VOL.34 真の心実桜知らず
「今日は、帰るわ。これを渡しに来ただけだから」
真がそう言うと、実桜を追いかけるようにして自分も席を立とうとした。
実桜は振り返り、呆れた目で真を見た。
我知らず、立ち上がりかける真の両肩を、力任せに押さえつけてしまった。
自分のどこにこんな力があるのかと思ったほど両腕に力が加わり、立ち上がりかけていた真の膝が崩れた。
「帰っちゃ駄目。直ぐに戻ってくるから、ここに居て。いいわね」
顔をくっつけるようにして、思わず命令口調で言ってしまった。
真は呆気に取られた顔で、自分を見つめている。
そんな真に背を向けて、実桜は一刻も早く真の許へと戻るべく、足早に歩いていった。
なんで、あの人は、ああなんだろう?
実桜は少し腹を立てたまま、先客のところへ戻ってきた。
「遅かったじゃないか」
男は、少しむくれていた。
隣に座っていたヘルプ嬢が、二人に軽く会釈をしてそそくさと席を立った。
その顔に安堵の表情が浮かんでいるのを見て、実桜は自分がいない間の、ヘルプ嬢に対する男の態度が推察できた。
きっと、ヘルプ嬢に嫌味や文句を言い倒していたに違いない。
小さい男。
実桜が蔑みの心を押し隠して、「ごめんね」と形だけの笑顔を作りながら、男の隣に座る。
すかざす、男が膝を寄せてきた。
「なあ、実桜。俺の気持ちをわかってるんだろう。なんで、他の男なんかのところへ行くんだよ」
ますます膝をくっつけながら、男は実桜を詰った。
呼び捨てかよ。
実桜の胸に、激しい怒りと嫌悪が湧き上がった。
「そんなこと言わないで。指名がかぶっちゃったんだもの。仕方がないでしょ」
実桜は爆発しそうになる心を抑えながら、無理に造った笑顔を崩さぬよう、務めて甘えた口調で言った。
「同伴もして、延長までしてやったんだぞ。もう少し、俺を大切にしろよ。後から来た男なんて、うっちゃっとけばいいんだよ」
単純な男は、実桜の甘えた態度に少し気をよくしたようだ。ますます図に乗った様子で、実桜を責めたててくる。
知らないわよ、そんなこと。あんたが、勝手に延長したんでしょ。おかげで、こっちはいい迷惑なのよ。
そう怒鳴りたいのを抑えつけながらも、せめて真に、この男の十分の一の強引さでもあればいいのにと思った。
実桜も女である。自分が気がある男には、はっきり好きだと言ってもらいたい。
自分を気遣ってくれているのだろうが、わたしのことを好きと聞いたのに、黒服が呼びにくると返事もせずに、笑顔で行ってらっしゃいと言い、あまつさえ帰ろうとした。
本当に、女心というものをわかっていない。
考えれば考えるほど、実桜はむかっ腹が立ってきた。
男が、尚もだらだらと文句を言うのも耳に入らぬくらい、実桜は真の顔を思い浮かべて腹を立てていた。
「聞いてるのか、おい」
声を荒げた男に、実桜は厳しい目を向けた。
その目は、男に向けたものではなく真に向けられたものだったが、男にそんなことがわかるわけもない。
「なんだ、その目は。それが、客に対する態度か」
男の怒りが頂点に達した。
「なんだじゃないでしょ。あなたって、本っ当に、女心というものがわかってないんだから」
この言葉も、真に向けられたものだった。
今の実桜には、目の前の男など眼中になく、頭の中は真のことで埋め尽くされていた。
「いや、そんなに怒らなくてもいいじゃないか」
男は、実桜の剣幕に圧されたのと、実桜の言葉で自分のことが好きだと勘違いしてしまったらしい。
これまでの態度を一変させ、実桜を宥めにかかった。
実桜は、ふと我に返った。
なぜだか知らないが、男は勝手になにか勘違いして、下手に出ている。
これを利用しない手はない。
実桜の百戦錬磨の経験が、如何なく発揮された。
「あなたって、本当に、女心がわかってない」
少し拗ねた口調で言った今度の言葉は、真ではなく、男に向けられたものだった。
さすが、経験豊富な実桜であった。いざとなれば、どうでもいい男には、とことん演技ができるのだ。
男は実桜の言葉にか、それとも拗ねた口調にかはわからないが、ますます勘違いして、やに下がってしまった。
その隙を見逃さず、実桜は、ここぞとばかり男を責めたてた。
「あなたを信頼してるから、他のお客さんのところへ行けるのよ」
「あなたは、わたしのこと信用してないの」
「わたしを笑顔で応援してくれたら、もっと好きになるかも」
実桜の緩急織り交ぜた言葉に、男はますます勘違いの度合いを深めた。怒るどころか、目尻が垂れてゆく。
「離れていても、いつもあなたのことを思っているわ」
止めを刺されて、男は優越感に浸ったようだ。
「今日だけは、おまえの好きにすればいいさ。客を失くしても困るだろうからな」と、恰好をつけた言葉を吐いた。
本当に自分のことを好きなのだったら、「客を失くしたら、俺が面倒を見るから」くらい言えばいいのにと思ったが、そんなことはおくびにも出さなかった。
本当に好きだったら、少しでも長い時間一緒に居るようにするわよ。
実桜は心の中で舌を出して、黒服が呼びにくるのも待たずに席を立った。席を立った瞬間、実桜は男のことなど忘れてしまっていた。
実桜は、いそいそと真の許へ戻っていった。
席へ戻ると、真が浮かない顔をして、ヘルプ嬢を相手にしていた。真にしては珍しいことだ。よほど先ほどの自分の態度が解せないのだろうと、実桜は思った。
同時に、ここまで女心のわからない男に、なんで自分は惹かれているのか、自分でも不思議に思った。
「なにを考えていたのかしらないけど、後は実桜ちゃんに聞いてもらってね」
親友のヘルプ嬢がそう言うと、チラと実桜の顔を見て頷いてから席を立った。
すぐさま、実桜が真の隣に座る。
「で、さっきの答えは」
席に座るなり、実桜が切り出した。
「さっきの答えって?」
真がとぼけているのが、実桜はにはよくわかった。
嘘の付けない男だ。
こういったところが、自分が惹かれる要因だろうと思ったが、同時に腹立たしくもあった。
「わたしのこと好き?」
挑戦的な眼差しで真を見据えながら、もう一度訊いた。
「もちろん」
頷いた真の笑顔はぎこちなかった。
「ふ~ん」
実桜が、しげしげと真の顔を見る。
真も実桜を見返しているが、内心びくついているのが、実桜には手に取るようにわかる。
「じゃあ、好きって言って」
男だったら、おまえが好きだくらい言いなさいよ。
そう言いたいのを我慢して、実桜は務めて笑顔を装ったが、その笑顔が少し強張っているのが、自分でもわかった。
実桜は、どうしても真の口から、好きだという言葉が聞きたかった。
その思いは、とても切実なものだ。
「好きだよ」
真は、とまどいながらも応えてくれた。
「まあ、いいか。それで、許してあげる」
無理やり言わせたみたいで少し不満はあったものの、それでも、初めて真から好きという言葉を聞いて、実桜は満足することにした。
これからも苦労しそうだ。
やれやれと思いながらも、実桜の顔は少し綻んでいた。




