第212話 揺れていた
第212話 揺れていた
家の玄関は難なく開いた。外に出て鍵をかけるとようやくほっと一息つくことができた。時計を見ると体感通りの時間が経っていた。協会と依頼者への連絡は後に回すことにして、残り少ない夜を寝て過ごすために寄り道せずにホテルへ戻った。
毎度のことだがフロントに怪しまれながらも鍵を受け取り、エレベーターに乗って、部屋の前で藍風さんに「おやすみなさい」と言って、部屋に戻って、リュックを置いて、靴を脱いで、ベッドに潜り込んだ。藍風さんのおかげで事は片付いたが、どうして私たちが家に入った時に限って異常が起きたのだろうか。外から見た揺れているモノは家の壁が揺れていたからそう見えただけなのだろうか。そんなことを考えていたがすぐに眠気に誘われた。
翌朝、藍風さんと一緒に朝食を食べに下りると、外にちょっとした人だかりができているのが見えた。その中に2体人間のような怪奇が混ざっていた。周りの声を聞く限り、どうやら包丁を振り回していた女が捕まった後らしかった。部屋まで響いていたサイレンの音はこれだったのか、朝からご苦労なことだと思った。朝食はごく普通に美味しかったのだが、その騒ぎを眺めている客が多く残っていて席を確保するのが難しかった。
チェックアウトのときには人だかりはなくなっていた。例の怪奇もいなくなっていた。私たちは大亀町から出る前に前日に行ったスーパーマーケットにもう一度寄って、違う種類のパンや他の副菜を買った。
藍風さんは車の中で眠そうだった。日が当たっているから眠ることもできなかったようで、始めは参考書に目を落としていたが、何度か頭がこくっと動いて、髪がつられて流れるように動いてからは勉強をあきらめたようだった。結局帰りも米国に行く話をした。
途中休んだパーキングエリアには景色の良いところにテーブルと椅子が置かれていて、私たちはそこで町を出る前に買った昼食を食べた。そよ風と日差しが気持ちよく、パンの甘い香りと草木の匂いが混ざりあっていて、そこでうたた寝をしたらどれだけ気持ち良かっただろうか。人目があったからしなかったが。もっと言うと、遠くの茂みの陰からこちらを見つめている犬のような怪奇がいたからというのもある。
高速道路を降りて文松町に着いたときはまだ明るかった。藍風さんの家の前に車を停めたときいつもよりも早く着いたような気がした。時計は正確だったから眠気で早くも勝手に時差ができていたのかもしれない。
「着きました」
「はい」
サイドブレーキを引いてエンジンを切ると藍風さんがシートベルトを外した。それから後ろの荷物を取るのに体をひねって、指先で手繰って、持ち上げると膝の上に置いた。
「ありがとうございます」
「いえ、こちらこそありがとうございます」
藍風さんと普段通りあいさつをして、彼女が助手席のドアを開けて、外の風が入ってきて、藍風さんが下りて、車の中の空気がどこかに流れ出て、藍風さんがこちらを振り返った。
「アメリカ出張頑張ってください。あと、気を付けてください」
藍風さんの目がこちらをじっと見つめている。心配してくれている。その心遣いが、ありがたい。
「ありがとうございます。お土産買ってきますね」
「はい」
藍風さんは多分満足げに助手席のドアを閉めると門を通って敷地の中へ消えていった。その姿を見送って、私はエンジンをかけた。車の中には落ち着く甘い香りが残っていた。
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夕食はまたも出来合いの物で、美味しいし楽なのだが、しばらく自分で作らないと何だか物足りなかった。そのごみは何とか一袋にまとめることができた。ごみ出しの日がキリの良い曜日で良かった。
風呂に入った後荷物を再度確認して、忘れたらまずいパスポートや硬貨虫(まだ水槽に入れていたが)をもう一度確認して、戸締りやガスの元栓を確認してから早めに布団に入った。パスポートは忘れても翌日以降の便に乗ることができる(可能性がある)が、硬貨虫を忘れたら大変だと思った。帰ってきたときに餓死(?)していたら管理不行き届きで協会に相当絞られるだろう。脱走していたらモニターやエアコンや電子機器が食いつくされているかもしれない。近頃は水槽の外に出しても分別なく食べることはないが、私がいなかったら何をするかわからない。
藍風さんたちへのお土産は何が良いだろうか。普通に食べ物がよいのだろうか、怪奇を探したり退治したりできるものがよいのだろうか。疲れと睡眠不足のおかげで緊張で眠れなくなることはなかった。




