第112話 不思議な蔵(後編)
第112話 不思議な蔵(後編)
小屋を脱出した先は窓から見た通り池があった。というよりも辺り一面が池だった。つまり、小屋があったのは池の中の小島だった。後ろを振り返ると小屋は消えていた。
池は濁っていて底の方は見えなかった。空も池の色と大して変わらなかった。池の向こうは森だったように見えた。集中してより遠くを見ようとしたが、奥の方はただの絵であることが分かった。見覚えのない、奇妙な木だった。幹も枝も葉も捻れていた。
「全く訳が分からないですね」
私の、現状に関する率直な感想だ。
「同感です。こんなのは中々ない怪奇です」
ツァップさんの理解の範疇も越えているようだ。
「それで、これからどうしましょうか。この池を渡るか、それとも他の方法でこの空間から脱出するか、あるいは何かありますか」
「この池、入っても大丈夫だと思います?」
ツァップさんは屈んで水面をじっと見つめている。
「うーん、臭いは危なそうではありませんが、どれくらい深いのかわかりませんし、もしかしたら底なしかもしれないですよ」
「そうですよね、なら―」
ツァップさんはリュックサックを地面に下ろして、その中から液体の入った小瓶を取り出した。それから私の隣に来て私達を囲うように液体を撒いてから、池に数滴垂らした。輪の中には女性らしい香りにアイリスが混ざり合っていた。
「それは、聖水ですか」
「そうです。もしかしたら―」
ツァップさんが次の言葉を言う前に、池は蠢き、全体を捩りだすと蛭のように這い出して、小島に上ろうとした。しかし聖水の輪に一端が触れると、全体の表面が逆立ったように波打ち、反対側に逃げていった。それを目で追いかけていたが、それは森の絵が描かれた壁に吸い込まれるように消えていった。
池があった所は腰ほどの深さの溝になった。不自然なほど湿り気はなかった。私達はそこを越えて、壁の一方に向かった。
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少し歩くと早くも違和感があった。
「これ、どんどん遠くなっていませんか?」
ツァップさんが足を前に数歩進めて、少し眉をしかめながら言った。
「ああ、そうですね。奥の絵がどんどん変わっているようです。突き当りは変わっていません」
私も気づいた。集中して見たおかげでこのトリックが分かった。
「あー、そういう仕掛けですか」
何故か少し悔しそうに聞こえる声だ。
「この空間はさっぱりわかりません。動物はいませんが、微生物は普通にいます。だからどこかの土を持って来たのか、かつて他の人が飲み込まれたときに落としていったのか」
「ケセラセラですよ」
ツァップさんは微笑みながらそう言った。私は考え過ぎだ。
突き当りの森の絵の前に到着するも、一見してまだ先があるように見えた。池が飛び込んで行ったから通れそうに思ったが、試しに財布の中の1円玉を放り投げると地面に落ちる音が聞こえなかった。次に割りばしを刺しこんでから抜いてみた。特に変化はなかった。
「この先に進みます?」
私がしていることを興味深そうに見ながらツァップさんが言った。
「そうですね…」
性質はよくわからないが、困ったときはこれだと思う。上手くいくかわからないが、懐から札を取りだして絵目掛けて放り投げた。すると、その一部が爛れたように穴が空いた。その先には細い道が続いていた。
「道が途中で折れていますが、地面はあるようです」
1円玉は見つからなかったが。
「それなら、先に進みましょう。ここにいても出られないです」
もっともだ。
道の先は先ほどと同じような森が続いていた。生えていた木の種類は変わらなかったが、所々にスマホ大の赤黒い実をぶら下げていた。後ろを振り返ると穴は消えていて、描かれた森に戻っていた。道の両側も絵だった。他に変わったことといえば、池のあった森よりも暖かかったことくらいだった。
曲がり角はすぐにあった。そこを曲がると、辺りに生えていた実がより大きく赤黒く見えた。不意に、今まで全く感じなかった空気の流れが起こった。
「アハハ」「アハハ」「ウフフ」
「クスクス」「ケラケラ」
聞き覚えのある声の、笑い声が聞こえる。出しているのは木の実、正確にはその表面に現れている知り合いの顔だ。奴の顔がある。それに、記憶の片隅にあるような子供の頃の知り合いの顔まである。
(……)
ツァップさんの方をちらりと見ると、彼女は彼女で別の顔が見えているようで、嫌そうな顔をして果実の方を見ていた。笑い声は意味を持った言葉に変わっていく。
(くだらない)
聞く必要もない。ナイフを取り出して、木の枝に当てる。なんだか悲痛な顔になって、こちらを罵倒しているようだ。奴そっくりだ。すっと刃を引くと容易に木の実は地面に落ちた。まだ何か言おうとしている所を踏み潰す。感触は熟した柿を踏んだ時と似ている。ツァップさんは耳を押さえてうずくまっている。
後は流れ作業だ。かつての知り合いの顔が歪むのはあまり見たいものではないが、煩いのだから仕方がない。1つ1つ実を潰していく。私がそこまでためらわずにことを行えるのは、聴覚を制限しているからだ。耳栓とイヤーマフをしているような感じだ。だから、音としては入ってくるが言っていることは分からない。
全ての声を処分した後は、また騒がれても困るから近場の熟していない実も落としておいた。そのころにはツァップさんも立ち上がっていて、踏み潰された跡を見ていた。




