居待月 再びの逢瀬
そんなこんなで、雅美さんから漏斗胸に関する医学書を借りようとしたんだけどな。
さすがの彼女もそんなピンポイントな医学書は持ち合わせていなかった。その代わりに、
「要点をまとめたレポートノートなら、あるよ」
ということだったんで昼食後に屋上で改めて待ち合わせて、それを持って来てもらったんだ。
彼女なりに、俺の病気の事を勉強していたらしい。
それは俺の担当看護師として当然のことだと彼女に言われたけど、それでもすごく嬉しかったよ。
だがな、そのノートが曲者だった。
すごい丸文字で、当時の俺にはまるで解読不可能だったんだ、これが。
唖然として、読めないことをおずおずと告げると、雅美さんは人差し指で頬をぽりぽり掻いて苦笑しながら、
「あ。やっぱり? んー……じゃあ、私が今から講義してあげる。ほら、昔からよく言うでしょう?
『百聞は一見にしかず』って。――って、この場合はまるきり逆かな? あははッ」
俺は言われるままに流されて。
午後いちから一時間以上にわたってたっぷりと、漏斗胸に関する彼女の個人授業を受ける事になった。
当時、授業終了後にもこれを言って怒られたんだけどな? 雅美さんの講義は本当に判りやすかった。予想外にも。
だけど本当にこのおかげで、この疾患に関するいろんな事を知ることが出来たよ。
そしてその夜には。
すべてが一変した。
「――クン」
(うーん……。そうなのかあ……)
その夜。
薄手のジャンパーを羽織り、いつものように屋上に来ていた俺は、貯水タンクの囲いに寄りかかるようにして座り、未だ南中していない十八夜月を横目に、まばらに広がる雲と星々を眺めながら、午後のことを思い返していた。
「――もークンっ」
(でも、これ以上無意味にここに居続けることはできないもんね。……会えなくなっちゃうのはさみしいけど)
「も〜。それなら……」
「――わっ!」
耳元でいきなり感じた生温かさに、物思いに耽っていたところを現実へ引き戻された。
「り、璃那姉ちゃん……悪シュミ」
いつの間にかその傍らに居たのは、淡いライトグリーンのパジャマに身を包んだルナ。
「智クンがいけないんだよ? さっきから声かけてたのに、いっくら呼んでも返事してくれないんだもの」
「う……だ、だからって、耳に息吹きかけることはないでしょうっ」
腰に手を当てて少し怒ったような璃那に気圧されつつ、俺は顔を真っ赤にさせて反論した。
「ふふッ、可愛いッ」
「なっ……ろ、論点をずむがっ」
ついに耳まで真っ赤にさせて大声で言い返そうとした口を、傍らにしゃがみ込んだ璃那にふさがれた。
「ふふふッ。はいはい、ゴメンゴメン。でも、そんなに大声で叫んだら、さすがにみんな起きちゃうよ?」
「むが……――ぷはっ。そ、そんなに大きい声なんて出さないよっ」
「はいはい」
「もう……」
その手を無理矢理はずし、顔を紅潮させたまま声を抑えて吠える俺を、微笑みながら適当にあしらう。
二人の実年齢差は二歳しか違わないので、端からは姉弟のように見える筈なのだが、このやりとりだけを切り取ると、まるで恋人同士のように見えなくもなかったかもな。
「それで? 何を考えてたの?」
ルナはそのまま俺の隣に座り込み、顔を夜空に向けたままでそう切り出した。
「……うん。それなんだけど、ね……――」
応えて俺は、自分がこの病院に入院してる理由から、今日の日中に雅美さんと交わした講義の一部始終までを要約してルナに打ち明けた。
「――と、いう訳でさ。手術をしたら車椅子生活になっちゃって、普通に動けるようになるまで半月はかかるし、そうなったらもう退院なんだって。だからここに来れるのは、今日が最後になるんだ」
「……そっかあ……」
「うん……せっかく知り合えたのに、ごめんね?」
「ううん。そんな謝んないで。……実を言うと……アタシもね? 今日が此処に来れる最後の日、だったんだ」
「……え?」
ある種の告白めいた打ち明けに突然返された、衝撃。
俺にはそれが、璃那の優しさゆえの言葉にしか思えなかった。自分がもう来れないと言ったから、彼女はそんな事を言うのだと、そう思いたかった。
「……じょ、冗談でしょう? そんな出来過ぎた偶然――」
「うん。ほんと、冗談みたいな偶然だよね? でも、これは本当。と言うよりももともとアタシ、一昨日の夜にはもうすでに、此処に居るのは無意味だったんだよ」
「えっ……」
「いままで、不思議に思わなかった? 十六夜のあの時、どうして此処にアタシが居たのか。そしてどうして、日中に会おうとしなかったのか」
「それは……」
言われてみれば確かに、妙な事ではあった。
それでも。
「そ、そんなこと、あの場で訊く訳にいかないでしょう? お互い、初対面だったんだし。
それに――」
それにいくらでも、納得のいく想像はできる。――俺がそう思った瞬間。
「そうね。確かにいくらでも、智哉くんが納得のいく想像は出来るわよね」
この時まさに俺が思ったことを、ルナがはっきりと口にした。
「――なっ!?」
「驚いた? アタシはね、こういう“力”を持ってしまった者なの」
「……じょ、冗談でしょ? 人の心を読むなんて、そんなこと……」
俺はそんな突拍子もないことをいきなり言われて「ああ、そうなんですか」などと相づちが打てるほど天然ボケでもなければ、頭が悪くも無かった。
それだけに、いま自分の隣に座っている少女が一体何を言っているのかが、全く理解できなかった。
「一昨日まではね、確かにここの入院患者だったの。元はただの風邪。でもちょっとこじらせちゃって、肺がやばかったんだけどねー」
俺の問いに答えずに話を続けるルナの口調はさほど変わっていなかった。
でも俺には、その表情や雰囲気までもが、だんだんトーンダウンしていっている気がした。
「アタシの地元は此処じゃない。ここの世界ではあるけれどね。だから安心して?
アタシはそんなに、突拍子も無い存在じゃないから」
「え? え? ……えー!?」
あまりのことに、思考が混乱をきたしていた。
「――あ。ゴメンね? ちょっと驚かしすぎちゃったかな。アタシはちゃあんと此処の世界の住人で、人間だよ。ただちょっと、普通の人より変わった事が出来るだけ」
ルナの表情と雰囲気が、ぱっと花を咲かせたように明るく変わったが、ちょっと遅かった。
その時にはもう、俺の思考回路はオーバーヒート寸前だったんだ。
「――えっ? わっ、わわわわわっ。たっ、大変っ!」
ルナは、器用にも座ったままの態勢で卒倒しようとする俺を慌てて抱きかかえ、
「と、智クンっ、ともかく深呼吸! しーんこーきゅーうーっ!」
何よりも先に俺の落ち着きを取り戻そうと努めた。
その甲斐あってか。
「すぅ――っ、はぁ――っ。すぅ――っ、はぁ――っ」
俺は取り敢えず、落ち着きだけは取り戻したよ。
「すぅ――っ、はぁ――っ。……えっと。――なんの話だったっけ?」
「…………」
とりあえず、落ち着きだけはな。
「落ち着いた?」
「うん」
「よーし」
俺が平静を取り戻したのを確認したルナは、改めて俺の隣に座りなおした。
「じゃあ、今からアタシの事を話すから。長くなるけど、よーく聞いててね?」
「う、うん」
どことはなく感じた真剣な様子に、俺は身を堅くして真剣に聴く態度をとって見せた。
ルナはそんな俺に微笑んで、幼な子に昔話を聞かせるような口調で語り始めた。