第291話 くるくる(後編)
第291話 くるくる(後編)
弦間さんに電話をかけると運良くつながった。ハンズフリーにして胸ポケットに収める。
「上野さん、例の呪いの件か?」
何を言うまでもなく目的が伝わる。
「ええ、それで込み入ったことになっていまして…」
事の次第を伝える。身代わりが壊れたこと、それから吐き気と出血、Xが出現したこと、現在自転車で逃げていること…。
「それなら、呪った相手は死にましたね。身代わりを貫くほどの念が籠っているのなら、素人なら、自分自身は無防備になっている。そのXとかち合って、勝ったのはXだ。手傷は負っているようだがね。獲物を取られると思って出てきたのだろう」
そのようなものが体の中に入り込んでいたと考えると、気味が悪い。
「それなら後はXを片付ければこの出来事は終わる、ということでしょうか」
「ほぼそうだろう。知人に当たってみるが、期待しないでくれ。そのままとにかく距離を取るのが最善だ」
「ありがとうございます。では」
電話を切る。つないだまま適宜指示を受ける、というのもなくはないが、適切に状況を伝えることもできないだろうし、その指示をすぐさまこなせるとも思えない。逃げに集中する方が、よい。
Xは既に私の家を出た。一度高所から振り返ったときにちょうど見えた。後は、まずは逃げるとして、札も効かない怪奇である。支部まで行くのは流石に遠すぎるし、道も自信がない。信号に引っかからないようにしながら、何とか進む。幸いXの速度はそれほど速くない。辛うじて逃げることができている。
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いつの間にか、見慣れた道を行っている。この道は…、かつての職場に通っていたときに使った道だ。剥げた看板、寂れたコンビニ、荒れた畑…。その中に、訳の分からないモノが幾つもいて、ソレらを例え感じなかったとしても色彩が豊かに、虫やカエルの声が美しく、何かの花の香りが風に乗って流れてくる。あのときには感じることができなくなっていた感覚だ。
Xはだんだんゆっくりとだが、加速している。足も疲れている。
(やむを得ないな…)
カバンの中の使わない物、食糧、水を、水は一口飲んでから、路地の片隅に捨てていく。後で必ず片付けると約束して、幾分か軽くなったカバンに硬貨虫を押し込んで、進む。
進む。トラックが来てXを轢いてくれないだろうか、などつまらないことが頭をよぎる。が、不自然なまでに車の影さえない。
進む。息がきれる。朝はまだ先だ。朝になったからこれが終わるとは限らない。
進む。アメリカでもらった諸々をまき散らす。バチバチと音を立てたそれらのいくつかはXに命中して、手足の何本かを動かなくしたようだ。少し遅くなった。
進む。地面に札を撒く。わずかに足止めができた。
進む。このままだと直に追いつかれる。使えそうな物は…。探す手間さえも惜しい。硬貨虫のコインを掴んで、投げつける。当たって、動きが鈍った。訳の分からない物に訳の分からない物をぶつけて、未知の反応が起こったようだ。頭の隅で、後で協会から叱られそうだと、考える。
進む。そろそろ限界に近い。Xが諦める気配もない。もう少し勉強をしておけばよかった、早くから準備をしておけばよかった、などは今更考えたところでどうしようもない。
私は、かつてなら考えられないくらい、生に執着している。諦めてしまえば楽である。痛みは一瞬だろう。変に患ったり何かの後遺症を持ったりして、永く苦しむより、むしろ、だ。ある意味チャンスと考える人がいてもおかしくはない。
どうするか。逃げきれない。誰かに電話をかけるとして、その余裕もない。弦間さんからどこに連絡が行ったのだろうか。死にたくない。
電話が鳴った。かけてくるということは、必ず意味がある。信用している。
取る。
「上野さん!」
藍風さんだ。
「硬貨虫のコイン、無地の赤いものを、Xの眉間に当ててから札を!」
硬貨虫のコインは全て投げてしまったはずだ。赤いものがあったか、どうする―。
カバンの中から音がした。硬貨虫だ。藍風さんはこのことを分かっていて、電話をくれたのだろう。硬貨虫も、もしかしたら電話の内容を理解したのかもしれない。カバンに手を突っ込み、丸いものを1つ掴み、そのままハンドルを握り、急旋回する。
Xは、虚を突かれて驚くこともなく、真っ向から向かってくる。加速して、寸でで自転車から飛び降りて横の段差に飛び移り、慣性でぶつかった自転車が薙ぎ払われて、Xの勝ち誇ったような、恍惚とした表情が見えた。
その隙に、段差からXに、勢いを乗せて跳びかかり、コインを握った手を眉間に叩きつける。Xの顔が、固まった。次の表情を見る前に、勢いのまま道路を転がってしまった。
(まあ、それでも…)
「終わりだ」
札を貼りつける。終わった。




