立待月 逢瀬(3)
◇
今考えると……ほんっとに勿体ないことし――……こほん。
なんでもないよ。
――え? よく憶えてるなって?
ああ、そりゃあな。忘れろと言われたって忘れられやしないさ。
あの、ふくよかな胸の感触は。――って言うのは冗談だから、そんな風にツメやキバを剥き出しにするな。
続きは、ちゃんと真面目に話すから。
「――ん、んぁ……ん?」
俺は鼻の辺りにぬくもりを感じ、そのくすっぐたさに、わずかに身をよじった。
「あ。気がついた? 智クン」
次いで、優しい凛とした声が、耳元で聞こえた。
「むぅ……? あれ? …………えぇっ!?」
それで目を覚ました俺は、その視界に忘れようの無い淡いクリーム色を見つけ、驚いた。
「あっ、コラ。まだダメだよ。」
目の前にある色とその声とだけで、自分がどうしていたのかを察し、慌てて身体を起こそうとした。
だが、その肩を“彼女”に掴まれ、ゆっくりと仰向けに寝かされた。
そしてそのまま、顔を“彼女”の腹のほうを向かされ、その左手で軽く鼻孔を抑えられた。
どうやら先程感じたぬくもりは、これだったらしい。
「まだ横になってなきゃダメだよ」
「璃那姉ちゃん…… どうして?」
「あれれ? 憶えてないの? 智クン、鼻血出して倒れちゃったんだよ? ほら」
と言って“彼女”――ルナは、自分の胸元を指さした。
「鼻血? ……あ」
そこに残っていた乾いた鮮紅色を見て、俺はようやくすべてを思い出した。
「……ごめんなさい」
「どして、智クンが謝るの? 悪かったのはアタシの方でしょ? まあ、智クンがあそこまで純だったとは、思わなかったけどね」
ルナは心底不思議そうな表情で俺を茶化しながらそう言って、やわらかく微笑んだ。
「う゛〜っ」
「ふふッ」
返す言葉が見つからず拗ねる俺に、ルナはまたやわらかく笑う。
「……ねえ」
「ん? なあに?」
「いつまで、こうやってるの? 鼻血なんて、ティッシュを詰めとけばそれでいいんでしょう?」
「だーめ。そんなことするとね、逆に傷口が広がっちゃうんだから」
俺が照れ隠し半分で膝枕状態からの解放を願う。だけどルナはそれを制して、三たび俺を寝かせた。
「鼻血が出た時はこうやって、出血した方を確かめて血が出てる方を上にして横に寝かせて、鼻の根元を指で押さえるの。今回みたいな軽いものなら、これで止まるのよ?」
「…………冷たい」
「――え?」
反論するでもなく、納得するでもなく、ただそう呟いた俺に、ルナは反射的に訊き
返してきた。
「なに?」
「……手、冷たいよ。気持ちいいけど」
「……ああ」
ふふっ、と笑みをこぼす。
「智クンの顔が、熱いからだね」
「むー。……誰のせいだよ」
「さあ」
くすくすと笑いながらルナは、その答えを濁した。
「……寒くない?」
ふいに俺は、横を向いたままでルナに訊いた。
「どうして?」
「……風。少し強くなったよ?」
「そう? ――あ、本当……」
俺に言われて。ルナはそこで初めて、自分の髪が風になびいているのに気付いた。
だけどそれは、俺の言った通り風が強くなったから……ではなかった。
「ほんと、風だね。じゃあ、風向きが変わったんだ」
「風向きが?」
「うん。風を避けるつもりで、此処に座ってたんだけどね」
ルナは微かに苦笑いしながら、こんこん、と自分の背にある壁を軽くノックした。
「壁? ……あっ」
ルナの背に壁の存在を知り、俺はようやく、自分たちがどこにいるのかを知った。
「ここ、貯水タンクの……」
「うん、そだよ。特等席だもんね、此処は。――ほら」
ルナは、貯水槽の囲いに寄りかかるように座っていた。
彼女が言った通り、そこは、星見には絶好のポイントだった。それは、俺も知っていた事だ。
「十七夜月だね」
俺とルナが見つめた先には、さすがにもう真ん丸とは言えない月が、薄雲越しに二人を見つめていた。
「…………綺麗ね」
「うん。…………璃那姉ちゃん」
「うん?」
「さっき、幾つかって聞いてたけどさ、十一才でしょ」
「うん。よくわかったね」
「あてずっぽう」
「そっか。……智クンは……アタシより二つ下くらい?」
「うん。それもあてずっぽう?」
「うん」
「そう……良かった」
「どして?」
「だって僕、この顔だから。もっと幼く見えない?」
「うん、見えた」
「やっぱり」
膝枕をしたまま、されたまま。
俺も、そしておそらくはルナも、自分たちの中で緊張の糸が解けていくのがわかったのか、立待月を見つめたまま、ごく自然に会話を重ねていく。
――まるで、心をやわらかくする月光の魔法に、掛かったかのように。
「……髪の毛、長かったんだね」
「んー? ああ、うん。昨日は、パジャマの中に入れてたからね」
「首が寒かったの?」
「そぅね。でも、今日のほうが寒いかなあ」
「……上着、貸そうか?」
「ううん、いいよ。膝と手が、ちゃんとあったかいから」
「そうなの? ――あ」
「うんッ。――あ」
どちらからとも無く、視線が重なった。途端に、ころころと笑いあう二人。
……その夜。
俺たちは、月が沈むまでそこにいた。