立待月 逢瀬前
「曇ってるなあ……わ、風もある」
その日の午後十一時三〇分。
俺は窓越しに空を見て、誰にともなく呟いた。
ベッドに寝てはいない。
俺はパジャマの上から薄手のジャンパーを羽織り、傍らのテーブルに置いてある時計と窓とを交互に見つめながら、ベッドに腰掛けていた。
ふと、足音が聞こえてきた。
昨夜と違って間隔にムラがある、軽い足音。
やがてそれがこの病室前に止まり、小さく軋んだ音を立てて、扉が開く。
それを待っていた俺は、そこに現れた人物に小さく声を掛けた。
「こんばんは」
「今晩は。今日も行くの? 屋上」
「うん。今日はちょっと約束もあるんだ」
「約束?」
「うん」
定時巡回に来た、昨夜とは違う夜勤看護師の名前は、松下雅美。
小柄で、看護学生という肩書きでも充分に通用しそうな程若さあふれる彼女は、消灯時間後に出歩き、普通なら立ち入ることの許されない屋上に出入りするという俺の入院規則違反を黙認してくれている唯一の人物だった。
「あ。なぁに? もしかして好きなコでも出来たの? ふだん人見知り激しいくせにぃ、やっぱりスミに置けないねぇ。しかもそのコと屋上で逢引だなんてッ。 キャー、えっち」
実年齢を疑いたくなるような見た目通りの言動が少々気にはなるが、雅美さんはいきなり、かなり鋭く核心を突いてきた。
「声が高いよっ。それに、そんなんじゃないよ。女のコではあるけどさ。それより『あいびき』って何?」
「わかんないならいいのよ。智哉くんはそこが可愛いんだからッ」
「からかわないでよ」
もし俺をよく知る人物がこの場にいたら、この光景が実に奇妙に見えたことだろうな。
自他とも認めるほどに勘が鋭く、世話焼きで人懐っこい性格の雅美さんは、俺が自分とはまったく正反対の性格であることをあっという間に見抜き、俺の担当を自分からかって出てくれた。
この准看護師の厚意に俺は、嫌気こそ差さないまでも、心を開くまでには至らなかった。
――『消灯時間後の屋上での天体観賞』というささやかな悪巧みを、提案されるまでは。
つまり。
俺にこの規則違反を勧めたのは、他でもない雅美さん本人だったんだ。
「あー、ゴメンゴメン。それよりいいの? 恋人、もう待ってるんじゃない?」
「だからそうじゃないって――え? あ。あーもう、お姉ちゃんのせいだよ?」
「あはッ、ごめん。よーし。んじゃあお詫びに、そこの階段前まで連れて行ってあげようッ」
「え? わっ、ちょっ――」
言うや素早く、雅美さんは智哉の答えも聞かぬ間に懐中電灯をポケットにしまい、支給されたパンプスを脱ぎ、ひょいっと彼を横向きに抱え、その両手を自分の首の後ろで組ませた。
いわゆる、お姫様抱っこ状態。
そして雅美さんはそのまま、薄っすらと緑の光を辺りにたたえる廊下を小走りに駈けて行く。
「ちょっ、ねえっ」
「んー?」
「ナースステーションにもう一人いるんでしょう? まずくない? それに……恥ずかしいよ」
「だぁいじょーぶよ。もう一人は、今、仮眠中だから」
走りながら、絶対職場問題になりそうな事実をさらりと言ってのける。
「それより子供が何言ってるの。おとなしく、おねーさんの厚意に甘えてなさい」
「……あの、それってかなりまずいんじゃあ……?」
「だいじょーぶ。智哉くんさえ黙っててくれたらね」
「そーゆー問題?」
「んー、まあ違うけど、もし何かあったら私がとんでくから大丈夫よっ」
この発言は、当時の俺から見てもかなり立派だった。
ただそれだけに俺には、真面目なのか不真面目なのか、どちらがホントの雅美さんであるのかが分からなくなっていた。
まもなくして。
「――っと。はい、到着ッ」
「あ。……ありがとう……」
「ん? あーいいのいいの。今回は私が悪かったんだから。 逢い引きに、男のコのほうが遅刻しちゃまずいもんねッ」
性懲りも無く、逢引説を引っ張る。
「だからぁ、その『あいびき』って……あーもういいやっ。時間無いし」
「照れるな照れるな」
もはや、何を言っても暖簾に腕押し。
「うー……。でも、ほんとにありがとう」
「んッ」
「しっかり巡回しなよ?」
「コドモに言われるまでも無いわよーだっ。智哉くんこそ、しっかりねッ」
「え? 何を?」
「さあて、何をでしょうねー。あははッ」
コドモな俺にはまだ理解できなかった、要らぬ謎を残して雅美さんは、巡回業務に戻って行った。
「……ほんと、ヘンな看護婦」
そう悪態を吐きつつも、一昨夜までとは違う屋上へと向かう俺の足取りは、いつにも増して軽やかだった。