居待月 月とトモに
それから、どのくらい時間が経っただろう。
やがて月が、かなり西へ傾いた頃。
青みがかった闇の静寂と光が織り成す声無きささやきを、ルナが遮った。
「ねえ智クン? 此処に来る前から力に目覚めていて、それも『テレパス』を使えたのだったら……」
ルナの胸中に、不意に浮かんだ疑問。
「私の『声』は? 聴こえていなかったの?」
それは当然の疑問だ。
俺が入院した日からの約十日間。ルナはずっと、俺の『声』を聴いていた。
けれど実はその俺も、ルナと同じことが出来た。それならば、ルナの立てた一連の作戦など、とっくにばれていてもおかしくないものな。
でも、そうじゃなかったんだ。
俺はその質問を予想していたから、人差し指で頬を掻きつつ困ったように笑って、答えた。
「うん。聴こえなかったよ。だって僕はあの時――二年前のあの夜のあとからずっと、この“力”の全部を使えないようにしてたからね」
「え……?」
当時から二年前。今から言えば十五年前の真夏の夜。俺はその時に初めて、好きなものを見つけた。
これで少しは俺も、俺の周りも、変わっていくんじゃないかと思えた。
だけど物事は、そんなに簡単に上手くいくものじゃなかった。
「旅行から戻った僕が持ち帰ったその土産話に、興味をひかれる人は、一人もいなかった。
言葉では「ふぅーん……」と気の無い返事をされて、その心からは、≪そんなの興味ない話聞かせるなよ……≫って『声』が聴こえた。その時に僕は、こんな力は要らないやと思って、封じ込める事にしたんだ」
「そう、だったの……ごめんね」
ルナは、また俺の心の傷に触れてしまった事を悔やんで、心からそれを詫びてくれた。
「え? あ、ううん、そんな。気にしないでよ」
それが悪意ないものだと、わかっていた俺は、出来る限りやさしい声で応えた。
「だって僕、この病院に来て璃那姉ちゃんと出逢って、あっさりその、ふう……」
「封印?」
「そう。――その封印を解いちゃったんだからね。ゆうべ」
ここで一応断っておくが、力を封印したり解封したりするのは、何も俺だけが出来たわけじゃないぞ?
俺やルナたちはこの力を決して棄てられない。
でもその代わりに、封印や解封は自分の思い通りにできるんだ。
ほら、聞いたこと無いか?
人はとんでもなくショックな出来事があった時に、脳が勝手にその記憶を、心の奥底に沈めちゃうって話。
俺たちでも、さすがに記憶は無理だけどな。でも力については、それと似たようなことを無意識じゃなく意識して出来るんだ。
だから力の封印や解封は、俺たちにとってはそう難しいことじゃないんだ。
それでもあの時の俺の解封の仕方は、ちょっと変わっていた。
そのとき解封の引き鉄になったのが、ルナだったんだ。
「ゆうべ、僕はいつもより遅れてこの屋上に来たよね。その時、璃那姉ちゃんにいきなり目隠しをされたでしょ? その時に思わず、力を使いたいって思っちゃったんだ」
それを聞いて合点がいったのか、ルナは、ぽむ、と拳を立てて手のひらを打った。
「ああ、そっか。それであの時……」
「うん。強かったからだよって言ったのは、璃那姉ちゃんの『声』のことだったんだ」
「そうだったのね。じゃあ、匂いがどうとかって言ったのは……力を持ってる事をアタシに知られたくなくて?」
「……うん、ごめんね?」
騙してしまったことを申し訳なく思い、肩を落として顔を伏せ、俺は力なく肯定した。
「智クン」
ルナはそんな俺を見て、言葉を継いだ。
「そういうウソだったら、アタシのほうがたくさん言ってるよ?」
顔を上げると。その表情はどことなく慈愛に満ちた微笑を浮かべていた。
「そんなこ――むが」
そんなこと無いと言おうとした俺の口を、即座に手で塞ぐ。
「いーから聞いて。まず、一昨日の十六夜の時。あの時アタシは、たまたま月を眺めたくて此処に来て偶然に智クンと出逢ったんじゃあなくて、智クンに逢うために、此処に先回りしてた」
「むぐ……」
俺は喋れない代わりに、≪それはさっき聞いたよ≫と『声』で応えた。
けどルナはそれを無視して、
「次に昨夜の十七夜。あのときアタシが智クンの年齢を当てたのもあてずっぽうなんかじゃなく、『盗聴』で予め答えを知っていた」
「そんなの気にしてな――んぐ」
俺はルナの手を無理矢理外して「そんなの気にしてないよ」と言おうとしたが、すぐに反対の手でまた塞がれてしまった。
「そして……今夜」
「む? むんが?」
口を塞がれたまま、「え? 今夜?」と訊き返す俺。
「そうよ。――此処に来れるのが今日で最後だって言ったでしょう?」
「んむ」
うん、と、返事と同時にうなずく。
「あれも……ウソなの」
そう言ってルナは、俺の口を塞いでいた手をゆっくりと離した。
「本当は、もう少しこの病院に居られるの。……でも昼間の、智クンと看護婦さんとの話を聴いてて……」
「…………」
それまでの一連の話から、雅美さんとの会話も聴かれていただろうなってのは、当時の俺にも簡単に想像できた。
けど――
「じゃあ私も、今日で智クンに会うの最後にしようって決めたの。結果として私が願っていた通りになったんだから、もう私が此処にいる必要は無いなって。だからさっき、ああいう風に言ったの」
「それはっ――」
それは違うよっ! 何かに弾かれたように、俺はそう叫ぼうとした。
しかし次の瞬間、唐突に、ルナの言葉は翻された。
「でもね? たった今、そっちをウソにすることにしたわ。ううん。逢うのが今日で最後なのは本当。でもそれは、この病院でだけの話よ」
「それってどういう……?」
どんどん言葉を紡いでいくルナに付いていけず、俺は頭の上に?を並べ立てた。
「フフッ。わかんない?」
そこでルナは立ち上がって振り返り、俺にも立ち上がるように促す。
そうして沈み往く月を背負うように立った逆光の中、やさしく微笑んで、何事か呟いた。
「――――」
ルナはその呟きで俺の不意を突いて、俺の頬にぬくもりを残した。
それから俺たちは屋上ではもちろん、病院内で会うことは二度となかったんだけど……
……うわあ。
別れ際のあれは、いま思い出してもやっぱり顔が火照る。
でも、そりゃあそうだよな。
このときにはもう既に俺、ルナのことを好きになっていたんだから。
あれには、さよならの意味は無かった。その代わりに、ある力が込められていた。
それが効いたのかどうかは、わからなかったけどな。
だけど……結果的にルナとは、あの日が“一度目の別れ”だったんだ。
なあ、どう思う?
それってやっぱりあの時の力――こういう呟きを込められたルナのKISS――が効いたのかな?
「―― またいつか、アタシと智クンに――月とトモに、再び出逢う時が訪れますように ――」
っていう。
― 幕 ―