VOL.28 苦悩(実桜)
思ったとおり、閉店までの二時間が、無限のように感じられた。
真にメールを送ってから直ぐに、団体の客がやってきた。
実桜もヘルプとして付いたが、真から返信がこないかと気になって、接客も上の空だった。
さすがに、初めての客の前でメールをチェックすることはできないので、途中トイレと称して一度席を立った。
他の馴染客からのメールはいくつか入っていたが、真からはなかった。
実桜は落胆した。
彼の怒りは本物だ。このまま、もう会えないかも。
そう思うと、実桜の胸に、どっと悲しみが押し寄せてきた。
次に、恐怖が襲ってくる。
このまま帰りたい。
とても、陽気な団体客の相手をする気分ではなかった。しかし、プロとしての意地が、実桜を踏み止まらせた。
実桜は、挫けた心を奮い立たせて、団体客のいる席へと戻った。
団体客は閉店時間を過ぎても帰ろうとせず、店で騒いでいた。こんな時は、店もおいそれとは追い返したりしない。
実桜は苛立ちながらも、なんとか笑顔を崩さずに頑張った。
実桜が横に付いた客は実桜のことを気に入り、ずっと俺の横にいてくれよ言って、実桜を場内指名してくれた。
普段ならラッキーだと思っただろうが、今の実桜にとっては、有難迷惑でしかなかった。しかもその客は、帰るまで実桜を口説きっぱなしだった。
「俺、あんたみたいな、おとなしい女が好きなんだ」
実桜が沈んでいるのを勘違いした男は、実桜に対して好き放題言った。
「おとなしい女ほど、ベッドでは燃えるからな」
なに言ってるんだ、こいつ。
いつもの実桜ならうまくあしらうところだが、今の実桜は、男をたしなめる気力も湧かず、ただ無言の 笑顔で受け流すのが精一杯だった。
実桜の無言を肯定と受け取ったのか、男はますます調子に乗った。
「俺のベッドテクニックは最高なんだぜ。これまで、何人の女を泣かしてきたか知れないや。実桜も、一 度俺に抱かれてみな。きっと、忘れられなくしてやるからよ」
呼び捨てかよ。
実桜はそう思っただけで、これにもなにも言わなかった。
「実桜も、こんな商売をしてるんだから、今まで、大勢の男と寝てきたんだろ。お互い、いい思いしようぜ」
実桜は、男の薄汚い言葉をほとんど聞き流しながら、真のことを想っていた。
真ならば、こんなことは絶対に言わない。
わたしを貶めたり、仕事を蔑むようなことなど言わないし、自分を大きく見せることもしない。
真に逢いたい。
下衆な客を相手にすればするほど、真に会いたいという思いは募るばかりだった。
その客たちが帰ったのは、閉店時間を一時間も回った頃だ。
実桜は、苦痛の三時間を、なんとか乗り切った。
無事乗り切れたのは、この世界で長年やってきた経験と、プロとしての意地だけだ。
家へ帰った実桜は、疲れ切っていた。
真に嘘を吐き続けるのは、本当に辛かった。
真がただの楽な客だと思っていたら、気軽に話していただろう。
実桜はいつのまにか、客という垣根を越えて、真のことを大切に思っていた。だから、切り出せなかった。それが、余計に実桜を苦しめた。
そんな辛さを少しでも和らげようと、ブログにアップした。
真なら、自分の力になってくれると信じていた。事実、真もそう言ってくれたことがある。
実桜は孤独だ。
孤独でありながら、昼も夜も仕事をしている。ましてや、夜の仕事なんて辛いだけで、報われることなど、絶対にない。
売り上げのノルマはきついし、客には平気でセクハラまがいのことをされ嫌なことも言われる。
それでも仕事だから、お客は大切にしないといけない。
昔と違い不況の今は、お客を掴むこと自体が難しくなっている。
まず、新規の客がなかなか店に来てくれないのだ。たとえ来たとしても、二度目の来店は少ない。
二度目に来店してくれる客は、よほど自分のことを気に入ったか、今晩の団体客のように、身体だけを目的としている奴らだ。
そんな奴らは、落とせないとわかると、さっさと違う店に鞍替えしてしまう。事実、今日の客も、しつこくアフターに誘ってきたが、実桜が応じないででいると、最後には実桜を冒とくするような捨て台詞を吐いて帰った。
「指名料損したよ」
席を立って、入口まで見送りに行く短い間にさんざん悪態を吐いた挙句、最後に残した言葉がそれだった。
実桜がこの世界に飛び込んだ時は、まだましだった。キャストを落とすにも、それなりにお金をかけてくれたものだ。そんな男は、今や絶滅危惧種になりつつある。わずかに、銀座か北新地の一部に生息しているだけだろう。
真は、そんな実桜の前に現れたオアシスだった。
今は、騙されたと思っているのだろう。
無理もないと思う反面、自分がキャバ嬢でなければどうだったろうかと考えた。
そんなことを考えてみても、どうしようもないことはわかっている。事実、自分はキャバ嬢なのだ。これまで真とは、キャバ嬢と客としてしか接したことがない。たとえ、気持ちの上でどうであったとしてもだ。
実桜はその夜、ほとんど眠れなかった。携帯を枕元に置いて、来る可能性の薄い、真からのメールを待っていた。
真からもらった名刺に会社の携帯番号が記載されていたが、実桜には、電話を掛ける勇気がなかった。
明け方近くになって、ようやく眠りについた。
眼を覚ますと、十時を過ぎていた。
今日は昼間の仕事は、午後二時からの出社だった。その代わり、夜の仕事は休みだ。
ベッドの中で一時間、実桜は考えた。
考えた末に、もう一度真にメールを送った。
「どうしてへんじくれないの
わたしのいったこと信じてくれないのね
かなしい」
昨日と違って、ひらがなを多くした。昨日のメールは、いつものように可愛らしさを演出している余裕はなく、つい普通に打ってしまった。
今は、男心をくすぐろうという魂胆もあって、わざとひらがなを多くした。それが逆効果になるとは、今の実桜に、そこまで気を回す余裕はなかった。
普段の実桜なら、真の性格を推し測って、もっと誠意を感じられる文章を考え、送る時間も、返事を返 しやすい昼休みの時間帯に送っただろう。だが、今の実桜は、ただ真から返事をもらいたい一心で、日頃から慣れている小手先のテクニックを無意識に使ってしまっていた。
それでも、最後の「かなしい」は、実桜の気持ちを切実に表していた。
実桜は祈るような気持ちで、真からの返信を待った。そんな実桜の祈りも空しく、真からの返事はなかった。
夕方、仕事の休み時間にもう一度メールした。
「ほんとうに返事くれないね
きらいになった?
こんなかたちでおわかれなんていやです」
これも、実桜の気持ちを切実に表していたが、打ち方を誤っていた。長年培われた習性は、なかなか抜けるものではなかった。
それから二日待ったが、真からメールが来ることはなかった。
二日間、実桜はメールを我慢した。
ひとつは、これ以上追い打ちを掛けると、本当に真と切れてしまうという思いから。もうひとつは、時 が経てば、真のことが薄らいでいくかもしれないと思ってのことだ。
実桜は、携帯にメールが入る度、真からではないかと期待を抱きつつ、真でないことにがっかりした。
馬鹿だな。自分は、なにをやっているんだろう。来もしないメールを心待ちにしているなんて。所詮、真も、自分をキャバ嬢としか見ていないのが明らかになったではないか。その証拠に、ずっと無視されている。きっと、騙されたと思っているのだろう。
この二日というもの、実桜の心は千々に乱れた。
昼も夜も、仕事には行っていたが、まるで魂が抜けたみたいだった。
プロとして生きてきた実桜も、恋愛感情が絡むと、どうやら別らしい。
実桜は、自分でも気づかぬうちに、真のことを本当に好きになっていたのだ。
連絡を絶って三日目、本当は一週間は連絡しないつもりだったが、時が経てばば経つほど、実桜の気持ちは追い詰められていった。
実桜は意を決して、真に最後のメールを送った。




