3:死体なき殺人事件(前編)
「もし、 目の前に悪魔が現れたらアンタはどうする?」
高い天井に吊された照明のみが唯一の光源にも関わらず、 軒端 周のいる地下牢からはいやというほど煌々と明かりに溢れて、 漏れ出した光の残滓が明石 蝶の居る薄暗い廊下にまで浸食していた。
廊下の壁に立てかけられているパイプ椅子を自力で開いて座るやいなや、 始まった周のお遊びに明石は僅かな溜息を零す。
例の如く拒否することは出来ない。 明石は不承不承口を開いた。
「逃げます」
今回は考えるまでもない。 ほぼ即答で言い切った明石に、 周が眠たげな目を微かに見開いた。
「……アンタって自分の臆病さを臆面もなく言ってのけるよね」
「見栄を張る必要性はないので」
明石は確かに周の言う通りの臆病者であって、 例えばなんてことない夜道を歩くことにだって怯えるし、 他人からの視線にも恐怖を感じる。 視線恐怖症というわけではあるまいが、 他者からみた己の像に悪意が混じるのが怖ろしい。 そうしたものが何時か寄せ集まって、 明石や明石の大切なものを害してしまうことを憂慮する。
己が臆病であることを自覚しているからこそ、 明石は己の直感を常に信じていた。 その直感が警告を鳴らすような事柄には極力近づかず、 距離を保って。
「――だからもし出来ることなら、 本当は今すぐにだって此処から逃げ出したいと思ってます」
「またアンタはそういう捻くれたことを言うんだ。 まるで俺が悪魔みたいじゃないか」
「私は常々そう思っていますが」
明石がにべもなく言うと、 周は僅かに肩をすくめた。 やけに彼の板についたこの手の素振りを見ると、 明石は必ず周の出自を思い出す。
尤も明石の知っている情報など、 父方の祖父がロシア人であったことや、 両親は既に他界しており、 現在の唯一の身内は五つ年下の弟であることぐらいなのだが――此処まで考えて明石は彼の子供時代を想像しようとして、 断念する。
――出来ない。
明石が彼を悪魔と称したのは、 何も彼の所業をのみを言い表しているのではない。 様々なものに執着する素振りを見せながらも、 彼はその他の点でまるっきり生身の人間らしさに欠ける。 作り物のような端整な顔立ちは元より、 浮かべる表情はまるで人間らしい温かみを持たない。
笑わないわけではない。 常に今のような気怠さだけを全面に押し出しているわけではない。 しかしそこから人情味など感じられたことがない。 何時も人が奥底に抱える澱のような負を、 寄せ集めて形作ったそんな暗い色を彼はしていた。
そういう訳であったので、 当然純朴な子供時代など想像出来るわけもなく、 或いはそれを生来のものとするならば彼は正しく生まれながらにしての悪魔に違いない。
おもむろに周が言った。
「俺は間違いなく人間だよ。 それに、 知ってる? 悪魔というのは元天使だ」
「――そうでした。 貴方を悪魔と言ったのは悪魔に失礼でしたね。 すみません」
皮肉を込めて慇懃に頭を下げると、 周は何も言わずに首を横に振った。
悪魔ですら元々は正しき天使だというのなら、 生まれながらにしての悪を内包している彼をなんと呼べばいいのだろう。
そもそも悪とは一体何か。 何故明石は周を悪と断じているのか。 その根拠を探る思考の終着地点はきっと随分と遠くにあるに違いない。 少なくとも周との会話――否、腹の探り合いの片手間に出来ることではないと明石は早々に思考を打ち止め、 眼前の危険に集中した。
「それにしてもアンタは、 随分と勿体ないことをするんだね。 悪魔の中には、 礼節を持って接すれば知恵を与えてくれる者もいるんだよ」
「礼節、 ですか」
明石は微妙そうな表情を浮かべた。
思い浮かべる悪魔像と礼節はまるで真逆に位置しているせいか、 どうにもしっくり来ない。
首を捻る明石に、 周がさらに言葉を繋ぐ。
「まるで俺達のようだと思わない? アンタは礼節を持って俺に接し、 俺の望みを叶えている。 俺はそれに応えるためにアンタに知恵を渡す」
「唯一の相違点は、 どちらも人間であるということ――ですか」
「そう。 悪魔より余程邪悪な人間と、 悪魔を召還するには臆病過ぎる人間」
周はそう言うと、 前回の物とは違う背もたれの無いキャスター付きの椅子を引き摺って、 ガラス越しに明石に近づいた。
絶対的な壁に阻まれているにも関わらず、 こうして間近で見る彼に明石は何時も身の竦む思いをする。
悪魔よりも余程悪魔らしい剣呑な瞳が、 そうして明石を貫いた。
「だから今日もアンタに知恵を与えよう。 臆病なアンタが必死に自分を奮い立たせて、 今日も俺の前に座る――俺からのささやかなご褒美だよ、 アゲハ」
***
お遊びに満足したらしい周から本題に移る許しを得た明石は、 先立って準備していた通りに話を進めるべく居住まいを正した。
「貴方にこのようなことを言うのも釈迦に説法――いえ、 河童に水練だとは思いますが、 もし完全殺人を実行したいならば、 その最良たる手段は死体を発見させないことです」
明石は例えの中でさえ、 周を釈迦とすることに抵抗感を感じてわざわざそう言い直す。
「その通りだ」
周は明石の言動を指摘することはせず、 ただ詰まらなそうな表情を浮かべて頷いた。
気怠げなオリーブ色の瞳はガラスを通り越し、 明石の後ろにそびえる灰色のコンクリートを見つめている。
本当に聞いているのか定かでない様子ではあったが、 明石は確実に周の耳に言葉が届いていることを知っていて、 構わずに話を続けた。
「被害者と思われる人物は20代女性。 一週間ほど前から急に大学に来なくなり、 連絡もつかなくなったのを不審に思った友人が、 一人暮らしをしている彼女の家を訪ねてみると其処はもぬけの空でした。 慌てて友人は警察に連絡したようですが、 その時点では家出だろうということでまとも取り合って貰えなかったようです」
「約9万人」
「……はい?」
「警察が発表している一年間の行方不明者数だよ。 でもそのほとんどが年内に所在を確認されている。 統計から考えても、 その警察の判断が間違っているとは思わないけど?」
周は犯罪者の割には、 警察という組織に好意的な男である。 以前、 自らを捕まえた彼らに恨み辛みはないのかと明石は尋ねたことがあった。
『俺は俺の、 彼らは彼らのするべきことをしただけだ』
周はそう言って、 何の感慨も抱いていなさそうな透明な瞳を明石に向けた。
その時のことを思い出しながら、明石は「彼らを責めているわけではありません」と首を横に振る。
「ただそうして何の事件性もないと判断されたはずにも関わらず、 彼女の失踪は殺人事件を疑われるまでに発展した。 そのことを説明したいだけです」
「つまりその後に何らかの進展があった」
「――警察に駆け込んだ友人の元に、 指が届いたんです」
指? と周の片眉が跳ね上がり、 彼は愉快そうな口振りで悪質な喜悦を表した。
明石はゆっくりと頷いて、 食事の挿入口から一枚の紙を彼に差し出す。
其処には切断されたら指の写真と、 その指に関する諸々の検査結果が記載されていた。
「指先からPIP関節――つまり第二関節まで。 形状から見て左手の人差し指と推察。 DNA鑑定の結果、 被害者のものと断定されました」
「どうやって届いたの?」
「友人曰く、 封筒に入って郵便受けに。 封筒には宛名などが書かれていませんでしたから、 恐らく直接届けたのかと」
「生活反応は――なしか」
その言葉に、 明石は押し黙った。
生活反応とは、 遺体の傷や切断面になどに見られる生理的な徴候の総称である。 その傷が死後にのものか、 生存中のものか、 致命傷を探る意味も含めて法医学において非常に重要な要素を含む。
こと切断面になると、 生活反応を探ることは通常の傷よりも多少難しくはなるが、 明石は主に創の形状や、 ヒスタミン・白血球などの浸潤の有無、 切断面からの出血の程度を含めて恐らく死後の切断と判断した。
つまり被害者はただ姿を消したのではなく、 死んでいる――まだ随分と若いのに、 と明石は淡く沈鬱を零した。
「何故子供や年若い人間が死ぬと皆、 まるで図ったよう "可哀想に" って言うのかな。 死は誰にとっても等しく訪れるもので、 年齢によってその価値が変化するわけでもないだろうに」
ぼんやりと呟く周の表情には幾許の感情も浮かばず、 ただ純粋な疑問符のみが全面に押し出されている。
周は論理的な、 あまりにも論理的な男であった。
彼は様々な事象をある原因の結果として位置づけ、 彼自身を動かす感情ですらも何らかの原因による結果の発露でしかない――と思っている。
ただ悲しく思うから悲しむ、 ただ苦しいから苦しむのではなく、 どうしてそのように思うのかという理由まで突き詰めなければ感情を動かすことができない。
偏屈を通り越して時折哀れにすら感じるその様に、 明石は一つの理由を差し出した。
「彼らに残されていたはずの時間を思うからですよ。 誰もが普通に体験するはずだった人生の様々を全て失って、 彼らの時はもう進むことがない。 そんな事実を悼むんです」
「成る程? 死そのものではなく、 それによって失われたものへの憐憫か。 だとするならば、 より満足感のある人生を送っている人間ほどその想いは強くなるんだろうね」
「つまり?」
「アゲハがそれを悲しんで、 俺がそれを悲しめない理由に納得した」
俺はそう良い人生じゃないし、 と付け加えた周は表情は1ミリも動かさなかった。
なんてことないといった素振りを見せる割に、 その言葉は物憂げな響きで明石の耳朶を撫でる。
思わず目を丸くした明石をよそに、 「それで?」 と周は先を促した。
明石は慌てて話を続ける。
「警察は彼女が何らかの事件に巻き込まれ死亡した疑いが強いとして、 県外に住んでいた両親に特異行方不明者の届け出を提出させました」
「――成る程、 死体なき殺人事件、 か。 フレーズはミステリアスで面白いけど、 俺の出る幕じゃない気がするな。 爪の間から組織片が見つかっているよね」
「被害者に付きまとっていたらしい男性のものと判明しています。 元交際相手だったようですが、 今はもうほぼストーカーに成り果てているとか」
「理解出来ない人種だな」
周はそう言うと、 薄い資料をぐちゃぐちゃに丸めて遠くに放り投げようとした。
が、 途中でそれを追う明石の視線に気がついたらしい。 少し面倒くさそうに丸めたままの紙を狭い挿入口に突っ込んだ。
「理解は出来ないがデータはある。 ストーカーが最終的に対象者を殺害するまでに至ることは珍しくない。 本当の真偽は兎も角として、 形は整っているように思うけど?」
彼の声を上に聞きつつ、 狭い空間に詰まった紙を必死に取り出した明石は丁寧にそれを伸ばしながら頷いた。
「はい。 被害者が行方をくらました直前にストーカーと二人で路上で喧嘩をしていたという目撃証言もあります」
「ふぅん――それで? アンタが気になっているのは指が届けられたこと? それとも指を切られ方?」
「……両方です」
紙を撫でる明石の手が止まる。
時折、 周は人の心を覗き込めるのではないかと思うときがある。
極力表に出していないはずの感情変化は元より、 内心の思考すらも彼は余りなく拾い上げて先を読む。
聡明という言葉では表現しきれない鬼才をこういう場面では頼りに思う一方で、 明石は矢張り彼に対する恐怖心を拭いきれない。
さりとてそんな心内を表に出すわけにもいかず、 明石は出来得る限り声色を冷静に保った。
「指が届けられなければ、 誰も被害者の死を疑うことはしなかった。 大した捜索もされずに、 そのうち失踪宣告すら出されたはずです。 死体が発見されない限り、 殺人はそもそも露呈しない」
「それをわざわざ死体があることを教える犯人はいない……か」
「ええ。 それに――切られ方自体にも少し違和感が」
明石はそう言いながら、 ぐちゃぐちゃになった写真を伸ばすように何度か手で撫でると、 椅子から立ち上がってそれを防弾ガラスの前に押しつけた。
「断面を見て下さい。 まるで切るときに指が回転したかのように、 皮膚が少しよれているのがわかりますか?」
「……? ああ、 言われないと気がつかないけれど」
「切断された指というのは何度も見たことがありますが、 こんな風に切れているのは初めてです」
どのような形で切るにしても指は手に固定されている。 まずもって切る最中に指がぐるぐる回転するわけがない。 切断した刃物自体が回転していた可能性も考慮したが、 他の所見から見てそれも考えにくい。
周が僅かに首を傾ける。
「それで、アゲハはどう思ってるの?」
「明石ですが――指は二度、 切られたのではないかと思いました。 一度目は根本から。 二度目は第二関節で。 関節部分を狙ったとはいえ、 切断の際はそれなりの抵抗があります。 手に固定されていない指ならば回転してもおかしくありません」
「それに切断した指を更に切断しているのなら、 断面に生活反応がないのも当然だ」
後を続けた周に明石はこくり、と頷いた。
ならば極々僅かな可能性ではあるが、 被害者はまだ生存している――かもしれない。
望み薄とは知りながら、 それでもその可能性を無視出来ない。 それが明石が今日、 周にこの事件について話した由縁であった。
警察が目下全力で彼女を追っているが、 まだ消息は杳として知れない。 不可解な点が幾つもあるこの事件を、 彼ならばひょっとして解き明かしてその行方すら見当をつけることが出来るのではないか。
深淵を覗く者ではなく、 深淵そのものとして。
周が尋ねた。
「それでそのストーカーは、今重要参考人として拘留中?」
「ええ」
「取り調べでは何て言ってるの?」
「私が聞いた限りでは、 路上で言い争いをした結果、 被害者に腕を引っ掻かれたのは事実だそうです。 でもその後被害者が近くに住んでいる男友達を呼んで、 その男性と揉めている間に彼女が何処かに消えてしまったと」
へぇ、と相槌を打った周の瞳はまるで、 獲物を見つけた獣のような色を浮かべた。