第272話 水車(後編)
第272話 水車(後編)
男女はちょうど反対の位置に縛り付けられている。片方が真上にいるときはもう片方が水中に潜り込んでいる。片方が水中から現れて、少し経つともう片方が水中に飲み込まれていく。同じ言葉が鏡から繰り返し流れてくる。しかし、その言葉通りの観衆の姿は見えない。
「何か言っているわ」
確かに、興味津々で見ている宍戸さんが言うように、男女双方が水中から出ているときにお互いに向かって何かを叫んでいる。しかし、その内容は聞こえてこない。集中しても、聞こえない。つまり、音は漏れてきていない。
「大方罵り合っているのでしょう」
状況からしても表情からしても推量できる。磔になった責任をお互いに擦り付けているのか、あるいは、例えば水中にいるときには水車を止めることができる何かがある、そしてお互いそれを使わないことに文句を言いあっているなどだろうか。何にせよその光景は醜い。
「ここから水車が見えるよ。みんな来ているよ。人がくっついているよ」
宍戸さんが春日さんから聞いた話では、この声を聞いた先祖はそこで気を失い、それから特に何も起こらなかったらしい。今のところただ声と映像が流れているだけだが、もしかしたらこれから更に何かあるのだろうか。
鏡に不思議な風景が映り、そこから言葉が流れていても非現実感を覚えないのは、自然の音が変わらず聞こえているからだろう。よく考えるとタブレットで映画を見ているのと何も変わらない。怪奇でなければだが。
「どうします?」
桾崎さんがいつでも鏡に攻撃ができるように構えながら問尋ねてきた。
「これ以上何かが起こる前に封じておく方がいいと思います」
藍風さんが淡々と言う。
「私も賛成です。宍戸さん、もうそろそろ…」
「待ってよ。これ…、目が離せないわ。だって、どっちが先に―」
横を見ると、宍戸さんの目が情熱たっぷりに輝いている。これのどこにそれほどの興味を示すものがあるのだろうか。いや…。宍戸さんの肩を掴もうと手を動かす。しかし、小さな手が先を行った。
「危ないっ!」
桾崎さんが宍戸さんを前を向いたまま後ろに押した。宍戸さんが一歩下がり、急に表情がキョトンとなった。急に鏡から漏れる声が大きくなる。
「みんな来ているよ!」
「壊します!」
桾崎さんが宣言すると、金剛杖で鏡を思いきり突いた。割れない。それでも桾崎さんは冷静だ。半歩引いて九字を切った。
最後に腕を振り下ろして、桾崎さんがもう一度すぐに杖で鏡を叩くといとも簡単に鏡が割れて、今まで聞こえていた音が止まった。割れた鏡の破片には少し怯えた顔をした宍戸さんが映っている。
「私、もしあのままずっと見ていたら…」
小さく呟かれたその声に藍風さんが返事をするのが聞こえた。
「鏡の中に引き込まれて戻ってこれなかった、と思います」
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鏡の破片を全て拾い集めて片付けてから、私たちは荷物を全部車に積み込み、そこを発った。宍戸さんは(何故か)鏡に魅入られて、その直後は多少の恐怖があったようだが、時が経つにつれてよく分からないモノに遭遇した興奮と桾崎さんのまさに正統派な戦い(?)を見た喜びが現れたようで、市街に近づくにつれて口数が多くなっていった。桾崎さんも褒められて嬉しそうにしていた。藍風さんや私も時々会話に混ざり、駅前のホテルまで賑やかに向かった。
3人をそこで降ろしてからレンタカーを返し、私もホテルまで向かう短い間にあの水車について考えた。あれは本当に鏡の中で起こっていることなのか、過去にどこかで起こっていたことなのか、全くの作り物なのか、いずれにしてもこちらの世界の人間に興味を持たせることが目的なのだろう。
夕食は結構高級そうな中華料理の店で食べた。せっかくだからということで紹興酒を少しもらって、宍戸さんと一緒に飲んだ。おかげで部屋に戻った後はほろ酔いで、本を読もうと思ったがすぐに眠気が襲って来た。




