9:集団自殺(後編)
ぎしり、 と音を立てながら、 周はデスクチェアの背もたれに体重を預ける。 足を組み直し、 裸足のつま先で引っ掛けただけの黒い室内履きが所在なさげに揺れた。
明石は何ともなしにそれを視線で追っていると、 ついには床に落とされて、 彼の無骨な足先が露わになった。 外界の気温を鑑みれば、 明石には随分と寒々しい格好に見えたが、 隔絶され、 常に一定の温度を保ち続けているだけの彼の世界では、 特に不都合はないのだろう。
まず疑問点を整理しよう、 と周はやおらそう言って、 右手を軽く上げた。
「第一に、 何故管理人たる人物は、 死を望む人間を生かしたのか」
「生かした、 ですか?」
明石は予想だにしなかった言葉に、 のっけから思わず口を挟んだ。
確かに死を見届けるはずの管理人が何故それを怠ったのかは疑問点に間違いないが、 死なせることが出来なかったのと、 生かすことは別物であろう。
訝しむ明石に周は一度だけ首を横に振る。
「生かしたんだよ、 間違いなくね。 死を見届けずに姿を消したのは、 不可抗力ではなく意図的だ。 そんなことは、 生き残った三人の話から明らかじゃないか」
周が事も無げにそう言うのを聞きながら、 明石は素早く彼らの話を思い返した。
彼らの話の中で、 管理人自身について言及しているのは、 彼もしくは彼女の存在意義とその役割、 それに姿を隠していたこと、 一切喋らなかったことのみだ。
アンダーグランドなサイトを運営し、 あまつさえ自殺幇助という罪を犯しているのだ。 己の姿を隠すのは別段可笑しなことではない。
そう考える一方で、 ふと明石の頭に違和感が浮かぶ。
――否、 そう。 管理人が犯している罪は自殺幇助であり、 運営しているのは自殺サイトなのだ。
「本来ならば姿を隠す必要性は無かった、と」
明石の言葉に、 周が満足そうに頷いた。
「目撃者たる人物は皆死んでしまうはずなのに、 姿を隠すなんて無意味だ」
「しかし、 今回のように予期せぬ目撃者が現れる可能性も考慮したのでは?」
「ならコートや仮面をその場で燃やすことなんてせずに、 そのまま現場を去るだろう?」
それもそうだと明石は合点しながら、 尚更に深まる疑問に困惑する。
色の無い指先で唇をさすりながら思索にふけるも、 推測すら立てられないまま。
そんな明石を放って、 周は容赦なく言葉を続けた。
「第二の疑問は、 何故被害者の傷口がああも不整形であったのか。 そして第三の疑問は、 何故管理人は自殺志願者達に姿を隠させたのか、 だ」
「刺す相手の姿をはっきりと視認してしまえば、 躊躇ってしまうからでは?」
続けざまの問題提起のうち一つは、 川下の話を聞いた段階で、 明石の中では違和感なく処理されたことだ。
けれど周は明石の推測を、 あっさりと否定した。
「それならば最初から刺殺なんて選ばなければいいのさ。 毒を飲ませるなり、 首を吊らせるなり、 練炭をたくなり――ああ、 これは現場が広すぎるからあまり向かないかな」
そう言いながら話題に不似合いなほど声だけは軽やかに笑う周が、 やけにわざとらしく見えて、 思わず明石は目を見開いた。
彼は彼自身の抱く感情を表現することを決して躊躇わない。 それが例え如何に場の空気にそぐわないと自覚し、 他者を不快にさせると了解していても、 それを気に留める素振りもない。
慣れていなければ実に扱いにくいようでもあるが、 取り繕わない彼の感情を、 発露のまま受け入れれば良いと分かってしまえば、 そうでもない。
彼は何を考えているのか悟らせないことに長けてはいるが、 表現する感情に嘘はない――本来は。
少し苛立っているのかと思ったのは、 そんな周の姿を見て唐突に浮かび上がった推測であったが、 あながち的外れではないだろうと、 明石は一見無表情にも見える周の顔貌をなぞる。
まだ川下のことを引きずっているのかと邪推するも、 すぐに否の答えが浮かぶ。
彼がその感情を明石に見せようとしないのは、 明石にその由縁を悟られてくないからに違いないのだ。
隠しきれない苛立ちを、 無理矢理別のもので覆い隠そうと試みるほどに。
だから恐らくもっと別の、 明石の想像も及ばぬ範疇の理由なのだろうと思えば、 それを探ることもまた早々に諦める。
八つ当たりさえされなければいいと、 彼と対峙する度に増えていく妥協に嘆息を漏らす。
そうしながら明石は、 事件の話題に集中するように努めた。
「つまり管理人は、 自分も被害者達の姿も隠したと」
「どうしてだと思う?」
「それを考えるのは私の仕事ではないはずですが」
何を企んでいたにしろ、 間違いなく犯罪者である管理人の思考に己を沿わせることはしない。
周との間で幾つもの妥協を重ねられるのは、 決して踏み越えてはならない一線を明石自身の中で引けているからだ。
「相変わらず、 アゲハは頑固だね」
あくまでも頑なな明石に、 周が声をあげて笑う。
「アゲハではなく明石と――それが身を守る唯一の手段と心得ていますから」
「変化なきものはやがて滅びるのが世の常だけど?」
「必要な時に必要なように。 それとも今がその時だとでも?」
先ほどとは違う心底愉快そうな声色が、 灰色の壁に幾度も反射しては響く。
「必要に迫られた急激な変化というものに、 アンタは耐えられないかもしれないと思ってね」
「そうなれば、 それが私の器であり、 終わる時だというだけですから」
「臆病なくせに、 妙なところで達観している」
いや諦観かな、 と笑いの余韻を残した表情のまま周が呟くのに、 明石は緩慢に首を横に振る。
臆病なくせにというよりは、 臆病だからこそ。
終焉は恐ろしいと思うが、 終焉に抗おうとするのはもっと恐ろしい。
そう言うと周は、 やや感慨深そうな顔で言った。
「まるで処刑を待つ死刑囚に似ているね。 吊るされるのを待つ時間ほど、 恐ろしいものはないと聞くから」
そう言う彼こそ正しくその死刑囚であるというのに、 まるで他人事のような口振りに明石は顔を顰める。
これが明石と彼の差異の一つなのか、 と思い馳せれば、 同時に著しく本題を逸れたことに気が付いた。
逸れてしまったというよりも、 逸らされた。
先ほどのらしからぬ振る舞いといい、 この事件の真相をどうやら周は余り語りたくないようだと、 明石は察した。
けれどもこれは契約だ。 例え気が進まずとも、 周には明石に語る義務がある。 本心と本能を裏切って明石が此処に通い続けるのと同様に。
故に明石は一呼吸置いた後で、 何も気が付いていないようにそれで? と周に先を促した。
「それで、 って?」
「事件の話です。 問われたらを語るのが貴方の役割でしょう」
誰かに何かを強いることに多少の罪悪感はあれど、 それに流される意志薄弱を明石は良しとしていない。
此れが明石に与えあれた役割である限り、 何が有ろうと果たさねばならない。 己自身に流されてしまえば、 明石の存在意義すら危ぶまれる。 必要とされなくなれば、 明石は己をこの世界に止めておくことが出来ない。
己を守るために、 感情を削ぎ落したような頑なな声色と眼差しで、 明石は周に強要する。
周は仕方なさそうに肩をすくめて、 言った。
「AからFまでの人間が居て、 役は六つ。 自殺志願者四人と管理人と発見者。 けれど本当はA~Eまで、 五人の人間しかいないんだ」
「言っている意味がよく」
「つまり、 本当ならば五人の人間を六人に見せかけるために、 顔を隠した。 一人二役を演じるには必要だろう?」
周の言葉を受けて、 明石は一瞬沈黙する。
だとするならば、 自殺志願者と管理人は別の人間でなければならない。 同時に5人が存在していたのだから。
ともすれば――
「貴方は、 被害者の姉が管理人であると?」
「そうとも言えるし、 そうじゃないとも言える」
周はそう言うと、 静かに笑った。
「ねぇ、 アゲハ。 これは殺人事件なんだ」
「ええ、 そうでしょうね。 私達は同意殺人の犯人を見つけなければならないのですから」
「いや違う。 同意なんて欠片もない、 本当に唯の殺人事件なんだ」
椅子の軋む音がしたと思えば、 周はいつの間にか硝子越しに、 明石のすぐ眼前に立っていた。
喜びなよ、 と言う声が、 透明な壁を越えて、 その向こうの空気を揺らす。
そうして届いたものが、 まるで脳内を揺らしたように感覚に、 明石は一瞬目眩を感じた。
「アンタが憂いていたように、 不本意な殺人者なんていないんだよ。 だって犯人は被害者の姉で、 彼女は間違いなく殺すために刃を刺したのだから」
「彼女が管理人であったとしても、 被害者を刺したのは、 他の三人のうちの誰かでしょう?」
「そうじゃないことは、 アンタだって気が付いていただろう?」
刺しあったにしては一方的に荒れた傷口。 深々と刺し、 そして命の緒を切るように何度も体内を掻き回した刃。
刺された人間には出来そうにない。 だとするならば、 そうして止めを刺したのはもっと別の人間でなければならない。
それが管理人であり、 発見者であり、 姉である彼女だとすると――否、 違う。
明石はそこまで考えて、 頭を振った。
そうだとすると、 妹の方は自らの意思でそこに立ったということになる。
妹に自殺願望があるならば、 こんな舞台は必要ないのだ。
誰かと共に死にたいと、 自殺サイトを利用したとしても、 そこに姉がいる必要はない。
ましてや、 姉が妹の死を望むなら、 それを拒むように通報する意味もない。
そうして一つ一つ頭に浮かぶ推測は、 確かに事件のピースであろうと明石は半ば断じていたが、 さりとてそれをどの部分にどのように当てはまるかなど到底分かりえない。
元々明石は法医学者なのだ。
死体の語る言葉を拾い上げ、 過去の痕跡を辿り、 そうして得たピースを差し出すのが仕事であって、 全体像を描くのは警察の役割だ。 領分が違う。
無論それは明石の中での心得であって、 そうではない法医学者もいるやも知れなかったが、 だからといってそういう人間の真似は出来ない。
明石は明石の身の丈に合う領分を見極める。 そうでないと、 きっと何時か踏み越えてしまうに違いない。
明石は唇を固く結び、 混乱しかけた思考を解きほぐすように目頭を軽く揉む。
それから周を見上げて、 無言で問うた。
「一人二役が二人いるから少々ややこしく感じるが、 分かってしまえば至極単純な話だよ、 アゲハ。 ようは管理人は二人いるのさ。 姉と妹。 姉は管理人としての役割そのものを担い、 妹は管理人の姿――敢えて詩的に言うならば、 象徴――を担った」
「つまり、 姉が管理人として、 場所や物品を用意し、 現場の状況を整えたと?」
「そう。 そして姉の方は、 自殺志願者のうちの一人に潜り込む。 妹の方は管理人として彼らの前に姿を見せたんだ」
「――良く、 理解出来ません。 そもそも、 それでは刺されるのは姉の方になるのでは?」
本来ならね、 と周は軽く笑った。
「姉を刺した相手のナイフは恐らく手品で使うようなマジックナイフだったんだろう。 4本のナイフを並べ、 そのうち1本がマジックナイフだとする。 姉は真っ先に普通のナイフを選び、 残り三人のうちマジックナイフを手にとったものとペアを組めばいい。 まあ多少本物と比べれば、 重さも刺した時の感触も違和感があるだろうけれど、 睡眠薬を飲んで意識が朦朧としている上に、 人間をナイフで刺した経験なんてないだろうからね。 まあ気づかれないだろう」
「自殺を図った人間の中にいたのは、 妹ではなく姉の方だとして。 管理人の一人であるはず妹がどうして、 刺されることに?」
「最初から言ってるだろう。これは唯の殺人事件だ。 目くらましのために多少事を複雑にはしているけれどね。 妹も管理人であったとは言ったが、 別段それは彼女が望んで引き受けた役目じゃない。 彼らが見た管理人は、 レインコートを纏い、 フードと仮面で顔を隠して、 ただ椅子に座っていただけなんだろう? それが睡眠薬を飲まされた上で誰かに刺されて、 気を失いながら、 座らされているだけの人間だとしても一体誰がそんなことに気が付く?」
刺されていれば血が流れるはずだ、 と咄嗟に反論しようとして明石は口を噤む。
一般的に誤解されがちであるが、 ナイフを刺しただけでは大した血は流れない。 ナイフ自身が傷口をふさいでいるからだ。 激しく出血するのはナイフを引き抜いた瞬間――つまり、 ナイフを刺したまま椅子に座れていれば人目を引くような出血は起こらないはずだ。
しかも体型を隠すようなレインコートであれば、 刺されたナイフによる不自然な膨らみも目立たない。
周は明石の理解を確認したかのように頷くと、 言葉を続けた。
「なんらかの言葉で妹を現場に呼び出し、 睡眠薬を摂取させる。 睡眠薬は飲み物に混ぜるなり、 食べ物に混ぜるなりして摂取させればいい。 個人的にはチョコレートがおすすめだね。 あれなら薬の苦みも誤魔化せるし、 包み紙ぐらいしか痕跡が残らないから忍ばせやすい。 うつらうつらし始めたところで、 隠し持っていたナイフで刺せば、 そう抵抗はされないはずだ。 それから妹を椅子に座らせる。 レインコートは妹に予め妹に着させたのか、 或いは自分で着せたのかは知らないが、 最後に仮面を被せる。 自分も同じような格好をして、 マジックナイフを含めた4本のナイフと睡眠薬の錠剤を準備し、 他の三人が来るのを待った。そのあとは彼らの語った通り。 そして、 彼らの意識が失われるとともに、 刺されて倒れたはずの姉が起き上がり、 代わりに妹の体を椅子から床に転がす。 恐らくその時にナイフが動いて傷口が開いたんだろう。 姉が確実に殺すためにえぐったの可能性も十二分にあるが」
「――そうして、 あとは四人のナイフを引き抜き、 指紋を拭き取り、 自分のレインコートとマスクを燃やしたと」
確かに、 違和感はあったのだ。
お互いに刺し合った人間は分かっているのだから、 指紋を拭き取る必要性はなかったのではないかと。
それに管理人が己の姿を隠すはずのものをその場で燃やす必要性も。
指紋を拭き取ったのはナイフについて自分の指紋を隠し、 コートや仮面を燃やしたのはそこからDNAの類が検出されるのを恐れたため。
そう合点がいく一方で、 明石は未だ解決していない疑問を提示する。
「しかしだとしても、 他の三人を生かす必要性はあったのでしょうか? 彼らは生きるか死ぬかの瀬戸際の状況だったとはいえ、 助かりました。 彼らがそうであったということは、 妹の方も助かる可能性はあったということでしょう?」
「妹の方が早く刺されていたし、 傷口も大きく深かった。 ただお互いに刺しただけの他の人間がぎりぎりなら、 彼女が助かる可能性はほぼないだろう?」
「――それは、 そうですが」
納得しきれないと言うように眉を寄せる明石を宥めるように、 周はさらに言った。
「お互いを刺し合ったという確実な証言は何よりも必要だったろうし、 管理人という謎の人物の存在も捜査を攪乱するのには必要だった。 まあ恐らくサイト自体はつい最近出来たもので、 尤もらしくログは作ってあるだろうが、 流されている噂を含めて全て出まかせだろうね。 それに海外のサーバーを数個経由すれば、 そこから管理人の招待に辿り着くのも難しい。 あとは被害者達がまだ辛うじて生きている方が、 一緒に緊急車両で脱出出来て、 隠しナイフも処分しやすい。 ああそれと、 彼女が発見者として現場に乗り込んだのは、 恐らく万が一自分が居た痕跡が残ってしまっていても、 言い訳がたつからだろうね」
周が早口でまくし立てる話は、 確かに筋が通っているように思えた。
けれど何故か了解しきれない。
何かを忘れているような違和感を明石は拭い切れず、 顔を顰める。
果たして被害者の姉は、 これほどの犯罪計画を立てるだけの頭脳や、 それに伴うPCや人体の専門知識を持ち得るのだろうか?
そもそも一度現場から立ち去った方が妹は確実に命を落とし、 ナイフの処分もしやすい。 その後で第一発見者として通報した方が余程リスクが少ない。 管理人の存在など語られせずとも、 彼らが利用したサイトは何れ明らかになったはずだ。
それに、 わざわざ自殺方法を刺殺になどする必要はないのだ。 睡眠薬を飲ませることが出来るなら、 毒薬だって同様のはずだ。 わざわざ二度手間をかける必要もないはずで――そう、 彼はこの疑問についても答えていない。
――嘘だ。 軒端周は嘘を吐いている。
明石はそう直感的に確信した。
彼はこの事件について何かを知っている。 そして隠している。
その何かが、 或いは隠そうとする行為が、 周の奇妙な振る舞いに繋がっているに違いない。
そう思えば思うほど胸にこみ上げてくる感情を処理し切れず、 明石は声を荒げた。
「そんな茶番を聞きたいがために、 私は此処にいるのではありません!」
「茶番ではなく真実だ」
「いいえ!」
周を問い詰めながら、 明石は不意にこんな風に激昂するのは何年ぶりだろうと頭の冷静な部分で考えた。
そしてそんな風に振る舞う明石を、 彼はどんな目で見ているのだろう。
喜んでいるだろうか、 面白がっているだろうか。
苛立ちのまま睨み付けた明石の双眸を、 周は驚くほど真っ向から受け止め、 そして淡く笑った。
「アンタは何時かアンタ自身を殺しかねないね」
「どういう、 意味ですか」
勢いを削がれたのは、 穏やかに響くその声色の奥に深い哀しみのようなものを感じ取ったからだ。
周は答えられないというように、 そっと目を伏せた。
「あんたの嗅覚は正しい。 だからこそ俺はアンタにこの事件の真相を話すわけにはいかない。」
川下を呼んで、 と周は明石にただそれだけを告げた。
****
「――久しぶり、 とでも言うべきなのかな。 川下警部補――いや、 もう警部だっけ?」
「どういうつもりだ、 軒端」
川下 蔵人が銀フレームの眼鏡をくいっと上げながら、 先程までアゲハが座っていた椅子に腰掛ける。
周は自分で指示したことながら、 改めて彼女以外の人間とこうして自分と対面する不快感に呵まれていた。
川下と入れ替わるようにアゲハはこの場と立ち去るように指示し、 不満げな様子を見せながらも大人しく従う彼女に覚えた喜悦はそれで相殺されてしまう。
今頃彼女はどうしているだろうか。 彼女を毎度此処まで送迎している川下の車で待っているか、 或いは看守室辺りに待機して無声の監視カメラを覗いているかもしれない――十中八九後者だろうな、 と周は想像して思わず口元を歪めてしまった。
近づけば火に焼かれることを知りながら、 それでも近づいてしまう彼女のその愚直さが実に愛おしい。
尤もそれを率直に彼女に伝えれば、 形の良い柳眉を顰めて不満を露わにするのは明らかなのだが――今度来たときに言ってみようと考えてしまうのは周のせいではない。 彼女が持つ被虐性故だ。
「余りアンタとは話したくないんだ。 取り敢えず簡潔に言うけど、 今回の集団自殺、 唯一の死亡者を殺したのはその姉だと発表して」
「は?」
「ああ、 その発表の時には "ある人物の協力の下" それが判明したって言うんだ。 詳しい内容は明石から――分かったらもう帰って」
「呼びつけておいて随分な態度だな」
防弾ガラスを挟み、 さらにレンズの向こう側の瞳に呆れを滲ませながら川下が言った。
彼女とは違ってじっくり観察する気にもなれないが、 まあ一般的に端整と称されるであろう顔立ちを歪ませている川下に、 周は然したる感慨もなく 「興味がないんだ」 と端的な一言で彼に返答した。
「アンタは何事もそつなくこなすし、 まずもって自分の信念を曲げないし、 それに悩まない。 完成品というのは伸び代がなくて詰まらない」
「そいつは光栄だ。 お前に興味を持たれるなんて悲劇だからな」
「それならお互いに幸いだね。 じゃあ然様なら。 気をつけてアゲハを送っていって」
「待て」
彼女と話している時を除いて、 周はその時間の大半を読書に費やす。
床に放り出された本を手に取ろうと立ち上がった周を、 川下の声が鋭く制した。
「明石先生が、 お前に事件の相談しているのは知っている。 今回、 集団自殺の件について相談したというのも。 元々そうなるだろうことを予想して、 持ち込んだのは俺自身だからな」
「ああ。 正しい判断だが、 同時に余計なことをしてくれた――アゲハにはまだ関わらせるべきでも、 知らせるべきでもない。 しかしこの真相を "解明" しなければアゲハの身が危ない。 だから俺はアンタを呼んだ。 優秀な人間なら、 この指示と事件の経緯を聞けば、 結論に辿り着けるはずだけど」
それにしても相変わらず彼の声は五月蠅いと、 周は顔を顰める。
彼女の静謐な声色とは違って、 外見に反して良く喋る川下の声は低く掠れて耳障りだ。
カフェオレ色をした彼女の髪色とは違ってこの男の黒々とした色も気に喰わなかったし、 華奢で小柄な彼女とは違って、 パイプ椅子から余る逞しい体つきも苛立たしい。
――言ってしまえば、 彼女でないこと自体が不快なのだ。 自分がそうさせたことだと理解はしていたが、 そうならざる得なかった現状が腹立たしい。
半分は八つ当たりであることは理解していたが、 申し訳ないと思うほど周はあまりこの男のことが好きではない。
川下がやれやれと肩をすくめて、 ジッポで煙草に火を付けるのが視界に映る。
彼は実に気怠そうに此方を見ながら言った。
「俺も出来ることなら早く明石先生を送り届けたい。 だからこそ無駄な議論は省きたい」
なあ、軒端と呼びかける瞳が、 剣呑に光る。
「傲慢も大概にしろ。 俺が――警察がお前の一言だけで、 全て動くと思うなよ?」
「傲慢はどちらかな。 いや傲慢と言うよりも怠惰か。 真相を理解出来ない愚鈍の責任を俺に押しつけないで欲しい」
「生憎と俺は凡人だ」
そうだ、 川下は凡人だ。 彼女とは違う。
彼女は自分を凡人だと思い込んでいるだろうし、 周が何を言っても彼女はそう主張し続けるだろうが――彼女は非凡だ。
遺体から香る犯罪の臭いに鋭敏に反応する嗅覚は彼女の持つ特権で、 良く回る思考は彼女に与えられた祝福だ。
――しかし川下という男は優秀ではあるが、 あくまで凡人の域を出ない。
すっかり彼女に慣れてしまった周には些か煩わしく思えたが、 仕方がない。
態とらしいまでに大きな溜息をつきながら、 周は重い口を開いた。
「この殺人事件は、 俺が立てた計画が使われている」
周がそう言うと、 川下は煙草を咥えたまま「だろうな」と呟いた。
アゲハも了承しているように、 軒端周という犯罪者は幾つもの犯罪計画を立てている。
周の基本姿勢は、 彼女にも何時だったか説明したことがあるようにそもそも殺人を殺人として認識させないことにあった。
事故や自殺と認定されてしまえば、 犯人はその時点で存在しないことになる。 存在しないものを探すはずがなければ、 探されなければ犯人が捕まることもない。
そうやって幾つもの計画を立て、 実行した罪で周は投獄されているのだが――彼女はその計画を、 他人のために立てたことがあるのを知らない。
周が此処にこうしているのは、 決して公に出来ない取引の賜物だ。
周と権力の思惑の一致。
アゲハには決して教えられない、 彼女も知りたがらない薄暗い事情。
だからこそ、 その取引を知っている数少ない人間である川下という人間は、 周にとって確かに必要であった。
忌々しいことに、 と唇を動かさず周は小さく呟く。
不審そうに此方を見る川下を無視して、 周は事件の大まかな真相を彼に教えた。
「つまり集団自殺の中に、 殺人を潜り込ませるという計画――筋は通っているな」
概要を聞き終えた川下が、 そう呟く。
「ああ。 でも明石はこの真相では納得しない」
「ほう? まあ確かに、 こんな複雑なことをする必要はないだろうな。 煩雑過ぎてスマートさに欠ける。」
殺人にスマートも何もあるか、 と彼女ならすかさずそんなことを言うに違いない。
黒曜石のように瞳の中に隠しきれない感情を滲ませて、 そうして噛みついてくる彼女の姿を想像すると自然と周の表情は緩む。
そうして得た悦楽を逃がさないように、 眼前の川下を出来るだけ視界の隅に追いやりながら、 周は頷いた。
「当初の計画は毒殺で、 場所は郊外に止めた車内。 予め呼び出したターゲットに毒物を仕込んだ飲食物を飲ませて殺し、 仮面を被らせて、 管理人に仕立てる。 そして車内には同様の飲食物と指示書を置き、 鍵を開けて、 自分は近場に身を隠す。他の三人が指定された時間に現れ、 指示書通りに飲食物を摂取し、 死んだのを確認した後指示書と仮面を回収し、 自宅に帰る。 後は流れるがまま、 被害者達の車が第三者に発見されるのでも、 行方不明になった被害者達を探した結果警察に発見されるのでもいい。 大方自殺で片が付く。 現場が車内なら、 仮に痕跡が残ってしまっても、 友人や家族の車だからと言い訳もたつ」
「毒物の入手は?」
「ターゲットのPCを利用すればいい。 自殺サイトの管理も同様に。 そうすればターゲットが管理人であり、 死に魅入られていた管理人はサイトを運営するだけでは飽き足らず、 最終的に己自身も殺したという結論で落ち着く」
そう淡々と語れば、 川下が低い声で唸る。
「今回に比べれば随分と単純な事件構造だが、 だからこそ発覚しにくい。 何故、 彼女はそうしなかった?」
「そうしてしまえば、 事件が事件として認識されない。 事件と認識されなければ、 この不可解な事件が俺のところに持ち込まれない」
「随分と舐められたものだ」
「紛れもない事実だろう? だから明石が気が付くまで、 誰も俺を見つけられなかった――彼女にこの計画を授けた人間は、 特にそう思っているだろうし」
「――軒端 廻、 か」
川下が重々しい声色で呟いた名前に、 周は静かに吐息を漏らした。
久方ぶりにを他人の口から聞くそれに、 得も言われぬ感慨が沸く。
軒端廻、 周の唯一の弟。
今回の加害者に、 周の計画を授けたのは間違いなく廻であると周は確信していた。
この計画を知っているのは、 廻しかいない。
何れそうなると分かっていても、 いざ事が起これば心が急く。
周は今すぐこの牢獄から飛び出したい衝動を抑えるように、 組んだ腕の内側で固く拳を握った。
「アイツはこの事件の真相に警察単独ではたどり着けないと "盲信" している。 多少の綻びを作ったとしても見破れるのは、 その計画を立てた俺自身しかいないと」
「計画が見破られたという事実が、 お前が生きているという証拠になる――廻はそうやって、 国が隠し続けているお前の生存を確認しているというわけか」
「事件に対する嗅覚は全くなのに、 そういう腹芸は直ぐに察しがつくんだからアンタも職業を間違えてるよね――いや、 警察だからこそそういう腹芸って大事なのか?」
「やたら噛みついてくるな」
川下は周の苛立ちを見越しているかのように、 にやりと笑ってパイプ椅子から立ち上がる。
「事情は理解した。 明石先生には俺から上手く伝えておこう。 廻の存在を、 先生は知らない方が良い」
そう言いながら、 煙草の火を携帯灰皿で掻き消して立ち去ろうとした川下が、 不意に周の方を振り返った。
「一つ分からないんだがな。 お前の計画を見破れるのが他にいるのは最早自明だろう。 仮に廻が警察を歯牙にも掛けていないにしても、 少なくとも明石先生の存在は無視出来ないはずだ」
「――だからこそ、 アゲハを殺したがっているんだよ。 俺の愚弟は」
周は忌々しそうにそう、 言った。