあります。スケッチしますので、他に情報があったら教えてもらえますか」
「はい。もしあれなら、車からでも見えますから電話越しにお伝えしましょうか。寒くないですか」
「ありがとうございます。今日は暖かいので大丈夫です」
普段と変わらない声で藍風さんは答えた。
藍風さんのスケッチは画ではなく、図、であった。分かりやすいが淡々とした感じのそれだ。私も人のことは言えず、美術は苦手である。見たものを書くのは何とか出来ているはずだ。
藍風さんが鉛筆を走らせている音を聞きながら、特徴になりそうなことを伝えた。例えば、
・海苔の間にカニやカニの手足が生えた魚のような怪奇も隠れていること、
・前進の速度は非常に遅いが一定と思われること(後で計算したら予定では浜に着くには暫く猶予があった)、
・こちら側に実体を現していないこと(逆に能力を抑制すると姿が見えなかった。他の人が見えていないのと同じ)
だ。
私の能力はこういう時に役に立つから、すぐに予定されていたであろう仕事は終わった。あとは経時的な変化を観察して終わりだ。藍風さんの能力で対応できないかも聞いてみたが、情報が少なすぎること、複数種の怪奇の集合体だから恐らく非常に複雑なやり方になってしまうことから難しそうと申し訳なさそうに言われた。
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天気が良かったから、大浮き球の様子を眺めながら波の音や潮の香りを感じていた。カモメが数羽、遠くのガードレールに留まっていた。1羽だけ鳩が混ざっていた。違う色なのに排除されずにまとまって等間隔に並んでいたのが平和だと思った。
しばらくしても大浮き球には変化がなさそうだったため、早めに切り上げてホテルに戻った。藍風さんと夕食の時間を決めて、部屋に戻ってから仮眠を取った。
夕食が食べられそうな所は昼のうちに見繕っていたため、そこの定食屋で肉豆腐定食を食べた。車で来ているから酒は飲めなかった。それに、ホテルに戻ってからも飲めなかった。夜中にも観察する必要があったからだ。代わりに缶コーヒーとおにぎりをスーパーマーケットで買っておいた。藍風さんも一緒についてきて、特に何を買うわけでもなかったが、興味深そうに値札を見ていたようだった。そういえば一人暮らしだから、価格が気になったのだろう。ついでに何か買っていってもよかったのに。
ホテルで再び仮眠を取って、真夜中に起きて、夜食を食べながら海に向かった。街灯もなく、人気もなく、昼間と違って波の音がこちらを闇の中に手招いているように聞こえた。私には良く見えているからそこまで危険ではないが、不気味だった。藍風さんには夜は寝てもらって、朝方から観察してもらうことにしてあった。
夜の海にも変わらず大浮き球はあった。星がきれいに見えた。海からはふわふわと浮く複数の虫のような怪奇が湧いていた。潮風が少し冷たく心地よかった。陽が昇る1時間ほど前に、大浮き球は急に姿を消した。
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ホテルに戻ってシャワーを浴びた。少しべたついた気がしていたからだ。それから朝食を食べて、藍風さんと海辺に行った。できるだけ海の近くの空き地に車を停めて、そこで私は仮眠を再び取った。藍風さんはその近くで双眼鏡を使いながら大浮き球が出ていた辺りを見ていた。暖かかったからぐっすりと眠れた。
スマホが鳴って目が覚めたときに、ビクッと何かが動いている音も一緒に聞こえた。
「藍風さんでしたか。おはようございます。どうしましたか」
ばっちり目が合った。
「あ、おはようございます。大浮き球が現れました。偶々ちょうど伝えようと思いまして…」
藍風さんの言うように、大浮き球は再び現れている。藍風さんはしどろもどろになっているように見える。
「ああ、ありがとうございます」
あくびが出そうになったのをこらえて返事をした。
「あ、消えたときと同じように、現れたときも突然でした」
しかし藍風さんはすぐに冷静さを取り戻したようで、姿勢を正していつものように淡々と言った。
その後、藍風さんと少しの間大浮き球を眺めていたが特に変化はなかった。昼頃になったので、一旦昼食をとりに行った。近くの定食屋(夜とは異なる)で刺身定食を食べた。
依頼は達成したから他に行うことはもう一度観察することだけだった。速報を既に協会の方に送ってあったから、帰ってから書く報告書も時間がかからないはずだった。