十六夜月
「あれ?」
いつもは俺だけの特等席であるはずのそこに、その夜は先客が居た。
そんなことは初めてだったし、思ってもいなかったよ。
その病院に、俺のような物好きが他にも居たなんてな。
[珍し……」
俺の呟きはすぐに、目の前の光景に奪われた。
光の点が散らばる昏い蒼。そこに晧々と浮かぶ十六夜月。
そしてその青白い明かりに照らされた、人影。
それは、淡いクリーム色のパジャマの上に、真っ白な入院着を羽織っているだけの少女だった。
月光に映えた彼女の姿を目の当たりにして、俺は一瞬で言葉を失った。
そして俺の足は知らず知らずのうちに、彼女の傍らへと向かい……
「きれい……」
「そだね」
思わず呟いてしまった俺の隣からすぐ、凜とした音色が響いた。
「えっ?」
「きれい、ってキミが言ったから。キミも見に来たんでしょ? コレ」
彼女は人懐っこい笑みを浮かべてそう言いながら、ほんの少しだけ欠けた満月を指さす。
「え。あ……う、うん……お姉ちゃんも?」
「そだよ。いいトコ見つけちゃった。でも、アタシだけじゃなかったみたいだね」
「……」
正直言って面食らったよ。
明らかに初対面なのに「人見知り? 何それ」って感じの彼女の言動と、その笑顔に。
「あれ、どうかした? ――あ。アタシがキミより先にここに来た事を怒ってるのかな?」
そう問われてもてんで頭が働かず、言葉が出てこない。
だから俺は、代わりに首をぶんぶん横に振った。
「違うの? うーん……じゃあねえ……」
「……逆」
「逆?」
ようやく搾り出した応えに、彼女は鸚鵡返しにまた問う。
それを俺は、今度は首を縦にこくこく振って肯定した。
「んー……あ。そうか、単に驚いたんだ。アタシみたいな物好きが居た事に」
「…………」
「これも違う?」
そこで俺は再び面食らい、目を白黒させていた。
違っていたからじゃなくて、思いっきり正解だったから。
彼女が自分で自分を物好きと言うなんて、思ってもいなかったから。
「……ぷっ。あははっ。お姉ちゃん可笑しい」
自分で言うのもなんだが、当時の俺の性格を考えると、この反応はまるで奇跡に等しかった。
たぶんこの時に、心のどこかで、彼女に好意を持ったのだと思う。
「えっ、何? アタシ今何か笑えること言った? それともアタシ自身がおかしいって意味?」
何故かは分からないが、今度はすんなり答えが出ていた。
けどわざとちょっとだけ考える振りをしてから、答えを言った。
「んーとね、両方」
「なんだとー? キミねー、初対面の女の子にそれは無いんじゃない?」
「わっ、ごめんなさいっ! でもね、それ」
「え?」
たぶん、「それ」が何を指して言っているのか判らなかったんだろう。
今度は彼女のほうが、目を白黒させていた。
「僕とお姉ちゃん、いま初めて会ったんだよ? それも、こんなとこで。それなのにひとっつもおどろかないなんて、おかしくない?」
「んー? ……ああ。まあ、確かにそだね、言われてみれば……何でかな?」
「僕に聞かれても……」
「そりゃそうか。ははッ。――ね、キミ。」
「うん?」
「アタシは、りな。佐藤璃那。姉さんたちは、ルナって呼ぶわ。キミは?」
「あ。えと……、ともや。小瀬智哉……」
「うんうん。で?」
「う……」
自分があだ名を教えたのだから、君のも教えて?
ルナの屈託のない笑顔にそんな無言の圧力を感じて、俺は内心後退りした。
この頃の俺には、あだ名らしいあだ名など無かった。
親や、限られた親類が使っていた呼び名はあったが、果たしてそれを初対面の相手に言っていいものかどうか。
子供ながらに警戒心が人一倍強かった俺には、そういうためらいがあった。
だけど結局は、折れた。
「えと……と、智って呼んで、欲しい……かな」
折れた理由? それはな……今だから言えるけど――
――似てたんだよ、俺と。
「ん。わかった」
二つ返事で了解してくれた……まではいい。
だが、このあとに続いた言葉が何と言うかその……凄かった。
「んじゃ、智クン。これからは毎晩、ここで会おう。ねッ」
「えっ……ま、毎晩っ!?」
「うんッ、毎晩ッ♪」
驚いてはいたが、それがどういう意味なのか、当時の俺にはさっぱりわからなかったよ。
けど今ならわかる。
これって、明らかにアレだよな?