プロローグ
午後十一時三〇分。
消灯時間は、もうとっくに過ぎている。
清潔なベッドに横になり、清潔な布団を鼻までかぶって暗闇に浮かぶ白い天井を見つめたままずっと目を凝らしていた少年には、この真っ暗闇でもはっきりと周りが見えていた。
ふと、足音が近づいてくるのに気付く。
いつもながらの、凄く時間に正確な足音。
(歩幅も歩くスピードも、いつも同じなんだもん。すごいよねー……)
心の中で呟くと、足音が止まり、ほとんど音を立てずに扉が開いた。
ひと筋の光が、部屋の中を隈なく照らしてゆく。この懐中電灯の動きも、いつもと同じ。
やがて、部屋の隅々まで光が巡る。
しばらくすると部屋に暗闇が戻り、先程と同じく音を殆ど立てることなく扉が閉まった。
規則正しい足音が遠ざかっていくと……。
(――よし。今だ!)
少年は布団を跳ね除けてベッドから起き上がり、周りを仕切る清潔なカーテンをめくり、
同じ仕切りが並ぶその部屋を後にした。
同じ室内で眠っているであろう他の誰も起こさぬように、気を付けながら。
◇
一九九五年。
ここは真月市にある医科大学付属病院。その入院病棟の一室に、彼は居た。
彼がここに入院している理由は、病ではなかった。
が、彼の将来のために、手術は絶対必要だったのだ。
――漏斗胸。
当時の彼は、まだ骨がさほどの強度も持っていない幼年期にずっと姿勢が悪かった。それがたたり、さながら理科の実験に使う『漏斗』のように、肋骨が凹んでしまった。
当時はまだ何の悪影響も無かったのだが、だからといって放っておくと、そのまま成長した時に必ず、凹んだ肋骨が内臓を圧迫することになる。
そうなれば当然、彼は普通の生活を望めないどころか、若くして死に至る。
平凡に農業を営む彼の両親も、もちろん彼も、それは嫌だった。
だがその手術は、彼の住む田舎町では無理だったのだ。
当時まだ九歳だった彼は、そんな背景で、独りこの病院に入院していた。
◆
病棟の廊下はところどころに点いた非常口を示す緑色の光を辺りにたたえ、床や壁、それと至る所に付いた手すりなどを、ぼんやりと照らしていた。
病棟内には病院独特の薬品の匂いが漂っていたが、少年にはそれを気にしている様子は微塵も見られない。
彼はただ、彼の他には誰も居ない病棟の廊下を黙々と進みながら、いつもの場所を目指していた。
◇
当時の彼には、友達がいなかった。
地味を通り越して暗く沈んだ性格が災いした結果だ。
クラスメイトが六人しか居なかった田舎の小学生とは言えど、極端に社交性に乏しく、人と付き合うことに全く慣れていなかった。
家族や親戚の中であっても、言葉を交わす相手が限られていたほどだ。
そしてその社交性の乏しさは、この病院でも発揮された。
◆
階段に差し掛かったところで少年は、上階を目指して昇り始めた。
その頃にはもう、彼は自分の足音を気にしてはいなかった。
少しでも早くそこに着こうと、彼は駆け足で階段を昇っていった。
◇
ここは、市内に在る病院のなかでは一番大きい。
言うまでもなく、彼の田舎町にある町立病院や隣町の市立病院など比べ物にならない。
それほどに大きな病院内に、当時の彼と同年代の入院患者が全く居ない訳はなかった。
だが彼は、その子達と一緒に遊ぶことをまったくしなかったのだ。
そんな人付き合いが乏しかった当時の彼でも、趣味くらいは人並みに持っていた。
ただ同年代で――いや、たとえ幾つであろうともこの趣味を子供の頃から持っていた人など、おそらくほとんどいないかも知れない。
とにかく性格的に光の乏しかった、当時の彼が興味を持ったもの。
それは……
◆
(着いたー)
やがて少年の瞳に、扉が映る。より上へ昇る階段はない。
ここは、最上階のさらに上。
彼はそのドアノブを、胸いっぱいの期待を込めて回した。
扉を開けるとそこには、瞬く光が散らばめられた、小さな宇宙が広がっていた。
夜空。
少年が、扉から一歩外へ踏み出す。
すると彼の左頬を、晧い光が照らした。
滅多に人に見せることのない自然な笑みを浮かべながら、晧い光のほうへ振り向いた彼の目に映ったのは――
満月。――ではなかった。
よく見るとそれは、右端がほんのちょっとだけ欠けていた。
そんな風にしていつものように。
入院中、唯一の趣味を楽しむべく屋上に出た、よく晴れた真夏の十六夜だった。
彼が、『ルナ』と出逢ったのは。