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居待月 朝

 十七夜月が沈むまでの間に何を話していたのかは、ご想像にお任せする。

 「えー?」じゃない。

 猫撫で声で甘えても教えん。

 いや、教えないと言うか、小学生同士の会話だし、そんなに大したことを話していた訳じゃないからな。

 ――この時は、まだ。

 まあ、端から見ればそんなほのぼのとした夜ではあったが、俺がある心変わりをするにはそれで十分だった訳だ。


「皆さん、おはよーございますッ。さあ智哉くん、光合成に行こうッ!」

「――へ?」

 あくる朝。

 唐突に俺の病室に現れたのは、ジーンズにTシャツというラフな格好をした、ノーメイクの女性だった。

 彼女は、朝の挨拶もそこそこに、俺に向けて意味不明な提案をした。

 そしてそのまま、皆一様に目を丸くしている老患者たちを尻目に、俺の返事も聞かず、屋上へと連れ出した。


 眼下に広がるほとんどは田畑。

 遠くには、比較的規模は小さいながらも飛行場も見える。

 その向こうには、この土地の屋根と呼ばれる山脈が連なっている。

 午前の太陽を背にすれば、その先に視界を横切る国道が見え、山脈を背にすると街が広がっているのが見える。

 さらにその向こうには山林が、ぐるりと視界の果てを遮っている。

 上空では、その高みに強く吹く風で雲が次から次へと太陽を通り抜け、晴れと曇りを繰り返していた。

 そんな、オトメゴコロのような夏空の下で。

「んー。気持ちいいねー」

「私服姿ですっぴんの雅美さん、初めて見た。それに光合成って、日光浴の事だったのか……」

 光合成のポーズなのだろうか、両腕を広げて大げさに伸びをする見慣れない格好の女性――雅美さんに俺は、半分呆れた様子で呟いた。

「あははッ。あんまり綺麗なすっぴん女性で、驚いた?」

「そーゆーことを僕に聞かないで。でも……こんなに晴れたり曇ったりしていたら、あんまり効果ないんじゃない?」

 照れたように答えを濁した後に、現実的な指摘を飛ばす。

「……んっふふー」

「な、なに?」

 そこで雅美さんは、光合成のポーズをやめて俺の方へ振り返り、不気味に笑った。

 無意識のうちに後ずさりした俺の脳裏に、瞬間、ヤな予感がよぎる。

「あらぁ。とぼけちゃってッ。解ってるんでしょう? 光合成は、人目を避けるための口実に過ぎないわ」

「あ……あっははー。……やっぱり?」

「とーぜんっ」

 雅美さんは、羊の皮を脱いだ雌豹が妖しく迫るように、ずい、と俺の顔を覗き込むように詰め寄ってきた。

 雅美さんが雌豹なら、さしずめ俺は、仔狐だろうか。頬を伝う冷や汗を感じながら笑みを引きつらせる、仔狐。

「さあ。昨夜のあの後のこと。おねーさんに聞かせてくれるわよね?」

「うん。いいよ」

「へ?」

 いともあっさり承諾されてしまったからか、思わず間抜けた声をあげた。多少なりとも抵抗を楽しみにしていたみたいだ。

 まったく、健全な事だよな。

 だが当の俺は、雅美さんのその様子に気付いた風も無く、言葉を続けた。

「あ。でもその代わり……医学書を、貸してくれないかな」

「…………え? い、医学書?」

 しばらく呆然とした後、鸚鵡返しに訊き返した雅美さんに俺はうなずいて、

「雅美さん、持ってない?」

「まあそりゃあ、私だって医学の道を選んだ者のはしくれだからね。さすがに持ち歩いちゃいないけど、家に行けばあるよ。智哉くんになら、貸すのも構わないけど……」

 雅美さんは、外見こそそこいらの女子大生と大差無いが、それでもれっきとした、M市医学科大学看護学科のOGだった。

 准看護資格も、大学在学中に取ったものだ。

 基本的にはおおらかで、細かい事は気にしないタチだが、意外と潔癖症な部分があった。

あまり自分の所有物を人に貸したがらない。

 だけど、俺に対しては別だった。俺が几帳面なA型気質であるのをよく知っていたし、そうでなくとも、俺はどこか、自分の母性本能を刺激させるのだそうだ。

 もちろん俺本人には、そんな自覚は無かったけどな。

「でも、一口に医学書って言われても困るよ。 何が知りたいの? 自分の疾患の事?」

「うん。そう。色々と知りたい。そしてね?」

 俺は素直にうなずいた。自分がこの病院に入院することになった原因。漏斗胸。その疾患についての知識が欲しい、と。

 続けて俺は、ためらうように目を伏せ、息を吐き、ゆっくりと顔を上げて宣言した。

「受けるよ、手術」

 それを聞いて雅美さんは一瞬目を丸くしたけど、すぐに白衣の天使に相応しい、優しくやわらかな笑みで応えてくれた。

「そっかあ……そのきっかけは、昨夜の此処での出来事?」

「うん……それなんだけどねー……」

 その問いかけは、予想していたものだった。だけど答えを用意していなかった俺はうつむき、腕組みをして考え込んだ。


 後で聞いたことだけど。

(か、可愛い……)

 この時。雅美さんは俺のそのしぐさに、俺を抱きしめたい衝動に掻き立てられていたらしい。


「――うん。やっぱり、そうなんだと思う。「どうして?」って訊かれると困るけどね」

 一度頷いて腕を解き、視線を雅美へ戻してそう答え「はは…」と、頬を人差し指でぽりぽりと掻く。

「ふ、ふうん……。直感、みたいなものかな」

 問いを重ねたこのとき。雅美さんは尚も続く衝動をなんとか押さえつけていたそうだ。

 だけど。

「うーん……?」

(うあ……。も、もぅ……ダメっ) 再びうつむき加減で腕組みをして、ついには歩き出しながら考え込んでしまった俺のその様子に、それまで押さえつけていた衝動が、はじけたらしい。

「え?! え?」

 後ろから抱き突かれた俺は、突然のことに驚き、困ったように振りかえった。

「ま、雅美さん!?」

「あ……。……あ、あははははー。よ、よーし。そーゆーことなら、昨夜の事は訊かないでいてあげる」

 呼びかけられ、慌てて俺を放した雅美さんは、取り繕うようにそんなことを言った。

「? ……あ、ありがと」

「は、ははははははは。ど、どう致しまして」

 そうとは知らず、わけの解らないままに礼を述べた俺に。

 雅美さんは、その頬にひとすじの汗を伝わせながら、乾いた笑いを返してくれた。


 ――小瀬智哉。九歳。

 当時の俺がナースたちの間で密かに『年上キラー』と呼ばれていた事を知る者は、決して少なくなかった……らしい……。

 

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