8:集団自殺(前編)
「もし、 一から人生をやり直せるならアンタはどうする?」
冬の寒さに身を凍らせ、 外では雪がちらつき始めていた。
けれどこの灰色は、 一片の白が舞い込む余地もなく、 明石 蝶の肩もとにかかっていた雪も何時の間にか解けて、 透明に滴る。
外の景色など露知らぬであろう軒端周は何時も通り、 平坦な声色で明石に問い掛けた。
「――どうするでしょうね」
周は何時も明石が来る度に例え話を繰り出しては、 それを会話の切っ掛けにする。
その話に当然脈絡など無くて大方は子供の雑談のようなそれであるのに、 時折こうして明石の奥深くに踏み込もうするかのように至極答えに窮するようなものを投げかけてくるのだから、 咄嗟に応じた明石の返答は答えにすらなっていなかった。
勿論それで周が納得するわけもなく、 続きを促すかのように黙ってオリーブ色の視線を向けられると、 明石は暫く黙って考え込むように唇を撫でた。
「もし――やり直す前の記憶があるならばきっと今度は失敗しないように上手く立ち回ろうとすると思います」
「うん」
「でももし、 やり直す前の記憶がないのなら――やり直すことすら、 私はしたくありません」
人間の本質などきっと変わらない。
同じくして明石の本質も変わるはずが無く、 きっと何度繰り返しても同じような人生を歩むに違いなければ、 同じような場所で同じような失敗を繰り返し、 同じような辛酸を舐めるのだ。
あんな思いはもう二度としたくない――と、 確かに楽しいことも嬉しいことも沢山あったはずなのに、 どうして自分の記憶に残っているのは苦々しくて悲しい思い出ばかりなのだろう。
不意に明石はそんなことを思っては、 沈鬱な溜息を血の気の薄い唇から漏らした。
「仮に記憶があったままやり直せるとして、 そうしたらアンタは今生きているのと別の道を選ぶかい?」
「さあ――どうでしょう」
明石はそう嘯きながら、 頭の隅できっとそうするであろうと夢想した。
もし万が一人生がやり直せるなら――自分の失敗をなかったことに出来るチャンスを与えられるなら、 そうなったときの明石は確実に法医学者という道を選択することはないのだ。
――時々今でも夢を見ることがある。
臨床医として生き続けている自分の夢。 生きている人間を救おうとする自分の有様に何の疑問も抱かずに済んでいる夢。
「法医学の道を選んだのは、 逃避だ。 もし逃げるべき過去から解放されたら、 アンタはきっとこうは生きなかっただろうね」
「……答えが分かっていて尋ねるのは、 時間の無駄でしょう」
「俺は其処まで自信家じゃないよ。 推測はしていたが、 確信したのは今アンタが浮かべた顔つきを見てだから」
周は眠たげな目を殊更細めて言ったのを聞いて、 明石はやはり内心を隠し切れていない事実を突きつけられる。
無言で黙りこくった明石に、 周がふっと口元で笑った。
「俺はもし、 人生をやり直せるなら――きっとまず最初にアンタを探すよ」
「私を殺すためにですか?」
周が此処に押し込められる原因の一端である明石を、 彼は邪魔に思っているに違いないのだから。
そんな確信で満ちた明石の問い掛けに、 周はしかし緩やかに首を横に振った。
俺がアンタを傷つけるわけがない、 と直ぐ後に続けられた言葉は、 腐った果実のような甘ったるさで明石の耳に流れ込む。
「何時も思うんだよ。 アンタが此処から帰る度に。 もしアンタと俺の間に隔てるものがなかったら、 もっと早くアンタと出会えていたらって」
「――そうしたら、 何かが変わりましたか」
「うん」
周は迷うこと無く頷くと、 真っ黒なデスクチェアの背もたれに体重を掛けた。
ぎしり、 と椅子の軋む音が静かな空気を揺らす。
彼は更に続けた。
「俺もね、 人の本質とやらはそうそう変わるものではないと思う。 けど、 その本質の発露の仕方はきっと環境によって左右されるんだよ。 もし俺が幼い頃からアンタが近くに居てくれたら、 そんな環境があったら――きっと、 俺もアンタも色々と間違わずに済んだのかも知れないね」
「貴方は良く分かりません。 自分の犯してきた罪を恥じる素振りも後悔をする素振りも見せずに、 過去に戻ってもきっと同じ事をするとそう言っていませんでしたか?」
「うん、 そうだよ。 過去の或る一時点に戻るだけなら、 ね。 だってそれだけなら環境は変わらないだろう? でももし生まれたところからやり直せるなら、 環境を変えられるなら――ねぇ、 アゲハ。」
周はおもむろに椅子から立ち上がって、 二人の間の境界ギリギリまでにじり寄った。
大きい手を押しつけて、 額をこつんとガラスに寄せる。
彼は斜め上から座る明石を見下ろして、 それから酷く小さな声で言った。
「もし真っ新な俺が其処に居て、 傍に居て欲しいと願ったら――アンタはそれを叶えてくれる?」
脆弱な声色は、 まるで周らしくないと明石は彼を見返した。
長い前髪に目元は隠れていて窺い知れず、 唇は何時も通りに僅かなへの字を描いているのをまるで泣いてしまいそうだと思ったのは、 光の加減なのだろうか。
軒端周という男は、 明石にとって間違いなく危険な男だ。
それはその過去のみならず、 恐らく彼の性質そのものが明石の望む安寧を脅かす。
真っ新な彼もまた同じように。
だからどんなに望まれても明石の理性は彼を拒むのに、 明石はNoを口に出せない。 伸ばされる手を振り払うことが出来ない。
「――良いですよ」
明石の意志に反して動いた口に、 明石自身が溜息を漏らす。
絆されているといる、 のだろうか。
自分には関係のないことだと断じることが出来ないまでには、 彼という人間が明石の中に深く組み込まれているのだろうか。
否、 きっとこれは自己愛的な自己犠牲だ。
明石が傍に居ることで周が罪を犯さずにいられるならば、 そうして救われる人間が居るならばそうするべきだ――明石はまるで自分自身に言い訳するかのように、 己の思考にそんな筋道を立てた。
「そう」
顔を上げた周は穏やかな顔つきで、 何処か嬉しそうに頷いた。
***
明石がその事件について知ったのは、 一週間ほど前の話であった。
故意にしてる警察関係者から持ち込まれた案件は都内で起こった一件であったからして、 本来ならば明石の属する法医学教室の管轄ではない。 にも関わらず、 その人物が明石に助言を求めてきたのはひとえに軒端周という男との奇妙な繋がり故であろうということは、 事件の概要を聞く前に大よその予想がついた。
「集団自殺?」
明石は紙ホチキスでまとめられた資料の題目を一瞥し、 眉をひそめた。
明石の眼前に座る男、 川下 蔵人が「ああ」と年の割に深い眉間の皺をさらに寄せながら頷く。
「正確に言うならば一部自殺未遂なんだがな。 四人のうち、 三人は一命をとりとめている」
幸か不幸かな、 と川下は皮肉ったらしい口調でそう付け加えたのに、 明石は曖昧に笑った。
人による、 のだろうか。 どちらであるかは。
少なくとも明石から見れば、 生存は間違いなく幸福であれど、 さりとて死を望むほどの苦痛を知らないわけではない。
ただ明石に限っては、 死という未知への恐怖が苦痛を上回ったというだけであって、 どちらに天秤が傾くかはその人間次第なのだろうと――自殺を勧める気も肯定する気もないが、 各々の人生だ。 各々の終わらせ方があるかもしれないと、 まったく否定する勇気もない。
「それで、 何か不審な点でも?」
「……まあな」
内心は語らぬまま話を続きを促すと、 川下は珍しく煮え切らない態度で、 テーブルの上に置かれた資料を数ページ捲り、 明石に手渡した。
「今回の集団自殺事件は、 都内にある廃ビルの一室にて行われている。 集まった人間は全部で四人。 お互いがお互いを用意されたナイフで刺すように自殺を図った」
「――それはまた、 随分と」
明石は続く言葉に詰まり、 尻すぼみに言葉を濁した。
川下は察したように、 苦笑交じりに頷く。
「練炭なり、 毒なり、 首吊りなりあるだろうに、 よりにもよって、 な。 まあ、 そういうルールだったらしい」
「ルール、 ですか?」
川下の言葉に眉を顰めた明石は、 促されるままそのまま視線を資料に落とす。
どうやら今回の集団自殺事件は、 ネット上のとある自殺サイトに集った人間であったらしく、 そのサイトではある特殊ルールが適応されていた。
「――管理人が、 自殺方法を指定する?」
それはまた奇妙な、 と明石は眉間の皺を更に深めて訝しむ。
他人の死に方を決めるのも、 他人に死に方を決められるのも――どうして、 それを良しと思うのかと。
儘ならぬ何かに絶望して、 死を望んだはずなのに。 その幕引きすらも儘ならぬなら、 きっと死は脱却にはなりえない。
彼らの思考を理解しようと考え込む明石を、 川下は諦観めいた声色で諭した。
「分からんよ、 俺達には。 それに死にたがる連中の気持ちなんて、 分かったところで気鬱になるだけだろう」
そもそも最近の若者が考えていることが良く分からん、 と続けざまに愚痴めいた言葉がつながる。
集まった人間は女性二人と男性二人の計四人。うち亡くなったの女性一人を除き、 全員明石や川下よりも一回り以上年下だ。 亡くなった女性も十歳程年が離れているのだから、 なるほど確かに最近の若者という言葉は頷ける。
さりとて、
「時代や年で人の本質は変わるものではない、 でしょう」
「……どうだろうな」
川下は何かを言いかけるように口を開いたが、 すぐに思い直したように首を横に振ってそう言った。
彼は彼なりに何か思うところがあるのだろうか。
けれど、 明石は彼が彼の意思で噤んだ言葉を追及するような真似はせず、 気が付かない素振りのまま川下を見つめ返して、 先を促した。
「興味を惹くだろうと思ってな」
明石の視線を受けて、 そんな風に言った川下に自然と顔を歪める。
" どちらの " 興味を惹くというのだろう。
明石か、 それともその先の人物か――どちらにしても、 行きつく場所は同じなのだから大差はないのだろうが、 不愉快な気分になるのはそうなってしまう現状を憂いているからだ。
さりとて今そんな不満を眼前の男にぶつけたところで、 ただの八つ当たりになってしまう。
明石はその意識を事件に集中させる。
「一応警察としては、 誰が誰を刺したのか明らかにしなければならない」
明石の心情を読み取ったように、 川下はそのまま言葉を続けた。
「特に亡くなった女性を刺したのが誰であるかは重要だろう?」
「――同意殺人、 ですか」
何とも言えない感覚が胸の奥に淀む。
専門家とは言い難いため、 大よそ法医学者として求められる一般的な知識の範疇でしかないが、 殺害を望む被害者に直接手を下した行為者は、 同意殺人という罪の範囲で括られる。
殺人――即ち、 それは殺人極刑法の範囲内であるということ。
川下が探しているのは、 一年以内に死刑に処される誰かだ。
折角助かったのにこれでは報われない、 とそんな風に思うのは未熟な浅はかさ故なのか。
明石は努めて感情を殺し、 平坦な声色で尋ねた。
「生き残った他の三人に尋ねれば、 すぐに分かる話かと思いますが」
「それがそうもいかないんだよ。 何せ全員が管理人から予め送られてきた揃いのレインコートと仮面をつけて、 現場に来たって言うんだ。 それに使用されたナイフは全て回収されていたしな」
「回収、 ですか?」
「ああ。 刺さったナイフは全部引き抜かれて、 ご丁寧に指紋も拭った上で、 部屋の隅に投げ捨てられてた。 胸糞悪い話だが、 どうやら現場には自殺を見届けるために五人目の人物が居たって話だ」
「――それが管理人だと?」
明石の推測に、 川下が首肯する。
それもまた妙な話だと、 明石は川下に断って、 詳しく書かれた資料に目を落とす。
川下の言う通り、 彼らは午前3時頃、 人通りの少ない頃合いを見計らって都内の廃ビルに集まったようだった。 その辺りは大型ショッピングモールの建設予定地であるらしく、 建物の取り壊し工事が近いこともあって、 元々あまり人気がない。 近くに車が一台ほど止まっていたらしいが、 中に人はおらず、 集合時間が各自微妙にずらされていたこともあり、 彼らは互いにすら見られることなく、 各々現場に辿り着いた。
ビルに入る直前には指示通り、 体型を隠すような大振りなレインコートと、 顔を隠す仮面をつけて。
随分と徹底していると思ったが、 指示を出した管理人曰く土壇場で決意が鈍らぬような配慮だという。
――確かに、 刺し合う相手の顔が分かってしまえば、 躊躇いもするだろう。
納得する一方で、 そんな悪趣味な自殺を指定したことへの嫌悪感を覚え、 明石は眉を顰めながら、 その先へと目を通した。
指定された部屋に入った彼らは、 そこで椅子に座った管理人と対面する。
彼らと同じように大振りなレインコートを纏い、 フードを目深く被って仮面をしていたらしく、 顔は一切見えなかったという。
管理人は一切喋らなかったが、 その前の小さなテーブルには、 4本のナイフと出来るだけ安らかに逝けるようにと用意された即効性の高い睡眠薬が並んでいた。
彼らは予め指示されていた通り各々が眠剤を飲んで、 ナイフを取り、 その場で二人組を組んで互いを刺し合った――そのあとのことは意識が混濁して誰も何も覚えていないという。
どうやらこれが件の自殺サイトの売りであるらしかった。
管理人が方法を決める代わりに、 場所も、 道具も全てを支度し、 安らかに死ねるよう見届ける。
そして確実な死を見届けた後、 警察に連絡し、 迅速に"綺麗な"まま埋葬されるように手配する。
或る種のネット社会では、 昨今話題のサイトであるとのことだった。
「でも、 それならどうして……」
「死なないうちに発見されたのかって? さあな、 その辺りの事情含めて現在捜査中だ。 まあ管理人については此方で調べるつもりなんだが、 明石先生には遺体を見て貰いたくてね」
「? 司法解剖はもう、 済んでいるはずでは?」
再解剖というのもあり得ない話ではないにしろ、 わざわざ管轄外の明石に持ってくるような話でもあるまい。
小首を傾げる明石に、 川下は苦笑い混じりにその真意を告げた。
「解剖をしてほしいっていうわけじゃないんだ。 俺が、 解剖結果をもう一度明石先生に見て貰った上で、 先生の意見が聞きたいんだ」
「……成程」
つまり、 これは捜査本部の意向ではなく、 川下個人の意向というわけか。
明石は改めて眼前の男を見返した。
日本人らしい黒緑の髪は勤め人にしてはやや長めの襟足で首元を覆い、中肉中背ではあるが、 襟元から覗く首は太く、 肩幅も広い。 銀フレーム越しに見える目つきは警官というよりはインテリヤクザのような、 鋭く抜け目のない風で、 眉間に寄っている皺は最早トレードマークに近いだろう。 薄く歪んだ口元は一見酷薄そうで、 そこから紡がれる声も淡々としているが、 よくよく話せば理性的で機知に富んでいるのだから、 下手に愛想の良い人間よりも余程好ましいように思えた。
やや捻くれているところはあるが、 真面目でストイックな仕事人間。
そんな川下がわざわざ明石にこの話を持って寄越したということは、 十中八九何か不可解なことがあるに違いないのだ。 ただしそれは、 追及するには余りにも曖昧で、 一見して取るに足らないようにも見える何かが。
しかし川下は、 己が感じた違和感を明石に語ろうとはしなかった。
先入観を植え付けないためなのかもしれないし、 或いは彼も言葉に出来るほど明確には捉えられていないのかもしれなかった。
ただ、 何となく腑に落ちない。
刑事と法医学者という分野の違いこそあれど、 そういう感覚は明石にも覚えがある。 嗅覚、 と呼ぶには烏滸がましいやもしれなかったが、 こういう仕事を長く続けていると、 自然と備わってくる直観のようなものがあるは確かに事実なのだ。
犯罪者にも或いは――明石は灰色に囲われたオリーブ色の瞳を思い返し、 つい零れそうになった嘆息を押しとどめる。
どう転ぶにしろ、 厄介な案件には変わりない。
明石はけれど、 否の言葉は吐けぬまま、 今日のうちにでも必ず資料を読み込むことを川下に約束したのだった。
***
「――それが、 アンタが珍しく日を置かずに俺に会いに来た理由?」
周は淡々とした口調で、 けれどあからさまに不機嫌そうな面持ちでそう言った。
管轄外の事件を携えてきた理由を尋ねてきたから、 簡単に経緯を説明したのに、 川下の名前を聞いた途端目に見えて彼の機嫌が急降下していったのに、 二人の犬猿を思い出し、 何度説明の口を閉じようと思ったかしれない。
けれど周はその度に無言で先を促してきたのだから、 矢張り彼の思考は良く分からない――不愉快ならば聞かなければいいのに、 とは言えず、 明石は彼の問いに大人しく頷いた。
「一週間も立たないうちに来てくれたんだ。 アンタが俺のことを恋しがってくれたのだと思ったんだけど、 とんだ期待外れだよ」
「……あり得ないでしょう」
不貞腐れたように続けた周に、 明石は反射的にそう返した。
彼の言う通り、 明石が周の元を訪れる頻度はそう高い方ではない。
二、 三週間に一度、 仕事の状況次第では一か月近く間が空くこともある――大体その辺りになると彼から催促の連絡が来るのだから、 まだ一か月を超えたことはないのだけれど。
周に会いに来るのは明石にとって義務に過ぎない。
求められて、 応じなければならなかった――ただ、 それだけの話。
彼が幾ら事件解明に助力したところでそれは変わらない。 変わるはずがない。
明石は努めて冷たい声で彼に告げる。
「貴方だって、 私から情を向けられると思うほど楽観的ではないでしょう?」
「アンタは時折驚くほど愚かしいからね。 そのうち、 俺に向ける憐憫に流されるかもしれないだろう?」
周はそう言いながらも、 さして期待はしていないと言わんばかりに宙を仰いで、 デスクチェアにだらしなく体を預けた。
まあそれはいい、 とその格好のまま周は明石に視線を投げる。
「見つかった? その違和感っていうのは」
「――ええ、 まあ」
明石はそう言いながら、 彼に渡した資料を示す。
「被害者の傷口を――くれぐれも資料は破り捨てないよう」
予め明石がそう言い添えると、 彼は少し面食らった風にページを捲る指先を止めた。
分かっているというように肩をすくめる割に、 何時もより幾分も慎重な手つきで紙束を扱っているのに、 胸のすく思いで明石で口元を緩める。
周は資料に視線を落としたまま、 明石に尋ねた。
「こういう場合、 普通、 明石ならどうやってその殺人犯を特定するんだい?」
「――被害者と加害者の候補が明らかになっていますから、 創の位置や創口、 創洞の角度などを観察し、 ペアリングをします」
「A~Dの人物がいるとして、 ペアは6通りか――まあでも、 生きている人間がいるからね」
周は察したように言うのに、 明石は説明の手間が省けたと口を噤む。
結果的がどうであれ、 四人は死ぬつもりで深々とお互いを差し合った。 当然縫合で済むような浅い傷でもなく、 内臓を深く傷つけている者や出血の激しい者もいた。
つまり緊急手術の適応であって、 そういう場合刃物が刺さった創を延長するようにメスを入れるのが一般的で効率的なのだ。 故に彼らの創の観察はほぼ無意味なのである。
尤もそうでなかったとしても、 幾ら捜査のためとはいえ、 生者の創に器材を差し込むような真似は人道的に出来るわけもないのだが。
それにしても良く知っているものだ、 と感心というよりは呆れに近い感情が沸き上がる。
「殺す術を知るためには、 生かす術も知らないと」
明石の内心など手に取るように分かっているのだろう。
言葉にも表情にも出していなかったはずの疑問があっさりと返されることに、 最早諦観の念しか浮かばない。
押し黙る明石をよそに、 周がさらに言葉を続けた。
「生き残りがいるにしろ、 本来遺体の傷口を見れば、 何かしらの辺りもつけられるんだろうけれど――確かに、 これは厳しそうだ」
周はそう言って、 指先で紙をはじく。
丁度被害者の刺創の写真が載っている辺りだろう。
その創口は不整形に荒く、 刺した後、 何度か包丁を上下させたようだった。 これでは判断の仕様がない。
「つまり、 手詰まりというわけだ――それで、 明石の感じた違和感というのはこの被害者の傷口のこと?」
ええ、 と頷きながら明石は下唇をなぞる。
彼らは互いを互いで刺しあったのだ。 その瞬間に多少のずれこそあれ、 深々と刺さった刃は酷い痛みを彼らに与えたはずで――刺した相手の息の根を完全に止めるかのように、 刃で内臓を搔き乱す猶予などなかったに違いない。
周は、 ふむ、 と少し考え込むように首を横に傾ける。
一瞬の間をあけて、 そういえば、 と彼は明石に問いかけた。
「一人を除き、 彼らが助かったのは結局どういう事情だったの?」
「ああ、 被害者の実姉の方が――妹の様子が可笑しいと、 彼女をつけていたみたいで。 暫く外で様子をうかがって、 我慢出来ずに中に入ったところ、 倒れている四人を見つけて、 通報したとか」
「はは、 何それ。 それなのに、 一番助けたかったはずの人間が死んでしまったってこと?」
とんだ茶番だ、 と鼻で笑う周を咎めるように明石は眉を寄せる。
彼に一般的な感性を求めるつもりこそないが、 だとしてもその言い様は余りにも不快だ。
けれど明石の様子を気に掛ける様子もなく、 周は平然とさらに疑問を重ねる。
「管理人、 とやらは? 会ってないの?」
「……其れらしき人間を見ていないようですが、 それよりも」
「言いたいことは分かるが、 感傷は時間の無駄だ」
苦言を呈そうとする明石を、 周はやけに色の薄い声で遮った。
「真に心痛を寄せるべきは故人であって、 その姉は無関係だろう」
「姉君への敬意は、その中にいる故人への敬意に通じます」
「――どうだろうね」
呟くような声量と共に、 周の目は明石を通り越して、 もっと向こうの遠くを見ているかのように細められた。
急に二人を隔てる分厚いガラスが存在感を増したような錯覚に囚われる。
まるで画面越しに見ているような。 周の存在感が急激に離れて、 眼前の彼がまるで虚像のように映る。
咄嗟に彼に呼びかけようとして、 明石は言葉に詰まる。
どう呼べばいいのだろうと、 今更に。
明石が周の名を呼んだのは初めて此処を訪れた一度きり。 それも彼が軒端周であることを確認するためだけに。
そう短くはない時間を過ごしたはずであったが、 心ならずも第三者が介入しえない環境であったから、 何時も二人称だけで事足りた。
それに彼は大方饒舌であったし、 明石の存在を忘れたかのように沈黙し、 物思いに耽ることもなかったのだから、 必然彼の意識を此方に向けるような呼びかけもしたことがない。
傍から見れば些末なことを愚考しているようであったが、 一度気になってしまえばそうともいかない。
彼を、 犯罪者というカテゴリーのみで分類していた。 それだけで事足りる関係であって、 それ以上の深入りは足元を掬われる。
だから彼に、 犯罪者としてではなく、 対話している一人の人間として呼びかけることに躊躇するのだ。
自ら定めた境界に阻まれているような現状が、 我ながら愚かしいと明石は自嘲を零す。
さりとて明石は何も定まらぬまま、 暫くして不意に周の視線が対面する明石にぴたりと定まった。
「――ごめん、 どのくらいアンタをほったらかした?」
「そう長いほどでは」
明石は先延ばしに出来た決断に安堵して、 少し乾いた口で周に答える。
周はまだ先ほどの余韻を残したような霞がかった双眸を細め、 彼にしては随分と薄弱な声で言った。
「少し、昔を思い出していたんだ」
「……そうですか」
「どんなことか、 訊かないの?」
素っ気なく首肯する明石に、 周が不思議そうに尋ねた。
「別段訊かずとも」
話したければ勝手に話すだろうし、 話したくなければ明石が尋ねたところで彼は口を噤む。
そう言外に匂わせ、 言葉少なに応対した明石に周は何時も通りの調子で薄く笑った。
「先に、 事件の話をしようか――管理人のコートと仮面は部屋の隅で焼かれていたらしいけど」
矢張り話の主導権は何時でも彼の元にある。
急に切り替えられた話題に、 けれど明石は不満を抱くこともなく――そもそも、 此方が目的なのだから――ええ、 と軽く頷いた。
「個人を特定されないためでしょう。 直接手を下していないとはいえ、 確実に罪には問われますから」
「だろうね。 ともすると管理人が彼らの死を見届けることなく立ち去ったのは、 被害者の姉の存在に気が付いたから、 と考えるのが普通かな」
「恐らくは」
川下が帰った後に明石も資料を読み込んで、 そのように判断した。
しかし、それだと少々奇妙なことになる、 と明石は同時に眉を寄せた。
川下にそのことを尋ねたとき、 彼は確かに 「さあな」 と言ったのだ。
つまり――
「川下はそれでは納得してないんだろう?」
「……ええ。 どうして?」
どうして分かったのか、 どうして納得出来ないのか、 二つの意味を含めた明石の疑問符を、 周は一笑に付した。
「川下は刑事で、 俺は殺人犯だから」
「つまり、 犯罪のプロだと?」
「そう、 優秀な。 だから俺達は疑問に思うよ。 その管理人が本当に確実な死を見届け、 それを遂行してきたならば、 邪魔者のいなし方も最初から計算に入れているはずだ、 と」
周の言葉に成程と合点がいく一方で、 だとしたら殊更不可思議な話だと唇を指先でなぞる。
想定出来る可能性は三つ。
前評判自体が偽りだった可能性、 管理人の想定以上の状況であった可能性、 そして、 そもそも今回の自殺を完遂させるつもりがなかった可能性。
そう考えながら、 川下が明石に此の事件を持ち込んだ理由を悟る。
彼は其処まで理解していて、 それでも事の真相にまだ辿り着けていない――でも、 軒端周なら。
「貴方なら、 分かりますか?」
「ああ」
明石の問に、 周は至極あっさりと頷いた。
「アゲハの疑問も、 川下の疑問も全て――後者は不本意だが、 まあ致し方ない。 アンタのために、 語ろうか」