20話 黒い風の記憶
ディーグはこれは夢だと自覚しながら、夢を見ていた。
否、現在ディーグは十三年間暮らしていた森の中におり、眠ってもいなければ横にすらなっていない。なので正確には夢ではないのかもしれない。
しかし虚ろな意識の中、自分の意思とは裏腹に様々な情景がディーグの思考を掠めとる。
痛みに軋む身体を引きずり、ただ足を進めていく。今日はまだ、いつもと変わらない日であるはずだったのに。
なにか厄介事が起こるとしても、もう少し先だと踏んでいた。
「ぐぅ……」
思い返されるのは昼を少し過ぎた頃。嫌がる少女の声を無視して家から追い出した。
人の話を聞かず、ディーグの都合など御構い無しに訪ねて来るような娘なので、明日以降の対策をしなければと思っていた。
森の奥に結界を張って隠れるか?
いっそ別の地へ旅立ってみようか…。
なんて、現実味のないふざけた考えに頭を振る。
そうしてディーグは立ち上がり自室に戻ろうとした。その時だ。
『お初にお目にかかります、ディルヴェイグ殿下』
背後に兵士団長の服を纏う男が立っていた。
狼も気付いていなかった様で、驚き牙を剥くがその場から動けない。
『これを』
言って兵士団長の制服を纏う男――サーパスが何かを取り出そうとした。
瞬間、ディーグは悟った。良くないものだと。狼もそれを感じ取ったのか、低く唸りサーパスへと飛びかかる。
しかし、サーパスは片手で術式を放ち簡単に防いだ。
『ルドルフ!』
サーパスが狼に向かって追撃しようとし、ディーグは右手をかざし魔力を集中させる。
ディーグの手元に赤い光が灯るのを見て、サーパスはニヤリと口元を歪めた。
『な、ぁっあああっっっ!』
ディーグが叫び声を上げ、サーパスの足元から吹き出た黒い霧がディーグの放つ赤い光へと吸い込まれていく。
それはディーグの体内にも侵入し、逆流しある場所へと向かっていた。
『さて、魔核が完全に汚染される前に抜き出さなければ』
膝をつき、崩れ落ちるディーグに手を伸ばす。
『ガウゥ!』
『ぅっ! この駄犬が!』
狼がサーパスの腕へと噛みつき、肉を引き裂く。その傷は瞬時に治癒されたが、隙を作るには十分だった。
ディーグが再び反撃しようと右手をかざした。
『っ!』
しまったと、声に出さずともディーグの表情が語っていた。
黒い霧はディーグの魔力に反応し、ディーグを縛る。術を発動させようとしてかざした右手は震え、どうしようもなくなる。
『ルドルフ、避けろ!』
ドン! と大きな音と共に、黒い風が吹き荒れる。
それが室内を埋め尽くす前に、狼は主人の命に従い外へと飛び出す。
いつの間にか風の届かない範囲へ逃れていたサーパスも、興奮が滲む暗い瞳でそれを見ていた。
『凄い……これがあの方のお力で』
黒い風が吹き荒れると同時に、室内の薬草が枯れ果て塵となる。
狼が風に触れないよう注意を払いつつ侵入を試みるが不可能だ。
『さて……制御しきれず殿下が力つきるのを待つべきか? だが……無理やり魔核を停止させた場合、品質に影響が出てしまうのだろうか?』
淡々と告げるサーパスの声がディーグにも届いた。
ふざけるなと声を上げたいのに、口を開くことすら億劫だ。
『そう言えば、あの魔力なしの子供がちょうど……』
――ルーツェレアがなんだ?
苦痛にハッキリしない頭だったが、その言葉だけは届いた。
――ルーツェレアがここに来るのか?
それは駄目だと、ディーグは身体を引きずり移動する。
黒い風を撒き散らし、逃げなければいけないという事と、己がここに居てはいけないという焦燥のみで足を進める。
どうするのかと様子を見ていたサーパスは、状況を理解し薄く笑みを浮かべると追う事はせずディーグを見逃した。
それ以降、ディーグの耳には吹き荒れる風の音しか届かなかった。
黒い風はディーグの視界も防ぎ、最早どこに向かい、どこを歩いているのかすらわからない。
最初は石造りの床を歩いていた気がする。が、今は乾いた土と枯れてしまい塵となる何かを踏むばかりだ。
それすらも風に舞い上げられ、小さな砂利が肌を傷つける。
――痛い、苦しい
魔核が熱を持ち、胸が焼ける。
苦しいと立ち止まればそれは熱さを増し、ディーグを苦しめる。ディーグはその苦痛から逃れるため、魔核に魔力を送れば多少だが痛みが和らいだ。
魔核が暴走し魔力を放出し続けるから身体にも影響が出る。魔力を放出し続ける魔核に、魔力を与えてやれば痛みが和らぐ。
つまり痛みを和らげるためには、魔力を調達しなければいけないと言う事だ。だが、どこから?
――『バ、バケモノだぁ』
暗闇の中、ディーグの目の前に、倒れた誰かの足が見えた。
轟々と吹き荒れる風の音が聞こえる気もするが、よくわからなくなる。
――『なんと言う事だ……! 呪いだっ』
――『ディルヴェイグ様が――の呪いで』
よく見れば倒れているのは一人だけではなく、二人、三人……数えきれない無数の人が、重なり合い倒れ伏していた。
――『陛下、お逃げください!』
――『ちちうえ?』
見上げるほど背の高い男。そうだ、これは昔の記憶。
十三年前、ディーグがまだ城に住んでいた時の記憶だ。
真っ黒で何もない空間に、倒れ臥す無数の人と、ディーグに剣をむけ取り囲む騎士に魔術師たち。
――『たすけて……助けてください、父上!』
幼い手が、縋る様に伸ばされる。
(……やめろ)
自分の手が幼くなっていることに、ディーグは驚く。
(違う、これは幻だ! かつての記憶だ! 今起きている事ではない!)
必死に頭を振るが、揺れたのは小さな子供の頭。
――『父上、止まらない、苦しい! 僕は、どうすればっ……』
倒れ臥す人垣の中で、銀糸の子供が必死に手を伸ばす。
(やめろ、違う!)
――『お逃げください、陛下! あれはもう、命を吸う化け物です!』
「私はっ――!」
「師匠!」
伸ばしていたと思っていた手は地を這い、砂を掻いていた。
爪には血が滲み、砂利の固い感覚が蘇る。
「大丈夫ですか? こんな所にいないで、早くみんなの所に逃げましょう!」
柔らかく暖かな手が、ぎゅっとディーグの手を握った。
「って、え?! 師匠! 指、怪我してますよ! 血が出てますって!」
「…………」
「救急セットは……そうだ! リュックはオイサン達ごと預けて来ちゃったんだ!」
大丈夫ですか? 師匠、自分で何か持ってないんですか? と、突然現れたやかましい存在。
ディーグは手を引かれるまま上体を起こし、されるがまま座り込む。
辺りを見回しても倒れている人影など、もちろんない。
吹き荒れる黒い風が視界を悪くしてはいるが、そこは先程まで居た真っ暗な空間などではなかった。
「うぅ、口の中がじゃりじゃりする。この黒い風なんですかね? あ、でも師匠の周りはあんまり風吹いてないですね」
ルーツェはポケットに入れていたハンカチをディーグの指先に無理やり巻きつける。少し動けば簡単に取れてしまうだろうが、やらないよりはましだろう。たぶん。
黒い風をかき分け、ルーツェはここまでやって来た。そのせいでぐしゃぐしゃになった髪を整えながら、どこに向かえばよいのかと辺りを見回す。
「…………ルーツェレア?」
「はい?」
ふいにディーグに呼ばれ、振り返る。
ディーグはまだ座り込んだままの状態で、ルーツェを見上げていた。
「ルーツェレアなのか?」
「え? そうですけど、師匠どうかしましたか? なに言ってるんですか?」
「お前、なんともないのか?」
「??? なにがですか?」
無意識に、ディーグは手を伸ばしていた。
黒い風は未だ吹き荒れ、外の状況はよくわからない。
ディーグの右手が、もう少しでルーツェの頬に触れるかと言うところで、伸ばされた手が動きを止める。
戸惑い、拒むように固く拳を握ったかと思うと、迷うようにまた開かれ伸ばされる。
そんならしくない行動に我に返り、何をやっているんだとディーグは手を下ろそうとした。が、それより少しだけ早く、ディーグの右手に小さな手が添えられ麿く柔らかい頬へと寄せられる。
「………………、! 何をしている!」
ディーグは今までにないほど俊敏に、かつ素早く右手を引っこ抜き声を荒げた。
「あれ、ほっぺに触りたかったんじゃないんですか?」
「な、誰がそのようなこと!」
「クレイドさんとかはよく『ルーツェのほっぺは気持ちいいね』って触ってきますよ」
「何をやっているんだ、アイツは! お前も、年頃の娘が気軽にそういう事を許すな!」
「むぅ、わたしだって身内枠の人にしか触らせてあげませんよー」
「私もリャダマンも身内ではない!」
間違ってなかったのに、今日はこんなのばっかり! とルーツェがむくれる。
周りは荒れ狂う黒い風に覆われているというのに、いつもと変わらない調子にディーグの肩から力が抜ける。
そのまま盛大なため息を付くと、投げやりに頭を掻きむしった。
綺麗な銀の髪がくしゃくしゃになる様を、ルーツェは不思議そうに見ていた。
「この黒い風に触れても……なんとも、ないんだな」
ポツリと、ディーグが呟いた。
ゆっくり顔を上げ、目が合う。
「大丈夫ですよ」
「本当か?」
「本当です」
「……無理をしていたり、気づいてないだけでどこか異変は」
「ありません。しつこいですよ師匠」
ルーツェが当たり前のように言えば、逆にディーグは眉をひそめ口を開けた。
驚いているようだ。
「それより、師匠の方が危ないじゃないですか」
「なにを……」
「だってこの黒い風に触れた植物とか動物見ました? 無理やり体内の魔力を引き出されて、魔核が急激な魔力の消失に絶えられずに壊れちゃうみたいなんです」
なるほど。
ただ、その言葉だけがディーグの頭に浮かんだ。
「ああ、そうか。そうだったな」
「? 師匠?」
「……お前には無理やり引き出される魔力すらなかったな」
顔を覆うように手で隠し、一人自嘲に言葉を紡ぐ。
ディーグはゆっくり立ち上がると、今度はすんなりとルーツェの頬に手を伸ばしつまみ上げる。
「ひたいじゃないでふか! ひゅうに、なにふるんれふ!」
「ふはは。確かに柔らかい。そして面白い顔だ。ははは」
「ひひょう!」
ディーグはルーツェの頬をつまんだまま、笑い声を上げる。
ルーツェはなんとか逃れようともがくが、上手くいかず力尽きる。
しばらくしてディーグは満足したのか、ふてくされ始めたルーツェを開放し立ち上がった。
「ルーツェレア。頼みがある」
ディーグは立ったまま、上背を曲げ目線をルーツェに合わせると不敵な笑みを浮かべ言い放つ。
「私の魔核を止めてくれ」
その笑みは清々しいほどに、意地悪だった。




