立待月 逢瀬(2)
「犬って?」
「だって……においでアタシだってわかるなんて、そうとうな嗅覚の持ち主か、さもなきゃ、正体が犬かのどちらかでしょう?」
「…………」
かなり愉快な見解だった。ただそれだけに、俺は呆れてしまったが。
「……強かったからさ」
しばらく絶句したあと、俺は小さく呟いた。
「え?」
「……なんでもない。僕の鼻が犬とおんなじくらい良く利くってことでいいよ」
「投げやりだなー」
「璃那お姉ちゃんがそう言ったんじゃないか」
「そうだけど……ん? うーん……違う」
「違わないよ」
「そーじゃなくて。――智クン、もっかいアタシのこと呼んでみて」
「え? ……り、璃那お姉ちゃん……」
ルナの真意が解らぬまま、俺は言われた通りにしてみた。
「そう、それ。それが違うの。昨夜、アタシが自己紹介したとき何て言ったか、忘れた?」
「……あ」
少し責めた感じで問われ、ようやく真意が掴めた。
「ううん、おぼえてたよ。お姉さんたちから、ルナって呼ばれてるんでしょう?」
「そうよ。憶えているなら――」
「うん。そうだよね……ごめんなさい」
「あ……う、ううん、謝らなくっていいよ。アタシのほうが……ゴメン」
みなまで言わぬうちに素直に頭を下げた俺をみて、ルナは声のトーンを柔らかくした。
「ううん……あのね? 璃那姉って呼ぶので、許してくれる?」
「りなねえ?」
「うん。背の高さから、とても同い年には見えないし。そういう人をあだ名で呼んだり、お姉ちゃんって付けないのって、僕には出来ないから。璃那姉って呼ぶのが、僕には精一杯」
ルナの目を正面から見つめて、顔が紅潮していくのを感じながら、ひどく真面目に言った。
言われたルナも顔を紅潮させ、思わず俺から顔を逸らした。
「そ、そっか……」
「うん……」
「そ、それなら仕方無い。うん。それでいいよッ」
「ほんと?」
「う゛」
途端に俺の表情が、笑顔に変わる。
どういう笑顔だったのか、それを見たルナの顔はさらに紅潮してしまい、今度は一瞬だけ目を逸らした。
「わかった。いいよ、璃那姉で」
「ありがとうッ」
「え。いやそんな。アタシ、礼を言われるようなこと何もしてないよ……」
どこか申し訳無さそうにそこまで言ってルナは、まるで気分を変えるように、話題の方向を変えた。
「同い年に見えないって言ってたけどさ」
「ぅん?」
「幾つに見える? アタシ」
「え゛」
俺は一瞬、答えに窮した。そして数秒の間を置いて、遠慮がちに切り出した。
「……えっと、じゅぅ――みぎゅ?!」
だが、答えきれなかった。
「やっぱり、言わなくていいっ」
ルナが、皆まで言わぬうちに俺を正面から抱きしめたせいで。
◇
智哉はしばらく呼吸が出来なくてもがいていたが、じきに静かになった。
「ん? 智クン?」
違和感を感じた璃那は、智哉の様子を見ようと、彼を抱き締めていた腕をゆっくり解いてみた。
その途端、智哉の体がずん、と璃那の体に重く伸しかかってくる。
「――わっ。ちょっ、やだっ。と、智哉くん?! 智哉くん!」
智哉の両肩を掴んで引き離し、その体を揺り動かしながら彼の名を連呼する。
返事は無い。が、体温は感じる。
どうやら、気を失っているらしかった。
「一体どうして…………あれ?」
ふと視線を落とすと璃那は、あることに気付いた。
淡いクリーム色のパジャマの胸元にぺったりと、紅色が付着している。
「これ、って……血?」
智哉の顔に視線を移すと、整った童顔の中心辺りから、紅い線が垂れている。
「えーっとぉ……あ」
璃那は、それでようやく事態を把握して、拳で手のひらを打った。
「おお。なるほど」
……一応、繰り返しておこう。
璃那の背丈は、智哉のそれより彼の頭一つ以上高い。
と、いうことは。
璃那に抱きしめられた瞬間、智哉の口はその顔ごと、明らかにふくらみとわかるその柔らかな胸によって塞がれる。
当然ながら、当時まだ9歳の智哉に女のコの胸の感触に対する免疫がある筈も無く――
「……鼻血ね、これ」