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背徳の徒花  作者: 六条藍
7/12

7:二つの死因(後編)

前編での事件内容を一部改変・追加しております。ご了承ください。

 周は一枚一枚紙を破り捨てながら再度資料にざっと目を通し、それから椅子ごと身体を防弾ガラスのきわまで寄せた。 キャスターが床に落ちた資料を轢くのに気をとられて、 明石は無意識に眉根を寄せた。

 周の口元が愉快そうに歪む。


「言っておきますが、 その資料は」

「回収しなければいけないから、 ちゃんと拾え――って? 分かってるよ、 大丈夫。」


 周が下ろす素足がそう言いながら、 資料の一枚を踏みつける。

 態となのか、 無意識なのか。 どちらにしても、 感覚が鈍い足裏とはいえ当然感じているであろう紙の感覚に足を退ける様子はないのだから、 現時点で彼が明石をおちょくっていることは分かりきった現実だ。

 更に言葉を重ねることへの無意味さを痛感しつつも、 明石はそれで? と彼に先を促した。

 周は資料の一枚を、 器用に足先で摘み上げながら口を開く。


「まず一番に考えなければならないのは、 なぜテトロドトキシンが使用されたかという点だ。 警察は、 犯行時刻と死亡時刻を誤魔化すためと結論付けているようだけれど、 そもそも毒物が判明した時点で、 摂取から死に至るまでの時間はおおよそ検討がつくのだから、 どうにも間が抜けている」

「――全体的に間が抜けているでしょう、 この被疑者は」

「ああ、全くだ。 俺なら自分のティーカップにも毒を入れるし、 容器は現場に残すだろうね。 毒は飲まなければいいだけの話だし、 その言い訳は彼がしたので十分筋が通っている。 そうした方が余程無理心中のように見えて、 疑いが向きにくい」


 では何故そうしなかったのか。

 How ではなく why だと常々彼が言うように、 明石は彼の回答を尋ねる前に、 唇を指先でなぞりながら反射的に思考を巡らせた。

 そしてそんな己に気が付いて、 はっと我に返るように彼を見やった明石に、 周は口角を釣り上げた。

 元々明石は何かを考えることは嫌いではない。

 推理小説などは寧ろ好んで読んでいるし、 作中にちりばめられたヒントを拾いながら真相を組み立て、 犯人を突き止めるのは、 素直に楽しいと感じる。 けれどもそれは一見実行不可能なように見えるトリックを解き明かしていくような、 どうやって犯人が被害者を殺したのかというような、 そういった方法論の模索だ。

 周がするような、 まるで犯人に成り代わったかのように思考を巡らせる推理は、 少しずつ明石を深淵に誘っていくように思えるのだから、 苦手というよりは寧ろ嫌忌している――その、 はずである。

 毒されている、 と思うのは今に始まったことではない。 だからこそ明石は気を張って、 常に一線を引き続けているのだ。 しかし、 彼とこうして話す回数を重ねるにつれて、 着実に彼の毒は明石を蝕んでいっているのだから、 きっとその一線は周にとっては無いに等しい。

 今すぐ此処から立ち去って、 彼と彼に関わる全てを忘れ去ってしまいたい衝動に駆られながらも、 それを実行に移さないのは、 明石のささやかな矜持と愚かな自己愛故だ。

 続きを、 と小さな声で促した明石に周はさらに笑みを深めた。


「続きも何もアンタが最初に考えていたのが答えだよ」

「私が、 ですか?」


 明石は小首を傾げる。


「そう。 警察の見解を聞く前に、 物的証拠を知る前に、 そもそもアンタが一番最初にこの事件に思った疑問点」

「――何故、 毒物を摂取した上で、 胸を刺すような自殺方法をしたか。つまり……貴方は彼女が望んで毒を呷ったと?」


 一瞬の間をおいて呟いた明石がそう尋ねたにも関わらず、 周は次いでまるで関係のないような話題を口にした。


「この国では現在、 異状死の解剖率は大よそ10パーセント前後だとも言われている」


 異状死とは、確実に診断された内因性疾患で死亡したことが明らかである死体以外の全ての死体――と日本法医学会によって定義されている。

 明らかな他殺死体はもちろんのこと、 事故・自殺あるいは病死が疑われるような死体であっても、 その要因が医師による診断された疾患以外のものでなければすべて異状死とされるのが現日本での区分である。

 基本的に、 異状死は全例解剖され、 その原因を追及することが望ましい理想論だ。 しかし死体解剖を担当する法医学者の数が圧倒的に少ないという一面もあり、 多くの異状死体は外表から死体を観察する死体検案で済まされることが多いのが現状だ。

 由々しき事態ではあるが、 それが一体どうして今、 話題に上るのか。

 不可解な表情を隠しきれずにいる明石を尻目に、 周はさらに言葉を繋いだ。


「もし彼女が毒物を飲んだだけで自殺としよう。 テトロドトキシンなんかじゃない、 もっと自殺に適したような毒物だ。 一見して明らかな自殺。 死体検案だけ――まあ、 尿検査で毒物の有無ぐらいは調べるだろうけれど――で済まされてしまうかもしれないし、 或いは念のための解剖に回される可能性もある。 不確定なうえ、 どちらにしても彼女の死はただの"自殺"として処理されるだろうね」

「ええ、まあ」


 そうなるだろう、 と明石は特に反論することもなく頷いた。


「ではもし、 今回みたいに胸に包丁がささっていたら?」

「確実に司法解剖が行われます」


 現にそうなったがゆえに、 明石のところに彼女の遺体がやってきたのだ。 疑う余地もないというように明石は間髪入れずにそう答える。


「司法解剖をすれば、 明石みたいに死因究明に心血を注ぐ法医学者が死体の隅から隅まで調べるだろう。もし胸を刺しただけなら、 それもただの"自殺"として処理される。 しかしその過程で毒物が検出されれば、 当然それは警察の注意を引くだろうね。 特にテトロドトキシンなんていう毒物が検出されれば、 尚さらに」

「――彼女が胸を刺したことが直接の死因であるにしても、 その経緯に他者の殺意が疑われる可能性がある」

「そう、 正しく。 今のように」


 周はそう言うと、 心底くだらないというように鼻で嗤ってみせた。


「馬鹿らしい計画だよ。 彼女は自分を捨てる男が許せなかった。 自分を捨てた男に罰を与えたかった。 ただの自殺では事足りない、 無理心中では自分が加害者になってしまう。 自分は被害者で、 彼が加害者であるとそんな風に訴えたかったのかもしれないし、 或いは彼に自分を捨てた罰を与えたかったのかもしれない。 だから自分で自分に毒を盛り、 毒の容器を隙を見て彼のポケットに忍ばせた。 指紋を拭き取ったのは彼女が彼女の指紋を消すため。 男の指紋なんて、 最初からつくはずがない」

「――何かそれを証明する証拠は?」

「さあね。 毒の入手経路を調べてもいいとは思うけど、 まあ予想するにインターネットだろうしね。 恋人同士だったんだろう? お互い合鍵を持っていたと仮定すれば、 パソコンの履歴なんてものは真の意味では証拠にならない。 ただまあ、 被害者がその日に限って騒がず、 静かに別れ話を受け入れたというのだから、 その時すでに彼女は覚悟を決めていたのだと思うよ。 証拠、 というには余りにも脆弱だが」


 そう言いながら周は淡い嘆息を口から零した。


「こういう愛憎劇は全く理解に苦しむよ」


 周はそう言ってゆっくりと首を横に振り、 それから明石にぴたりと視線を合わせた。

 オリーブ色の瞳が、 何かを思いついたかのように僅かに光る。


「アンタには理解出来る?」

「――どうでしょう」


 明石はそう言いながら、 指先で唇をなぞる。

 テトロドトキシンは解毒剤のない毒物ではあるが、 早いうちに治療を受ければ死に至ることは少ない。

 彼女は或いは最後まで希望を捨てきれなかったのかもしれなかった。 彼が自分の元に戻ってきてくれることを。 毒を呷って、 愛を吐き、 死に至るまでの数時間にかけたのかもしれなかった。 彼が出て行ったドアを見つめて、 再びそのドアが開かれることを待ち続けて。 タイムリミットまでに彼が戻ってきてくれれば、治療を受けて、 生き続ければいい。 そうすれば彼の衣服に紛れ込ませた小さな容器のことなどきっと問題にもならないはずだから――けれど、 それが叶わないと悟った瞬間に抱いたのは――、


「彼女が抱いたのが絶望であったなら、 或いは」

「絶望?」

「深い絶望の前では、 一分一秒でも生きているのは辛いですから」


 彼に対する憎悪はあったのだろう。 彼が罰を受ければいいとも思ったのだろう。 しかし何よりも彼女の胸に刃を突き立てたのは、 きっと愛を失ったことへの絶望だったのかもしれないと。

 そう語る明石の言葉に、 周は矢張り理解しがたいという風に首を横に振った。


「確定的な証拠の無いものほど、 厄介なものはない」

「貴方が解き明かすものはそういうものばかりでしょう」


 だからこそ、 何時も明石は惑うのだ。

 納得しがたい事実の並び順を真実とは断じ難く、 周に知恵を求めたところで、 さりとてただ収まりが良いからというだけで真実とは言い難い。

 明石の言葉に周はゆるり、 と首を横に振った。


「事件の話ではなくて」

「――人の感情の?」

「惜しい、 人の愛情だ」


 周はそう言いながら一瞬だけ、 寂寞せきばく諦観ていかんを混ぜ合わせたような奇妙な面持ちを浮かべた。


「他者からの愛情ほど確定的な証拠がないものはないというのに、 人はすぐにそれに縋る」

「……言葉や行動は、 証拠になりませんか」

「そんなものは幾らでも偽れるからね」


 周は肩をすくめる。

 そもそも愛情などというものは、 証拠を積み上げて示すものではなく、 受け手が自然と感じ取るものであろうに。 彼にとっては、 そんな抽象的なものなどきっと存在を認めるにも値しないのかもしれなかった。

 哀れだ、 と明石は何度目かも知れないそんな感情を彼に抱く。

 牢獄に閉じ込められ、 外界と遮断され、 僅かな機械音と自分の吐息だけが響く世界でただ死を待つ彼の姿を明石は一度も哀れだと思ったことはなかった。 彼はそうされるに相応しい罪を犯したのだから、 それは致し方のないことだと冷めた心で思う。

 けれども会話の節々に滲む、 彼の常人を逸脱した人間性には憐憫を禁じ得ない。

 それが先天的なものなのか、 或いは後天的なものなのかまでは断じられないにしても、 きっと "そういう風" にしか生きられなかったからこそ、 この現状があるに違いないのだから。

 明石はそんな同情めいた感傷を表に出すなどという愚行こそ犯さなかったが、 けれど彼は気が付いているに違いないと漠然と思った。

 周が押し黙る明石を真っ直ぐに見つめて、 淡く笑う。


「だから俺は、 アンタが仮に俺を愛していると言ったところで何も感じない」

「そうでしょうね」


 そんな虚言に、 彼が納得しうる根拠も証拠もありはしないのだから。

 当たり前だと言わんばかりに頷く明石に、 周が首を横に振る。


「分かってないな、 そこは恐れるところだ。 俺がアンタに向ける愛情は、 アンタ自身ですら揺り動かせないってことなのだから――ねぇ、 アゲハ。 愛してるよ。」


 まるで自分の感情には何の証拠もいらないとばかりに、 彼はただ平坦な声でそう言った。

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