11:誰がための殺人(前編)
「もし自分と誰か、 何方か一人しか助からない状況ならアンタはどうする?」
三寒四温へと季節が移り、 冷たい風の隙間に近い春の気配を感じるようになった。
変わっていく世界の中で取り残されたように変わらないまま存在している軒端 周が、 また変わらぬ例え話を出会い頭に持ち出してきたのに、 明石 蝶は小さく嘆息した。
一体どんな環境にあれば、 そんな状況に成り得るのかは思考の範囲外とせねばならない。
明石はただその状況を出来得る限りリアルに想像して、 その中でこの男が望むが儘、 自分が思うが儘の答えを差し出すしかないのだ。
「――もう一人の誰かが、 どんな人間かによるでしょうね」
「世間にとって?」
「いえ、 私にとって」
周は無言で僅かに首を傾げる。 其れだけの行為ではあったが、 明石にはそれがこれだけの回答では満足していないという意味なのだと容易に察しがついた。
何時だったか、 それが分からない振りをして無言を貫いたこともあったが、 そうするとただただ沈黙が続くばかりであって、 無駄時間が浪費されているだけだと早々に諦めたのが最早懐かしい。
明石は言った。
「私にとって、 見知らぬ相手なら、 或いは然したる感情を持ちえない相手なら、 悩まず私はもう一人を助けます」
「アンタらしい自己犠牲にも聞こえるが――どうなんだろうね」
穿つような周の視線に、 明石は曖昧に口角だけを上げる。
明石の自己犠牲は自己愛の一つであって、 それは自己が存在していなければそもそも意味が無い。
きっと周はそれに気が付いているに違いないのに、 彼は含みのある物言いをしただけで、 深く追及せずに言葉を繋いだ。
「それで? もしアンタにとって親しい或いは大切な人間であったら?」
「――もう答えは分かっているのでは?」
「憶測はあくまで憶測さ。 それが幾ら確信に近くとも、 答え合わせをしなければ本物にはならないだろう?」
彼は明石を守りたいのだという。 自分の目の届く範囲において、 自分の手が伸びる中に呼び寄せることで明石を守っているのだという。
けれどこうして彼が明石の内心を搔き乱すような、 意地悪い質問を突きつけられる度、 彼は明石を壊したいだけなのではないか、 という疑念が背筋を冷たくなぞるのだ。
さりとて明石は彼を前にして逃げ去るという選択肢を与えられてはいなかった。 否、 正確に言えば与えられている。 けれど明石にはそれが選択出来ないように仕組まれているのだ。
少しだけ大きく息を吸い、 ゆっくりと吐き出す――それだけで搔き乱された心を落ち着かせる程度には、 もう彼に慣れてきてしまった。
一年を越える付き合いの長短は一概に定義しきれないものの、 その年月が明石に刻み込んだものは確かに存在しているのだ。
明石は静かに言う。
「即断は出来ないでしょうけれど――それでもきっと、 私は私を助けます」
成程ね、 と分かり切っていたであろう明石の答えに周がくすりと笑う。
オリーブ色の瞳が可笑しそうに細められた。
「人の命を背負うのは辛い、 か」
明石はそっと目を伏せる。
人の命を背負うのは辛い。 しかもそれが能動的な選択であれば尚のこと。
弱肉強食はこの世の必然であって、 生命を存続させるためには生命を搾取しなければならない。 それがこの世の道理であると明石は正しく理解し、 そしてそうやって生き長らえてきたことを自覚している。
けれどそれは何時も声なき命であった。 否、 声はあるのかもしれぬ。 けれど其れは決して明石の耳に届くことはない声だった。
知らなければ、 分からなければ、 人はずっと罪悪に鈍感でいられる。
それは味方によれば歪んだ倫理観なのかもしれなかったが、 そうやって耳を塞ぎ、 目を瞑っていなければ、 明石にとって生を生きることは難しい。
――けれど、 人はいけない。
人の声は人である明石には無視できない。 例え五感を全て遮断して、 その命の喪失に何の実感が湧かないとしても、 明石のために誰かが死んだという事実一つだけで、 明石は容易に狂ってしまえるのだ。
その事実の向こうに、 犠牲になった命の過去を透かし見てしまう。 それが積み重ねてきたモノ、 育んできたモノ、 そういうものが全て世界から消えて、 明石の背中にのしかかるようなそんな気分になってしまう。
だから見知らぬ人間の命は背負えない。 そんなものを背負って生きるぐらいならば、 明石は他人にその重荷を押し付ける程度の狡猾さはあるのだ。
けれど大切な人間には背負わせられない。 明石という取るに足らない人間の、 けれど確かに一つの命の重みを背負わせて苦しませるなどあってはならないのだ――だから明石より余程価値のある命を明石が背負う。
そうしてその罪を一生涯抱えて、 謝罪し続け、 きっと明石は生きることが、 明石の自己犠牲であり自己愛であるのだ。
「アンタは時々驚くほど歪んでる」
「ご存知の通り、 強い人間ではありませんので」
「針金はすぐに歪んでしまうからね。 まあだからこそそれ相応の使い道というのもあるわけだけれど」
周が揶揄するように言うのに、 明石は眉間に皺を寄せて無言で不快を訴える。
彼はけれど其れをさらりと流して、 更に言葉を繋げた。
「もし、 俺がもう一人なら?」
「……はい?」
「俺とアンタどちらかの命しか助からないなら、 アンタはどうする?」
明石は予想だにしない問いかけに思わず、 唖然とする。
つい間抜けに開けてしまった口元をきっちり結び直しながら、 明石は周をまじまじと見やった。
彼は実に気怠げな表情であったが、 その割に双眸だけは真っ直ぐと此方に向けている。
まるでこの問いこそが、 彼が本当に聞きたかったことだというように。
一体何が彼にこんな質問をさせているのかは判断つかぬ儘、 明石は溜息に 「貴方を」 と言葉を乗せた。
「貴方を助けますよ」
周はすっと目を細める。
「殺人犯である俺を?」
「殺人犯である貴方だから――私一人分の命くらい、 今更どうということもないでしょう?」
周は驚いたように目を丸くして僅かに口を開き、 それから 「ははは!」 と大層愉快そうで笑い始めた。
偶に起こる発作ようなものだ。 今更驚くことでもなく、 明石は静かにそれ収まるのを眺めた。
彼の笑いのツボというのは未だに把握し切れていないが、 無理に理解しようとは思っていなかった。
不機嫌になるよりは余程やりやすいが、 彼のツボが分かったところで、 それに沿うような発言をするつもりは明石にはないのだ。 そんな媚びるような真似は明石のちっぽけな矜持が許さなかったし、 彼はきっと明石のそういう浅はかさを正しく見抜いてしまうだろうから。
色々と策略を巡らそうと考えたところで、 結局のところ明石は明石という剥き出しの個人で彼に応するしかないのだという結論に達する。
それは堪らなく恐ろしくあったのだが――広い海に落とす一粒の砂糖程度には、 心地良いと感じているのかもしれなかった。
「――もし、 貴方なら?」
「ん?」
機をうかがってそう尋ねた明石に、 周は笑いの残滓を目元にうっすら残したまま、 此方に視線を投げる。
「もし貴方なら、 どうするんですか? 貴方と、 他の誰か。 選ぶのは何方かの命」
「死者と生者の命など比べるべくもない。 俺は悪霊ではないからね、 道連れなど求めないさ。 時が来れば正しく消える。 そのくらいの覚悟はあるよ」
そう語る周の声は透明で、 何時も通り抑揚が少ない。
「――嗚呼でも、 唯一つ例外がある。 そのもう一人がアンタを脅かす相手なら、 俺は悪霊にでも何にでもなって、 そいつを殺すだろうね」
ほらこうやって。
時々周はまるで明石が全てであるというような振る舞いを示す。 彼はそれを愛情といい、 明石はそれを執着だと思う。
どう答えればいいか分からずに押し黙る明石に、 周は仕方なさそうに僅かに笑って言った。
「まあでもどういう結末を選ぶにしろ、 此の時間が終わってしまうのなら――少し、 寂しいね」
***
今日は何もないの? と周が不思議そうに尋ねたのに、 明石は苦笑と空笑いが混じり合ったような複雑な表情で答えた。
「私は一介の法医学者ですので」
そう頻繁に彼の手を借りなければならないような案件が舞い込んでくるはずもなしに、 何一つの資料も携えずに彼の元に訪れるのも別段初めてというわけではなかった。
正直な心情を吐露すれば、 そうであるならば訪問は控えたいところなのだが、 ある一定期間以上の無沙汰を彼が許さないのだから致し方ない。
周は一人掛け用の黒いソファーに頬杖をつきながら、 眠たげなぼんやりとした目で明石を見やった。
「良く分からないな」
「何がでしょう?」
「アンタが権利を放棄する理由」
事も無げに放たされた言葉に心臓が跳ねる。 彼が知っているはずもないのに、 まるで見透かされているような立ち振る舞い。 否、 事実見透かされている。
口淀む明石をよそに、 周が言う。
「一目見れば分かるよ。 アンタは嘘が上手いけど、 俺を騙せないってことは分かっているのに、 どうして無駄なことをする?」
「嘘を、 ついているわけでは」
「怒っているわけではない。 ただ純粋な疑問さ」
明石が言い切る前に周は被せるようにそう言うと、 頬杖を突いたままもう片方の指先で自分の目元を軽く指差した。
「隈が濃い。 何時もは塗らないファンデーションを塗っているのは、 隈と顔色を隠すため。 随分と忙しいようだけれど、 単純に仕事が忙しいだけならば態々それを押して俺のところに来るはずもないし、 来るにしたってそれを隠す必要はない。 アンタは連日気にかかって眠れないでいる理由を俺に解決してほしいと思っている一方で、 その事件について俺に話すべきか否かを悩んでいる――俺が分からないのはそこだよ」
頬杖を解き、 周は足を組み直して正面から明石を見やる。
「俺はアンタの目になると言ったはずだ。 アンタの代わりに深淵を覗き、 アンタを脅かすものを取り払う。 或る意味では俺はアンタの所有物で、 或る意味ではアンタ自身である俺に一体何を躊躇う必要があるんだろうかと。 どんな些細なことでも、 どんなに下らない疑問でも、 俺は須らく全てをアンタの眼前に明らかにするというのに」
「別にそういうわけでは……」
明石は尻すぼみにそう言った。
或る意味において、 明石は確かに軒端周という男を信用しているのだ。 彼は明石がどんな疑問を持とうとも、 それを須らく理路整然と得心がいくように事実を並び替えて説明してくれることを理解している。
確かに彼の言う通り、 明石はある事件に対してどうしても拭いきれない違和感のようなものがある。
本当に些細な、 絶対にそれが起こりえないとは言いきれない程度の不可解。
けれど明石がその疑問を口にするのを惑うているのは、 他人から見ての事の大小を懸念してのことではない。
そう、 それはもっと根本的な問題なのだ。
明石の様子をじっと観察するように見ていた周が、 やがて 「ああそうか」 と独り言ちた。
「アンタはもっと違う、 言ってしまえば知るべきか否かを迷っているのか」
「……」
だから何故分かる。
明石はそう言いかけた口を閉ざし、 彼の的を得た推察に沈黙と共に一つ頷くだけに留めた。
分かるのだから分かるのだろうとそう諦観しているのだ。
分かるという事実は毅然としていて、 そこにどのような解釈を加えたところで、 明石が御せるはずもない。
愉快なことではなかったが、 言い辛いことを察して心得てくれるのは有難い。 尤も彼の場合、 それを察している上で敢えて明石に言わせようとする時もあるのだから、 矢張り明石にとって彼の優れた洞察力は鬼胎の対象には違いないのだが。
周はそれ以上何も言わず、 視線を明石から逸らす。 室内の何処かを見ているのであろう目には何の色もなく、 ただ悠然と、 最早明石の存在など意にも介してない様子であった。
しかし明石は理解していた。
彼はただ明石に選択を迫っているのだ。 明石はただ周から覚悟を決める時間を与えられているに過ぎない。
知る覚悟、 知らない覚悟――明石は周の横顔を自然となぞった。
例えばこのまま明石が立ち去ったところで、 彼は引き留めることなくそれを受け入れるに違いなかった。
そして何食わぬ顔で次会った時に、 知らない覚悟を決めた明石を試すように徐、 何かを投げかけてくるに違いない。
明石は一度唇を強く噛みしめ、 それからゆっくりと立ち上がって、 食事挿入口から用意してあった資料の一部を差し入れた。
「この事件は既に送検を待つばかりで、 捜査本部の出した結論に特に異論はありません。 ただ一点――一点だけ、 私が個人的に理解出来ない部分がある」
周は視線だけを明石に戻し、 唇を上げ微かに笑った。
それがどういう意味を持つのかは明石にも分かりかね、 ただ立ち上がって長い指先で資料を抓む周の所作を追いかけることしか出来なかった。
「現場は個人宅。 遺体で発見されたのは其処に住む夫婦の二人。 目撃者でもあり通報者でもあるのは、」
「――子供か」
周が資料に視線を落としたままぽつりと後を引き継ぐ。
「八歳男児。 捜査員が到着したときには呆然と電話の前に佇んで息絶えた両親を見ているだけだったと」
「話は、 当然聞けなかったのか」
明石は小さく頷いた。
「精神的ショックが大きすぎたのでしょう。 何一つ喋らず、 捜査員すらも恐れているような素振りだった上――どうやら、 何も覚えていないようだと」
惨状を目撃したのであろう証拠に子供の顔や手には血が付いていたのだ。 事切れた両親の体をゆさぶりでもしたのかもしれない。
ただ自分が警察に通報したことを含め、 事件については何一つ覚えていないようだった。
そういった部分的な健忘は事件被害者にまま起きることであって――明石にとってこの少年とも言えぬ幼子は間違いなく事件の被害者なのだ――その辺りの精神的ケアはしっかりとなされるべきであろうが、 さりとてこの子供が事件について詳らかに思い出すことが良いこととも思えなかった。 その件に関しては、 警察もまた同様のようであった。
分からないままであった方がいいこともある、 と司法解剖に立ち会った警察の一人がそう漏らしたのに、 その時こそ何も言わなかったにしても、 明石は密かに同意していたのだ。
きっとこの事件を彼に語ることを悩んだのは、 そんなやり取りのせいかもしれないと、 ふと思う。
好奇心は猫をも殺すと言う。 既に整然と整えられた真実は判然としていて、 一個人が抱く些細な疑問など取るに足らない。 否、 明石は此れが本当に純粋な疑問であるのか、 或いはただの好奇心であるのか己の中で断じれずにいるのだ。
けれど一度話始めた以上それを中断するというわけにもいかない。
そもそも明石は知る知らないの覚悟を決めてはいないのだ。 その覚悟の分かれ道は、 もっと先。 全てを納得した上で、 それを受け入れるか否かの覚悟を決めると――決めた。
そんな内心をきっと周も理解しているに違いないと、 明石は思う。
どうやってかは分からない。 けれど例えば、 明石が話し始めるまでの時間だとか、 その口ぶりだとか。 軒端周という男はそう言う機微にやけに聡いのだ。
明石は確りとした口調で続けた。
「母親は三十四歳、 専業主婦。 此方は恐らく事故死でしょう。 後頭部をリビングにあったテーブルの端に強打したことによる、 脳挫傷が死因です。 午後七時頃から言い争うような声が聞こえたとの証言もあり、 これは死亡推定時刻に合致します。 このご夫婦は離婚問題を抱えていたとの話もありましたから」
「言い争いが白熱して、 掴み合いにでもなったか。 しかしそれじゃあ、 父親の方は何故死んだ?」
「――自殺ですよ」
自殺? と周は訝し気に眉を寄せ資料に目を落とすのに、 つられるように明石もまた手元の資料を見やる。
包丁を深々と腹に刺した後、 それを引き抜いたのだろう。 血が辺りに散らばって、 それでも足らぬとばかりに満ち満ちて鮮紅に染める。
傷口はみぞおちからやや右下、 丁度肝臓を貫くような形であったのだから短時間で夥しい量の血が流れて死に至ったに違いない。
知らず内に寄った眉間のしわをそのままに、 明石は周を再び見やった。
彼は何を考えているのか良く分からない無情の後、 明石の視線に気が付くや否や口元だけで笑って 「分かった」 と言った。
「何が、 ですか?」
「明石が言う "個人的に理解出来ない部分" が」
周はそう言うと、 手元の資料をぴしりと指先で弾く。 その音を聞きながら、 そう言えば今日は彼は資料を乱雑に扱っていないなと気が付いた。 別段明石が日頃口五月蠅く言っているのにようやっと効果が出てきたわけではあるまい。 きっとそれも彼の気まぐれなのだろう。
明石はそう思いながら、 周を見やって僅かに首を傾げた。
「躊躇い傷が無い」
周はそう言うと、 ふむと考えるように顎に右手を当てた。
「死亡推定時刻は父親の方がやや遅い――母親の方が包丁を持ち出した仮定して、 それを取り上げようと揉み合っている最中に父親の方には誤って包丁が刺さり、 母親は頭を強く打ち付けて死んだ、 というのは」
「誤って刺さった包丁を、 抜きますか?」
「どうだろうね、 慌ててたら抜くかもしれない」
混乱した人間は愚にもつかない行動をするものだと、 周はそう肩をすくめながら言ったものの、 顔は僅かに伏せられた儘、 恐らく言った彼自身もその結論で納得していないのは明らかであった。
「包丁の柄には家族全員分の指紋」
「その家にあった包丁ですから」
「そう」
「――それと、 母親の衣服からは父親の指紋が。 丁度両肩の部分を握る様にしっかりと」
此れは警察の調べから分かったもので、 明石は後から聞いた話である。
恐らくは頭を強く打ち意識を失った母親に驚いて、 父親の方が強く揺さぶったのだろう。 肩部に見られた圧痕は、 揉み合った際についたものではない。
だとすると、 少なくとも母親が後頭部を打ち付けた際には、 父親の方はその程度の余裕と力が残っていたことになるのだから、 揉み合ったときに包丁が刺さっとは考えにくいのだ。
明石がつらつらとその見解を述べると、 周がふいと視線を上げる。
「離婚の理由は?」
夫の浮気です、 と端的に答える。
「浮気した夫が離婚を申し立てて、 浮気された妻がそれを拒んでいた?」
「別段、 珍しいことでもないでしょう」
どちらの気持ちも何となく理解出来る明石が曖昧に言う。
浮気相手に心を移してしまった夫が離婚したいと思うのは当然であるような気もするし、 浮気された妻がその感情を一時のものだと断じたがるのも理解出来る――或いは許せない、 だろうか。
永遠を誓いながらそれを裏切って、 自分をこうも苦しませておいて、 それを捨てて幸せになる相手を許せないと――そういう感情を浅ましい、 というのだろうか。 否、 きっとそうではない。 愛情が歪んで歪み切って、 執着という形に成り代わってしまったのだ。
――ならば歪ませたのは、 何方だ?
思わず深く考え込みそうになった明石を引き留めたのは、 「アゲハ」 と周が呼ぶ声であった。
「明石です――何か?」
「父親の浮気相手に話は聞いたんだろう?」
嗚呼、 と明石は思考の電気を元の位置に戻す。
聞いたのは警察で、 明石はそこから漏れ出た情報しか知り得ない。
この事件はそう複雑なものでもなかったし、 躊躇い傷が無いという一点を除いては遺体に不審な点も特にはなかったのだ。 躊躇い傷云々についても、 余程覚悟を決めて自殺したのだろうと流されてしまった。 確かに、 明らかに自殺である遺体にも躊躇い傷が無い例はほんの時折ではあるが、 無いわけではないのだ。 床や壁に刃物の柄を押し付けて、 それにもたれるように身体を預ければ難しいことでもない。 ただ今回に限っては何となく、 明石には引っかかって思えたということだけの話だ。
故に、 今回は軒端周の介入は誰も求めてはいない。 事件の詳らかな事情が明石に与えられることも無ければ、 明石がそれを尋ねることもなかった。
そう、 明石自身も――矢張り早計だっただろうかと思いながら、 明石は詳しくは知らないと前置きしたうえで言った。
「職場関係の方で……そう、 しきりに子供のことを気にされていたと。 引き取れないか、 とかなんだとか」
家庭があることも、 子供がいることもその女性は知っていたらしかった。 夫婦共々亡くなったと知れば、 残された子供が自然と気にかかるのは当然のことだとは思ったが、 引き取りたいとまでは中々に言い出せないだろう。
とはいえこの事件の原因が離婚にあるならば、 その女性が子供に対して罪悪感を感じていたとしても不思議ではない。
しかし周は何が引っかかったのか、 片眉を上げて、 幾何か険しい声で尋ねた。
「引き取りたいって? 他には」
「他に、 ですか? えっと……嗚呼、 せめて意志を引き継ぎたいと。 その方の交際相手、 つまり亡くなった父親は離婚後子供を引き取りたいと言っていたらしいと」
本当に詳しくは知らなかった。 曰く亡くなった母親は酷い女性だったとか、 支配者の如く君臨していたとか、 そういう話をしていたらしいというのは、 噂話程度に聞いてはいた。 それは事件というよりも、 残された子供の行く末が他人ながらも明石が気になっていた故だ。
周が 「そうか」 とまるで全てを了解したかの如く頷いたのに、 明石は息を呑む――その表情が酷く陰鬱に見えたからだ。
そうして見て初めて、 明石は後悔の念に晒される。
矢張り早計であった。 問うべきではなかった。 先延ばしにした覚悟はそもそも存在するはずもない分岐点だったのだ。
――知ってしまえば、 もう戻れない。
差し出される真実を拒むことと、 真実の存在すらも知らないことではその意味が違う。
忘れることと、 知らないことは似て非なるものなのだ。
「矢張り……」
「無駄だ」
いいです、 と言いかけた明石の足掻きを周は鋭い声で一蹴した。
彼はもう一度 「無駄だよ」 言い聞かせるような語調で重ねた。
「アンタは既に自分でも知らないうちに気が付いていた。 自分の身の内にあるものから一体どうやって逃れるという? アンタが自分で語れないというならば、 俺が代わりに語るしかない――アゲハ、」
もう戻れないんだ、 と周は静かに言った。