第193話 廃坑(後編)
第193話 廃坑(後編)
夜、目を覚まして隣のツァップさんを見ると、西洋人形が横を向いてうずくまって手足を縮めたような姿で眠っていた。見入っていた訳ではないが、ちょうど彼女のスマホのアラームが鳴って、ドキッとした。それから顔を洗って携帯食糧とコーヒーで体にスイッチを入れて、廃坑へと向かった。
闇の中を歩いていくのは、自分にとってそれが闇でなくても、やはり恐ろしいものだった。昼間と違って生き物の出す音がほとんどないからなのか、太陽が出ていないからなのか、暗い所にいると思っているからなのか、わからない。が、一番の理由は、怪奇というものの存在を知って、それが近くにいると知っていたからだろう。
廃坑の入り口に着いて、鉄格子でできた扉の鍵を開けると、中から嫌な湿った空気が流れ出した。落盤事故で死んだ幽霊がどこかを見ていた。その横を私達は歩いていった。
「敷次郎がいマス。ここの近くデス」
入ってすぐ、ツァップさんが地図の一点を指さした。その表情に緊張が見える。今回の依頼は様子を見ることだが、それでも身の危険を伴うことには変わらない。
「気配を感じなくても分かりますね。足の爪がむず痒いですから」
既知の報告と一致する。もっと近づけば爪が剥がれるような感触へ変わるのだろう。
「むず?」
そうか。緊張しているのとツァップさんの日本語が上手くなっていることで、つい普通に言葉を使ってしまった。
「痒いと同じ意味です」
私がそう言うとツァップさんはコクリと頷いた。
私達は廃坑の中をゆっくりと進んだ。先行する私が札を持って、後ろからツァップさんがドイツ語で何か唱えながらついて来ていた。そこは、外とそう暗さは変わらなかったが、ヘッドライトの光が壁の窪みや岩に反射して影を作り、分岐した先からは全く見えず、そこに敷次郎がさもいるかのような気がしていた。ツァップさんが地図上で示した場所に近づくにつれて、つるはしで岩を叩くような音と水を汲むような音、それは敷次郎の体内から聞こえるものだが、それがどんどん大きくなっていった。それがまた坑内を反響しており、正確な場所が分からないのも不気味だった。
そこにいないはずだが、しかし、いるかもしれない、どこかにいるのは確実で、ツァップさんの言ったことは信用できるのに、いるかもしれない。狭く、籠った慣れない場所にいると感覚も思考も鈍っていくのがよく分かった。2人の心臓の音が嫌なくらい聞こえた。
そうして、敷次郎は、いた。ツァップさんの言った通りの場所で、かつて働いていた人と同じ服装で、立っていた。その顔も報告通りだった。遠くから見て、後は帰るだけだった。
「たべものを、くれ」
いきなり敷次郎が声を出した。その手、その目が、こちらを向いている。
「与えてきます」
報告では食べ物を与えないと噛みついてきて、その傷を治すのには―。とにかく、対立しないのが吉だ。そっとツァップさんに伝えると、「気を付けて」と返事が返ってきた。
ポケットに入れていたキャンディを取り出して、慎重に近づく。野良猫に餌をやるとき、いや、猛犬の目の前に落とした物を拾うときの感覚が近いだろう。一線を越えないようにして、そのぎりぎりの所で、手の中の物を地面に落とす。そうしてすぐに距離を取ると、敷次郎が緩慢にそれを拾うのが見えた。
半ば逃げるようにしてその場を離れ、その姿が見えなくなった所で、私たちはようやく胸をなでおろした。しかしすぐに、またどこかから出てくるかもしれないと疑いが湧いてきた。廃坑の外に出るまでそれは続いた。いたのがその1体だけだったのは幸いだった(これもツァップさんの勘によるところが大きい)。
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用事が終わり、町に下りたときには朝日が昇り始めていた。明るい中で報告書に書く内容を話していると、そこまで恐怖していたのが不思議に思えてきた。途中、川辺の土手に車を停めて、朝の自然の景色を楽しみながら朝食を少し食べた。
それから、来た道を戻って、また渋滞にはまって、ツァップさんをG駅近くのホテルまで届けてから、私は一旦車を置いて昼食を食べに行った。そのまま家に帰れば渋滞と一緒になることは明らかだったからだ。ただ、帰りにうっかり電車に乗りそうになったが。
家に帰って報告書を仕上げているときも、廃坑の中で起こったことは他の怪奇と比べてそう変わらないものであると思った。試しに夜、いつものように近所を歩いてみても何とも。あのシチュエーションと、敷次郎の持つ独特の特性がそう感じさせていたのだと思う。
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