VOL.36 迷い(実桜)
自分から迫って真に好きとは言わせてみたものの、実桜は、真が本当に自分のことを好きなのかどうかわからないでいた。
真とは、自分の仕事を離れて会ったことはない。
同伴と店、すべて仕事絡みだ。
そんな偏った付き合い方で、本当に好きになれるものだろうか?
自分が就いているのは、いかにお客に好感を持たせて、なるべく長くお店にこさせるようにする職業だ。そこには、疑似恋愛的な要素も絡んでくる。
真はそれに加えて、自分が楽をできると思った唯一の客だ。だから、なんとかして、常連にしようとした。
そんな環境下で、ただ錯覚しているだけではないのか?
その思いが、実桜に重くのしかかっていた。
店を離れて何度でも会っているのなら、実桜も真の言葉を信じるかもしれない。
かといって、真からデートに誘われないのに、自分から誘うわけにはいかない。
なぜか?
女のプライドというより、真に引かれるのが怖いからだ。
普通、八ヶ月も通っていれば、大抵は同伴という意味ではなく、店の外で会いたがるものだ。
それもしないで、律儀に通ってくる真の心情を、実桜は測りかねていた。
今、実桜には、北川という太客がいる。
北川が初めて訪れたのは四ヶ月前だった。それから、最低でも週二回は実桜の許を訊ねてくる。
歳の頃は四十を少し過ぎた辺りで、綺麗な酒の飲み方をし、お金も持っているようで、延長などは当たり前で、お店にくれば、必ずシャンパンやフルーツなどを頼んでくれる。
同伴で連れて行ってくれるお店も、こ洒落た隠れ家的な創作料理店や、高級なイタリアンやフレンチなど、いずれも、実桜がこれまで連れて行ってもらったことがないような店ばかりだ。
それでいて、いばることもなければ、強引に誘ったりもしない。
真に次いで、実桜が安心できる客だった。
いや、今は真には心を乱されることが多いので、一番安心できる客といっていいだろう。
今日も、北川は来ていた。
「実桜ちゃん、今日も綺麗だね」
実桜と会う度、北川は臆面もなくそう言ってくる。
綺麗だの可愛いだのと言われ慣れている実桜でも、来る度に言われると、顔が赤らんでくる。
最近では、北川にそんなことを言われる度に、真からは一度も言われたことがないなと思い、哀しくなると同時に、むかっ腹が立つ。
どうしても、実桜は、真と北川を比べてしまうのだった。
北川はバツ一で、現在は独身のようだ。
離婚の理由は、実桜は知らない。
北川が語ることもなければ、実桜が尋ねることもしないからだ。
仕事もそうだ。
実桜は、北川がどういう人物なのか一切知らなかった。よほどでなければ、客の素性を実桜から詮索するようなことはしない。
北川も、実桜のことをあれこれと詮索することはしなかった。
今、実桜の心は揺れている。
真も好きだが、北川にも惹かれだしているのだ。
真と北川を選ぶとすれば、結果は一目瞭然だった。
真と違い、北川は女心をわかっており、お金も持っている。
北川から比べれば、真は子供に見える。
しかし、なぜか実桜は、真を捨てて北川に乗り換えるのに、躊躇いを覚えていた。
惹かれだしてはいるものの、なんとなく気乗りがしない自分がいた。
不思議な感覚だった。
普段の実桜なら、北川の本性を見抜いていたはずだが、真に心を揺らされている実桜は、不覚にも北川の本性を見抜けなかった。
だた、これまで、大勢の男を見てきた実桜の勘が、北川に傾くのにブレーキを掛けていた。
「実桜ちゃん。今日は、大事な話があるんだ」
北川が身体を捻って実桜と向き合い、いつになく真剣な表情で切り出した。
「大事な話って?」
実桜の目の前に、北川の手が突き出された。
その手には、小さな箱が乗っている。
「開けてみて」
北川に言われるままに、実桜は箱を手に取り開けた。
実桜の目が、驚きで大きく見開かれた。
中には三カラットはあろうかという、大きなダイヤがはめ込まれた指輪が入っていた。
「僕と、結婚してくれないか?」
実桜が指輪から目を離し、しげしげと北川の顔を見る。
「わたしたち、付き合ってもいないのよ。それを、結婚だなんて」
実桜の頭に、真の顔が浮かんだ。
これが真だったら、わたしはどう返答するだろう?
しかし、その考えを即座に打ち消した。
考えるだけ無駄だと悟ったのだ。
真が、こんな粋なプロポーズなどするわけがないのだ。
そう思うと、なぜかむかっ腹が立った。
「どうしたの? 突然で怒ってる?」
実桜の顔付が変わったのを見て、北川が心配そうな顔をした。
「ううん」
実桜は首をふった。
「突然で、びっくりしただけ」
実桜が、咄嗟に誤魔化した。
「なら、よかった」
北川が安堵した顔になる。
「で、どう?」
北川が、実桜の顔を覗きこむようにして訊いてくる。
「う~ん、そんな急に言われても」
「そうだよね、悪かった。返事は今日でなくてもいいから、じっくり考えて」
北川の紳士的な態度に、実桜の心が揺れた。しかし、次の北川の言葉に、実桜の心の揺れはぴたりと収まった。
「ただひとつ、僕と結婚するにあたって、条件があるんだ」
また条件か。
実桜はうんざりした。
この間プロポーズしてきた公務員も、キャバクラは辞めて他の仕事に就いてくれ、専業主婦は許さないといった条件を付きつけてきた。
自分が勝手にプロポーズしておいて、なんで条件なんか付けてくるんだろう。
男って、本当に身勝手な生き物だと思った。
「条件っていうのはね」
実桜が返事もしないうちに、北川が切り出した。
「実はね、僕の家は、ある会社を経営しててね、結構大きな会社なんだ。社長はお父さんなんだけど婿養子でね、ママが実権を握ってるんだ」
ゲッ その年齢でママかよ。
実桜の心が一瞬で醒める。が、態度には表さなかった。平静を装い、北川の言葉に耳を傾ける仕草を崩さなかった。
「それでね、家ではママに誰も逆らえないんだ。だから、実桜ちゃんも結婚したら、絶対にママに逆らわないでほしい。ママの言う事は、なんでも聞いてほしいんだ」
実桜は、心底がっかりした。
少しでも心を揺らした自分が愚かにさえ思えてきた。
そんな実桜の気持ちなど忖度しないで、北川が明るく付け足す。
「あっ、もちろん結婚したら同居だからね。ママの作る料理は美味しいんだよ。実桜ちゃんもママに習って、ママの味を覚えてね」
バツ一の理由が、実桜には理解できた。
マザコンの上に、きっとママという人も、息子を溺愛しているに違いない。
「なんで、わたしなんかを選んだの?」
参考までに、実桜は尋ねてみた。
「だって、こんな仕事をしていると、耐えるのには慣れているだろ。それに、実桜ちゃん綺麗だし、胸もおっきいし。ママも、胸はでかいんだよ」
もう綺麗と言われても、なにもときめかなかった。
北川は婚約指輪を無理やり預けようとしたが、実桜はなんとかそれを押し止めた。
「とにかく、次来るまでに考えておいてね」
そう言い残して、北川は陽気に帰っていった。
実桜は泣きたい気持ちになりながら真の顔を思い浮かべ、真に会いたいと、心底思った。




