第268話 丸い鏡(前編)
第268話 丸い鏡(前編)
鏡は、普段全く意識していないどころか、意識して見ても何ともないのだが、不意に、例えば夜中や夜明け、目の横で、洗面所にある物を見たときに、その向こうの自分やその向こうの景色に違和感を感じてしまうことがある。鏡絡みの怪奇現象は広く伝えられている。その考えが思い起こされてしまったのは、宍戸さんから受けた依頼のせいだろう。
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当日、硬貨虫はご機嫌のように見えた。前日に外に連れて行くと伝えたから、自分がそう思い込んだのだろうと思った。その硬貨虫をケースに移した後、私は荷物をまとめて文松駅へと向かった。
朝から蝉がやかましく泣いており、すでに外は蒸し暑かった。駅前には藍風さんが先に到着していて、日陰で待っていた。私のくる方向をたまたま見ていた藍風さんは私の姿に気づくと、こちらまで近寄ってきた。
「おはようございます」
藍風さんは夏らしい服を着ている。細くすらりとした手足が日に照らされて光って見える。全く日焼けをしていないのは日焼け止めの効果だろう。
「おはようございます。暑いですね」
改札を通りホームに着くと程なくして電車がやって来た。車内は涼しく空いていて、隣の席に座った藍風さんの熱がじわりと伝わってきた。放射熱というものだろう。それに乗ってシダーのような優しい香りが流れてきた。車窓から見える青空は古いアニメの田舎の色で、何かイベントが起こるような期待を誰かに起こさせるものだった。宍戸さんにとってはこの後に起こったことは非日常で、まさに景色のままになったと思う。
G駅に着いた後、私たちは桾崎さんと合流した。いつもながら大荷物の桾崎さんはよく目立っていて、すぐに見つけることができた。
「おはようございます。暑いですね」「おはよ」
「あ、おはようございます!」
桾崎さんもまた夏めいた服を着ている。藍風さんとは対照的に、健康そうな日焼けの跡が顔と腕に残っている。
藍風さんと桾崎さんが仲良く歩いていく少し後ろを進む。私たちが宍戸さんに初めて会った時は、藍風さんのよく分からない能力で怪奇に対応した。今回、いわゆる正統派の能力を見てみたいという宍戸さんのお願いと、戦力が必要そうであること、さらには弦間さんから桾崎さんに経験を積ませたいと言われていたことが重なって、桾崎さんに同行してもらうことになった。
新幹線に乗った後、藍風さんも桾崎さんも夏休みの宿題をやっていた。私も遺族心理に関する本を読んで移動時間を過ごした。夏休みの宿題といえば自由研究があるが、桾崎さんはそれこそネタには事欠かないだろう、と思った。しかしネタのほとんどは表に出せないものであるが。そう言えば中学生には自由研究があっただろうか。藍風さんに聞いておけばよかった。
私は本を読みながらも今回の依頼内容を思い出していた。つまり内容にそこまで集中していなかった。
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宍戸さんのお友達、春日さん(番組製作スタッフの方らしい)は地方のいいとこの育ちだ。その春日さんの母方のルーツ、曾々祖父母が住んでいた山中の家に伝わっている話があるという。何でも子供のときに曾々祖父から、自分の祖父が子供の頃に体験したと話だと聞いたそうだ。
その家には当時新品の丸い鏡があった。家の柱に吊るしてそれは特に曰くのある物ではなかった。ある雨の日、親が仕事で家を空けていて、兄弟も友達の家に行ってしまい、家の中で一人になった彼は居間で本を読んでいたそうだ。
しばらくすると、雨音に混ざって何かの音が聞こえてきた。本に飽きた彼はその音を辿ろうと探し始めた。色々と動くうちに音がぼそぼそとしたものから次第に明瞭になっていく場所があった。それが、その鏡のある場所だった。
「ここから水車が見えるよ。みんな来ているよ。人がくっついているよ。ここから水車が見えるよ―」
その音、というか声は彼を招くように、そう聞こえたそうだ。次に気づいたとき、倒れていた自分を見つめる母の姿が見えて、鏡にも異変はなかったらしい。勿論両親に彼はそのことを訴えたそうだが、そのようなことで捨てるなどあるはずもなく、それどころか拳骨をもらって、それで終わったそうだ。
そこは既に廃村となっており、家々は解体の手間がかかるからと放置されている。件の鏡は家のどこかにしまったが、引っ越した後にはなくなっていたそうだ。
今回の依頼はその鏡を探して、本当にそういうことが起こるのか確かめることだ。




