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背徳の徒花  作者: 六条藍
10/12

10:閑話 或いは再会の事件

軒端のきば あまねさん――ですか?」


 大して大きくもない明石あかし ちょうの声が、 灰色のコンクリートに響いて激しく鼓膜を揺らした。

 分厚いガラス越し、 透明な壁の向こうに座る彼はオリーブ色の瞳を真っ直ぐ明石に向けながらも、 聞いているのかいないのか判別しづらい薄い表情を浮かべている。 彼とは初対面ではなかったが、 会ったのは一年以上昔のことで、 加えて彼に対して漠然とした恐怖を抱いていた明石は、 自己防衛のためにその存在を記憶の彼方、 奥深くにしまっていたのだ。 恐らく彼がそうであろうとは思っていたが、 そうだと断言出来るほどの自信はなかった。

 加えて、 彼は明石がやってきてもただ一言も喋らないまま黙ってこちらを見ているだけであったから、 殊更に不安で、 どう会話を始めたら良いのか戸惑ってもいたのだ。


「座らないの?」


 彼は明確な答えを示さないまま、 ただガラスの前に置かれた無骨なパイプ椅子の横に立つ明石にを眺めて不思議そうに首を傾げる。

 座る必要がないくらい短い邂逅で済ませたかった本心をやんわりと指摘されたようで、 明石は居心地の悪い気持ちのまま浅く椅子に腰かける。

 それを見た彼はようやく満足したかのように一つ大きく頷くと、 唇の端を僅かに持ち上げた。


「明石蝶先生、 会いたかったよ。 凄くね。 アンタと最後に会ってからもう一年半、 俺も随分と我慢した」

「光栄です――と言った方が?」

「本心でそう思ってるなら」


 そんなはずもあるまいと分かっているかのように周は肩をすくめる。

 特に不快感が滲み出ている様子はなく、 ただその事実を当然のように受け止めている彼の様子を注意深く観察しながら、 明石は彼に尋ねた。


「貴方は、 私に何をさせたいのですか?」

「どうして何かをさせたいと思うんだ?」

「何かを求めるから、 私を呼んだのでしょう。 私が貴方の望みを叶えられる存在だから――貴方の最大で唯一らしい諸刃を振りかざしてまで」


 明石は出来る限り安穏と生きていきたいと願っていて、 知的好奇心からの詮索が如何に己の身を危うくするか正しく心得ていた。

 だから見知らぬ警官が突然訪ねてきて、 既に死んでいるはずの死刑囚が生きていると知らされても、 ひょっとしたらそういうこともあるのかもしれないと、 その由縁を探ることはしなかった。

 ただ何かしらの理由が彼を生かしていて、 そしてその理由が警察にとって必要不可欠なものであることを薄っすらと理解し、 そしてその理由が存続するために、 彼が明石を求めたことを聞いて、 初めて明石はその理由とやらを尋ねたのだ。

  彼が今まで犯していた数えきれない犯行を文字通り数多であって、 彼が実際に裁かれた事件はその中の極々一部でしかなかったこと。 そして、 彼はその他取りこぼされた犯罪を牢の中で朗々と語っていること。 自殺、 病死、 失踪、 事故――そうやって闇に葬られてきた殺人事件を辿るために、 彼が一年以上生かされているということ。

 そして彼が――事件を語るのをぴたりとやめ、 続きを聞きたいならば明石を寄越せと言い出したこと。

 明石は訳の分からぬまま渦中に放り込まれるのを厭うて尋ねたのに、 聞けば聞くほど訳が分からなくなった。


「随分と面白い例えを使う。 諸刃、 ね」


 周は明石の心情など素知らぬ素振りで、 愉快そうに唇を歪める。

 

「アンタが何をどういう風に聞いたのか、 それだけで十分予想がつくよ。 不思議かい? 一歩間違えればそのまま死んでしまいそうな綱渡りをした俺のこと」

「別段。 本当に綱渡りをしたのなら、 話は別ですが」


 明石は己が矮小で愚かで、 自己保身の塊のような人間である自覚があった。 だからこそ他人の嘘に特別敏感であって、 明石に語られた話が本質を上滑りしたような、 くだらない建前であることを彼に指摘される前に理解していたのだ。

 尤も明石にそれを語った人間が、 わざと匂わすように語っていたのだから、 察するなという方が些か無理があったのだが。


「まあでも、 それなりに努力したのは本当だよ。 だからこそ、 再会までにこれだけ時間が必要だった」

「ええ。 ですから、 答えを下さい。 最初の質問に」

「ただ話をしたい――って言ったら?」

「私は貴方の暇つぶしの道具ではないと」


 探るような周の言葉を、 明石はにべもなく一蹴する。 けれど周はそんなことは最初から分かっていたという風に、 軽く肩をすくめただけだった。


「ねぇ、 アゲハ。 俺はアンタを守りたいんだよ」


 周はそう言うと、 まるで獲物を見つけた猫のように目を細めた。

 ぞくり、 と背中に走った戦慄に耐えるように、 明石は膝の上で固く拳を握った。

 守りたいというならば、 今すぐ明石を解放して、 永遠に彼から遠ざけてくれればそれで事足りるだろうに。

 何にも勝る眼前の恐怖は、 何食わぬ顔でうそぶいた。


「俺がアンタの憂いを払ってあげるよ。 アンタを脅かす恐怖の壁になってあげる。 怖いんだろう? 恐れているんだろう? 深淵を覗いている自分が、 何時かそれに飲み込まれてしまうのではないかって。 でも覗かずには居られないから――だから、 アンタは此処に来た」

「何を、 どこまで、 どうして……」


 それは悪魔の囁きだった。 明石は震える声で呟く。

 彼が明石のことをどうして知っているのだろうか、 と恐ろしかった。 一部の友人しか知らないはずの呼び名を口ずさみ、 誰にも語っていないはずの本心を読み取られたことに恐怖した。

 そして同時に確信した。 矢張り彼こそが明石にとって深淵なのだと。

 すぐさま立ち上がって、 彼に背を向け走り去ってしまいたかった。 一刻も早く彼を脳内から追い出して、 安穏に満ちた狭い世界に閉じこもってしまいたかった。

 けれど、 そうは出来ない。 明石が明石にそれを許すわけにはいかないのだ。

 踏みとどまる理由があったから、 明石は必死に恐怖に堪えた。 そして激しく脈打つ動悸を抑えるように何度か浅い呼吸を繰り返す。

 周は、 酷く綺麗に笑った。


「過程なんて無意味さ。 そんなものは幾らでも並び替えて、 作れるんだから。 大事なのは結果であって、 それを忘れてはいけない。 俺はあんたを知りたかったから、 知っている。 それだけの話だ」


 淡々とした声色は、 まるで毒のように耳から入り込んで脳内を犯していくように。

 明石は必死で唇を動かし、 彼に問う。


「貴方は、 私の知りたいことを知っている、 と?」

「さあ、 それはどうだろう。 でもアンタの代わりに見ることは出来る。 だから契りを交したいんだ。 お互いの心に楔を打ち込んで。 永遠は誓えないが、 絶対は守るよ」

「――私に、 何を誓えと」

「アンタがアンタであることを。 震える足で此処に来て、 逃げ去りたい衝動を堪えて留まってくれればいい。 アンタが俺を必要としているときに、 俺の目の届く内に居て欲しいだけ」


 くだらない茶番だ。 守られる保障云々の話ではなく、 そもそも彼はそんな契約を必要とはしていないのに。

 彼はただ願えばいいだけなのだ、 今回のように。 それが受け入れられる理由は何であれ、 その願いは叶えられる。 求められて無視出来るなら、 明石は今この場にいるはずもないのだ。 明石の犠牲が、 何かを救うというから此処に来た。 それが誰かのためになるならばと、 受け入れた。 自己犠牲でもってしか、 明石は己の存在を肯定出来ないから。 

 彼はきっと全てを分かっている。 其れでも尚、 こんなことを言い出すには何かしらの理由があるはずなのだ。

 明石は思考を巡らせる。 彼が望みの真意を探るべく、 深く深く脳を暗がりに追い立て――そして、 直ぐにそれを取りやめた。

 思考放棄は不本意であったが、 何かに成り代わらなければ辿れない道筋を放棄するで己を保てているのに。 此処で彼を追ってしまえば、 それこそ本末転倒だ。

 明石は仰々しく溜息を吐く。 沈黙が続いている間、 何が面白いのか周はずっと明石を眺めていたようだった。


「私でなければ、 ならないのですね?」

「そう、 君でなければならない」

「本当に此処だけが、 貴方の目が届く範囲?」

「さあ、 それはどうだろう。 でも俺が千里眼でないことは確かだね」


 探るように尋ねれば、 周はにやりと笑って肩をすくめた。


「それにしたって、 貴方は随分と目がいいようですが?」

「いいのは目じゃなくて、 耳の方さ。 噂話というのは、 勝手に飛び込んでくるものだしね」

「意図的、 ではないと」

「そうは言ってない。 けれど、 知るつもりがないことまで知ってしまったのは確かかな。 その点に関しては申し訳ないと思ってるよ。 アンタの秘密に土足で踏み入る真似は、 本意じゃなかった」

「――謝罪より沈黙を。 隠しているつもりはありませんが、 吹聴したいことでもない」

「勿論」


 周はやけに神妙な面持ちで頷いた後、 すぐさま 「それで?」 と言葉を繋いだ。


「アンタは聖人君子というわけでもなければ、 アンタなりの思惑もある。 受け入れたのは自己犠牲のためだけじゃない、 アンタ個人の厄介ごとへの打開策として俺に期待していた」

「一度きりの、 叶えば宝くじに当たるような幸運だと思っていましたので。 期待はしていませんでした」


 彼が明石に何を求めているのか、 まるきり見当がつかなかったし、 求められているものを差し出せるか否かも分からなかった。

 そういう可能性は此処に至る前に予め示唆されていたが、 彼の気まぐれ具合も同時に言い含められていたから。


「それならば、 おめでとう。 アンタは期待以上の道具を得られた」

「本来身の丈に合わぬ道具は持たない主義なのですが」

「でも必要なんだろう? 僅かな可能性に賭けて、 俺を許容するぐらいには切羽詰まってる」


 明石が無言で目を伏せ、 是を示す。


「私は、 警察の方にこう言われています――軒端 周に対する如何なる秘匿も免除されている、 と」


 つまり彼の前で、 守秘義務は意味をなさない。

 それが法律的に正しいか否かは明石の判断すべきところではなく、 ただ許可されたという事実だけを唯々諾々と受け入れることが、 門外漢の正義感よりも余程今の明石にとっては重要なのだ。


「俺は半分幽霊みたいなものだからね。 そんなものを相手に幾ら語ったところで、 唯の独り言と同義さ」

「大方は理解していると、 判断しても?」

「随分と買い被って貰っているようだけど、 流石にね。 それこそ噂話程度さ。 知っている情報と知らない情報を擦り合わせるのも時間の無駄だ。 事件概要を整理するつもりで、 一から話してくれると嬉しいな」

「では、 そのように」 


 明石は頷くと、 念のために準備していた事件資料を取り出す。 それから事前に教えられた通り、 床からおよそ10cmほどの高さにある、 食事の挿入口からそれを差し入れた。

 周は椅子からひょいと立ち上がってそれを受け取ると、 表紙を見て、 はは! と笑った。


「極秘! 面白いね、 実に面白い」


 彼の言う通り、 その表紙に明らかな命はなかった。 正式に捜査の概要を知っているわけではない。 こうして集められた資料だって、 顔見知りの警察関係者の厚意の賜物だ。

 何故かひどく可笑しそうに口元を歪める周をよそに、 明石は自分の分の資料を膝に置いて、 その一枚目をめくった。


「事の始まりは今から一年前。 大学病院のメールボックスに届けられた奇妙な写真と手紙です」


 明石は単調な言葉で、 語り始めた。


***


 明石の勤める大学病院には職員一人一人に小さなメールボックスが貸与される。 其処にはセミナーや勉強会の知らせ、 月報などの雑多とした書類やらが無造作に放り込まれるのだ。

 大方の職員は出退勤の際にそれをチェックするのだが、 生憎と明石の職場は本院よりもやや離れたところにあるせいで、 メールボックスの傍は通らない。 ほとんど急を要さない書類であることも相まって、 明石がそれをチェックするのは一週間に一度程度の頻度であった。

 その時はたまたま本院の方に用があって、 帰り際にメールボックスの横と通ったので、 ついでとばかりに無骨な金属製のダイヤルを回して中身をチェックした。

 その場でぱらぱらと内容を確認した明石はその中に、 丁寧に封をされた白い封筒を見つけた。 宛先には『明石 蝶先生』 とだけ書かれていて、 他は何も書かれていなかった。 裏面も同様で、 手紙にしては厚みのある封筒を少し気味が悪く思いながらも、 職場に持ち帰ったのである。


 デスクの上の鋏で封を切り、 中身を取り出した明石は思わず眉を顰めた。

 数枚の写真と小さなメッセージカード。 まず最初に目に飛び込んできたカードには、 筆記体で "I miss you." とだけ書かれていた。

 眉間の皺がより深くなるのを感じながら、 今度は同封されている写真に目を通す。


「――骨?」


 思わず小さく呟いた明石の言葉に、 隣に座っていた同僚の月野が不審げに此方を見やった。

 幾ら死体を見慣れているとはいえ矢張り少し気味が悪かったし、 こういう問題を一人で抱えたところで毒にしかならない。

 変な写真が、 と明石は躊躇いもなく数枚の写真を広げた机を示し、 彼が見やすいように横に椅子を引いた。

 キャスター付きの椅子に座ったまま、 足だけの力でやってきた月野が明石と写真を覗き込む。

 年下ではあるが、 明石よりも法医学教室への勤務年数は彼の方が上で、 そんな彼の眉が明石同様に顰められた。


「大腿骨らしき骨と骨盤が少しだけ映り込んでますねぇ。 二枚目は左胸の肋骨と胸骨が中心で、 三枚目は――頭蓋骨か」

「どう、 思います?」

「取り敢えずこの写真を撮った奴の腕前は、 いまいちっす」


 写真を撮るのが趣味だと言っていた月野がそう言って肩をすくめる。

 それが情報と言えるのか言えないのか置いておくとして、 おちゃらけたことを言う月野の視線は言葉の割に険しかった。


 人骨らしき骨は、 土の中に埋まっていたのを掘り起こされたようだった。 周囲に落ちている木の葉の種類さえ分かれば比較して大腿骨の大よその長さは分かる。 其処から身長ぐらいは推定できるだろう。

 映り込んでいる骨盤は僅かにしかないため、 そこから男女の区別はつけにくい。 頭蓋骨の写真は正面から撮られており、 女性のようにも思われたが、 写真では断言することが出来なかった。


「これだけじゃ何とも言えないっすね。 ていうかこの写真は?」

「今日見たらメールボックスに。 これと一緒に」


 明石が掲げたメッセージカードをちらりと見た月野は、 うげっと厭そうに声を上げた。


「明石先生、 人を見る目は養った方がいいっすよ。 白骨死体になってまで追ってくるとか、 碌なもんじゃない」


 体育会系の言葉遣いが未だに抜けない月野がそう言って、 呆れたように溜息を吐く。

 無遠慮にも聞こえる彼の軽口が、 すっかり写真のせいで固くなった明石の緊張を幾らか和らげた。


「生憎とそんな情熱的な人は。 それよりもこれ――矢張り、 本物に見えますか?」

「間違いなく」


 そう断言する彼と、 明石は正しく同意見であった。

 模型であれば土の中にあってももっと表面は白いだろうに、 写真の骨は黄みがかっている。 それに大腿骨には骨折の痕がある。


「――悪戯、 ですかね?」

「こんな悪趣味な悪戯してくる人間はそういないっす。 ボスに相談してみたらどうです?」


 月野のいうボスというのは、 法医学教室を取り仕切る教授のことである。 始終忙しそうにしている教授にこのような些事を相談するのはやや気が引けたが、 月野は珍しく机に座っている教授の姿を見やって今がチャンスだと言わんばかりに、 明石の背を物理的に押しやった。

 生憎彼の腕力に逆らう程度の脚力もない明石は、 みっともなくたたらを踏みながら教授の前に躍り出る。

 丁寧に整えられた頭髪に最近白いものが目立ち始めた教授は、 老眼鏡から覗く双眸を上げて、 不思議そうに明石を見上げた。


「何かあったかね」


 鋭い目つきに穏やかな声色。 明石が手に持ったままの写真を見て、 「それは?」と促されれば、 話す以外の選択肢を選ぶ勇気は明石にはなかった。

 教授は写真とメッセージカードを交互に見比べて、 ふむと暫く考えるように、 丁寧に髭を剃った顎を撫でた。


「――明石君も有名になってしまったからね」


 ぽつり、 と落とされた言葉に明石は一体何のことだろうかと小首を傾げる。 一歩後ろに控えていた月野が 「軒端周の」 と明石に耳打ちしたので、 そのことかとようやっと思い至った。

 軒端周の事件は、 殺人事件がめっきりと減っている昨今、 大変センセーショナルなものであった。

 随分と話題になったし、 何処から漏れたのか第一発見者であり法医学者でもあった明石の元にもひっきりなしにマスコミからの取材がやってきた。 それが彼らの仕事だとは理解していたが、 彼らがやってくるときは大抵明石も仕事中であったし、 そうでなくても守秘義務に順ずるべき立場にあれば、 話せることなどほとんどない。

 一切合切を断っているうちにやがて軒端周の巻き起こした一風も過ぎ去っていったから、 すっかり忘れてしまっていたのだ。

 それにもう半年以上前の話だ。 教授は 「だからこそ」 と口元を厳しく引き締めながら言った。


「世間ではとっくに忘れ去られたはずの人間に、 送り付けたことに意味があるのかもしれん。 自宅ではなく職場であることは幸いだが、 少なくとも君の個人情報の幾らかはこの相手に流出しているとみていいだろう。 この写真だけでは如何とも言い難いが、 身辺にはよく注意しなさい。 この写真は私が預かろう。 もしまた何かあったらすぐに報告してくれたまえ」


 まあ恐らくただの悪戯だとは思うがね、 と最後に教授が穏やかに付け加える。

 それが明石の怖がりを知っているが故の気休めであることは、 なんとなく分かっていた。

 


 それから二か月後、 奇妙な手紙のことなど半分忘れかけていた明石の元にまたあの手紙が届いていた。 メールボックスに、 同じ文面のカードと共に。 白骨死体であったが、 以前のものよりも少し年代が新しいものに見えて、 頭蓋骨の形や残った頭髪から恐らく女性であろうとは思ったが、 前回同様断言は出来なかった。

 それからは一か月ごとに写真が送られてくるようになった。

 同じような白骨死体二件ほど続き、 次にやや肉が残ったような死体の写真が送られてきた。 警察には届けていたが、 写真からも手紙からも証拠は何一つ得られなかった。

 そのあと暫くは腐乱死体の写真が続いた。 写真が届くたびに写っている遺体の死亡時期は新しくなっていったのだ。


 そして――つい、 二か月程前。 死後数十日と思われる女性の遺体の写真が送られてきたのである。


  死体からは明らかな死因は判別出来なかったが、 脚や胸には鞭で叩かれたようなミミズ腫れが残っていて、 顔には何度も殴られたような痕が残っていた。

 この女性がどれほど苦しんだのかは写真越しにも明らかで、 死体には慣れているはずの明石ですら吐き気を覚えた。

 添えられたカードの文面には何時もの一文に加えて、"I will go to see you." と書かれていた。

 

 貴方に会いたい――だから、 会いに行くよ。


 そんな風に綴られた文面に、 明石は戦慄した。 カードの下に小さく書かれた数字は、 そこから一週間後の日付であった。

 

 流石に警察も本腰を入れて動いてくれることになったが、 さりとて相変わらずさしたる手がかりは一つも得られなかった。 ただ顔は、 まだ判別できる程度には形を保っていたため、 女性の身元は割り出せた。 三か月前に失踪届が提出されており、 四国の地元から大学に通うため大阪に出てきていた女性であるとのことであった。

 その日から、 明石に警察の警護が付くことになった。 事件の異質性を鑑みた上での処置なのか、 教授の力添えの結果なのかは明石には判断しがたかったが、 何方にしても一人暮らしの明石にとってはこの上なく心強いことであった。

 仕事を休み、 実家に帰ることもちらりと考えたが、 ただでさえこの仕事に反対しているのを、 こんなことに巻き込まれていると知られるわけにもいくまいと断念した。何より余計な人間を巻き込むことになりかねず、 そしてそうなったときはきっと明石は自分が死ぬよりもずっと苦しい思いをすることになる。

 何事もないかのように振る舞えるほど器用ではなかったが、 仕事をしている間は余計なことを考えずにいられるのだから、 存外この選択は明石にとって間違ってはいなかったのだろうと思う。


 期日の日まで、 恐ろしいほど平穏な日々が続いた。

 

***


「そして期日の翌日、 君の同僚が姿を消した」


 引き継ぐ周の言葉に、 明石は小さく頷いた。

 日付が変わる瞬間まで一睡も出来なかった明石を嘲笑うように、 明石の周囲は至極静かに沈んでいた。

 翌日腑に落ちない気持ちで出勤すると、 前々から三日間の有休をとっていた月野が今日から出勤のはずなのに連絡がつかないと告げられた。

 携帯は繋がらず、 自宅にもいない。 月野の家族に連絡して、 警察に失踪届を提出してもらったが、 その行方は杳として知れなかった。

 月野が失踪して更に一か月。 明石の元に、 例の手紙が届いた。


「――酷い死体でした」


 殴られ、 蹴られ、 炙られ、 曳かれ、 砕かれ、 剥かれ――一晩で傷つけられたようなそんなものではない。 恐らく失踪してから長い間ずっといたぶられたのだと、 引き攣った傷口がそう語った。

 遺体に苦悶はなかった。 ただ地獄の終焉を迎えた安堵のような穏やかなさに彩られていた。

 こみ上げてくるものを慌てて、 トイレで吐き出した。 それと共に漏れ出る悲しみは、 哀哭あいこくとなって明石自身を罵った。

 沸き上がる後悔と自責を和らげるものなど何一つなく、 仇討ちすべく犯人を追うことも許されなかった。

 曰く、 目が曇ると。

 そう言った教授の言葉の意味を、 彼自身の無念さを理解出来ぬほど明石は子供ではない。

 さりとて、 唯々諾々とその命に従えるほど、 明石は大人でもなかった。


「本来事件は私の手を離れ、 私の立場はあくまでも関係者でしかない――でもこの犯人だけは、 絶対に逃さない」


 自分の手で捕まえたいとそんな大それたことなど思っていない。 ただ何もせずに吉報を待てるわけもない。

 そう語る明石に、 「復讐かい?」 と周は静かに尋ねた。


「これだけのことをした人間だ。 どんな時代だって極刑は免れない――捕まえて、 殺したい?」


 静謐な声に、 答える言葉に窮した。

 そうではないと言い切れぬほど、 どす黒い感情が己の中に渦巻いていることを明石は理解していた。

 怒りや憎しみが抑えきれるはずもない。

 けれどそんな感情で動いてしまえば、 明石は己を深淵に投げ込むことになるのだとも理解していた。


「犯人の処遇は私の関知すべきことではない――ただ知りたいんです。 どうして、 私だったのか。 どうして私ではなかったのか」


 それが明石の中に沸き上がる衝動への理由付けだった。

 周は暫く沈黙し、 何かを探るように明石の双眸をじっと見つめる。 波のない湖面の如く静かに澄んでいるのに、 まるで底が見えないようで恐ろしい。

 きっと彼は、 これが言い訳であることを見透かしているのだろうと明石は直感した。

 この動機は後付けだ。 如何ともし難い衝動への言い訳だ。 渦巻く黒から目を背け、 薄っぺらい蓋をした。

 ――けれどそうしなければ、 すぐそこまで迫る深淵に呑まれてしまうから。


 やがて周はふっと笑って、 明石に尋ねた。


「推理小説を読んだことは?」


 唐突な話題に、 音が文字に変換されるまでに少し時間を要した。

 そうして彼の言葉を理解した後も、 その意味は解せぬまま 「それなりに」 と明石は曖昧に頷くことしか出来なかった。


「シャーロック・ホームズや明智小五郎は知っている?」

「ええ、 有名ですから」

「彼らの宿敵がいたのは?」

「確か――モリアーティ教授に、 怪人二十面相、 でしたか?」

「嗚呼。 だからそれが答えだよ」


 肘かけ椅子に頬杖をついて、 眠たげな双眸で明石を見やる。

 周が立ち上がると、 膝上に置かれた資料がばさりと床に落ちた。 彼は其れを気に留めるそぶりもなく、 まるで何もないかのように足先で蹴った。 蹴られた紙束が舞って、 それをさらに周の足が無造作に踏みつける。

 思わず顔を顰める明石を気に留める風もなく、 周はガラス際まで迫って明石に告げた。


「アンタは探偵役に任命され、 その宿敵たらんと現れた。 それが手紙の主だよ」

「――理解が、 出来ません。 どうして私」

「俺が世間を賑わして、 必然アンタの名も知れた」


 明石が全てを言い切る前に、 周が口早に答えを告げる。

 ただでさえ上背のある周が立ち上がれば、 座っている明石と視線を合わせるために大分顔を下げなければならない。 そうして垂れさがる長い前髪の下に、 彼の瞳はすっかり隠れてしまった。


「推理ごっこを仕掛けているつもりだと?」

「そう。 そしてアンタは良くも悪くとも自分の分を弁えている。 対岸の火事には手を出さないのをそいつは理解していた」

「――月野君が被害者になれば、 私が犯人を追いかけると?」


 周は低い声で、 「嗚呼」 と頷いた。

 常に平静を心がけていた頭に、 沸騰した血が一気にめぐるような感覚に目眩を覚える。


「そんな理不尽なことが! どうして!」


 明石はただ運悪く死体を見つけ、 そして運悪く軒端 周という男に行き当たっただけだ。

 月野はそんな明石の同僚であっただけだ。

 その代償がこの残酷だというのなら、 一体どうやって生きれば、 普通に生きられる。

 暴力や犯罪は身近にあったけれど、 それは明石達の住む世界とは一線を引いた向こう側の話のはずだった。

 矮小な処世術の綱渡りを間違えたのが明石自身であるならば、 その対価は明石が支払うべきものだ。

 激昂し、 思わず声を荒げる。 けれど涙は決して流さなかった。 それはただ、 理不尽に死んだ被害者にのみ捧げることを決めていたから。


 どうして、 ともう一度小さく呟く明石に、 周は驚くほど穏やかな声で言った。


「だからこそ悪なんだ」


 其れは憐憫や沈鬱で塗り固めて、 悔恨を覆い隠そうとしたような、 そんな不思議な色をした言葉であった。


「優しさには優しさを、 暴力には暴力を――世界がハンムラビ法典で満ちていたら、 今よりもずっと生きやすい。 けれど現実は、 優しさには暴力が、 暴力には更なる暴力が返されるような理不尽で満ちている。 理不尽は悪だ。 そして悪は時に向ける刃の先すらも間違える」

「……」


 周の語る言葉に、 明石は目を伏せ、 堪える。

 道理など通じない。 悪は常に天災の如く万人に降りかかる。

 安穏とした世界は脆い壁に包まれていて、 其処から出ないように気を張ったところで、 突然壁が壊れて、 悪は流れ込む。

 それが一つの道理なのだと頭では分かっていても、 それでも理由が欲しかった。

 ――この不条理を、 ただ運が悪かったと流せるほど明石は強くはないのだから。


「俺を恨むといい」


 まるで明石の内心を全て見透かしているように周が言った。

 はっとして彼を見上げる明石に、 周は優しく告げる。


「アンタにはそれくらいの権利はあるよ」


 だからこそ俺にはアンタを守る義務がある、 と周は小さく呟いた。


「…………事件の話を」


 明石は彼の申し出に是とも否とも答えなかった――答えられなかった。

 確かに事の発端を彼の事件であることは事実であり、 彼は正しく理不尽な悪であった。

 けれどそうして誰かに恨み辛みをぶつければ、 またそれが何倍にもなって明石や明石の周囲を損ねるであろうことを恐れた。

 処世術というには余りのも陳腐であったが、 明石はそうして身を守る他に理不尽に対抗する術など持ち得ないのだ。

 周は全てを了承しているかのように、 一瞬困ったように眉尻を下げ、 直ぐにそれを嘆息に変えて言った。  


「――犯人を名指ししろと言われて、 生憎俺にはそこまでの力はない。 けれど身元が分かっている被害者像や事件内容からそれなりに分かることはある」


 身元が分かっている被害者は二人。 月野とそのひとつ前の女性の被害者、 確か高須という名前だった。


「順番通り女性の方から――彼女は薬学部に通っている大学生。 恋人は無し。 毎日朝からきっかり講義を受けて、 夕方から夜九時までは大学近くの喫茶店でアルバイト。 下宿先もそこの近くというのだから、 生活圏はかなり狭い。 その中で彼女は失踪したわけだが、 目撃者はいない。 何か物音や悲鳴を聞いたような人もいない。 彼女の部屋は綺麗に整えられていて、 携帯は机に置かれたまま。 けれどパスポートや身分証らしきものは室内に無く、 持っていたはずの旅行鞄も消えていて、 その上の失踪したともくされる前日には貯金を全額引き落としている――つまり、 彼女は自主的に姿を消した」


 だから警察も失踪届を受理しながらも、 積極的な捜査を行わなかったのだ。

 周はさらに続けた。


「月野は法医学教室所属の法医学者。 一人暮らしで自宅は勤務先から五駅ほど離れた場所。 恋人は無し。 恐らく帰宅時間は不規則だが、 朝は規則正しい。 生活圏は前の被害者ほど狭くはないが、 広いわけでもない。 月野の失踪も目撃者その他は見つかっていない。 室内は雑然としていたが、 財布や携帯その他身分証はなし。 帰宅姿の目撃はされていたが、 その後直接姿を見た者はいない。 有休を申請し、 人目を忍ぶように彼は消えた」

「その事実で、 何が分かると?」


 首を傾げた明石に、 周は「色々分かるよ」 と小さく笑った


「犯人は男性。 年は四十代から五十代。 見目は恐らく悪くない。 忍耐力と話術があって、 仕事は恐らく在宅だ。 そして一か月程度全く仕事を受け負わない時期がある。 独身だが、 恐らく薬指に指輪をしているな。 それにかなりの資産がある。 恐らく何処かの田舎に山ごと敷地を持っているんだろうね」

「――プロファイリング、 ですか?」


 朗々と紡がれる犯人像に鼻白みながら、 押し出した言葉に周が笑う。

 事実からの推測だ、 と彼はさらに言葉を続けた。


「両者に共通しているのは狭い生活圏。 それに自主的に姿を消していること。 けれど彼らが姿を消した理由は誰も知らない。 つまりね、 何か秘密があったんだ。 狭い生活圏の中で何事かがあって、 けれどそれは周囲には言えない」

「何らかのトラブルに巻き込まれていたと?」

「否、 トラブルというよりもトラップだ。 女子大学生が身辺整理をして、 預金残高を全部引き落として、 誰にも言わずに姿を消した――そんなことをする理由なんて、 そうないだろう?」

「秘密……嗚呼、 秘密の恋人。 駆け落ちですか」

 

 ようやっと理解が追いついた明石を周は満足げに見やる。


「だから薬指に指輪、 と? もし彼女に秘密の恋人がいたとして、 それを周囲が知らなかったのは、 彼女がそれを不倫だと思っていたから」


 どんな連絡手段をとっていたか知らないがきっと用心したのだろう。 失踪した高須の携帯からもその通話履歴からも恋人らしき存在は認められなかったのだから。


「そう。 けれど犯人は恐らく結婚していない。 配偶者の目があって出来る犯行でもないし、 別居している配偶者がいる可能性も犯人の性格を考慮すれば考えにくい」

「――被害者には男性もいますが?」


 月野の携帯の通話履歴にもまた恋人らしき影はなかったが、 彼は男性だ。 


「セクシャルマイノリティなんて、 言うほど珍しくもないさ。 より秘密が強固になるだけ」


 俺もバイセクシャルだ、 と事も無げに周は言うのに、 明石は思わず驚いて目を見開いた。


「? そんなに不思議?」

「いえ性的嗜好に対してではなく、 貴方が他者を愛せるという事実に驚きました」

「……成程」


 周は何とも言えない複雑な表情を浮かべた後、 「話を戻そう」 と更に言葉を繋げた。

 

「被害者に近づく手段は様々だが、 少なくとも職場関係ではない。 被害者の失踪と同時に自分も姿を消すのだから、 それが周囲に悟られるような立ち位置には絶対に居ないはずだ。 アルバイト先の常連だったり、 出勤途中に良くかち合う人――そんな距離感で最初は近づいていく」

「そう簡単に?」

「この犯人は年単位で計画を進めていたはずだ。 恐らくほとんど警戒心すら抱かせない。 それに上手くいかなければターゲットを変えればいい。 恐らく同時期に幾つか網を張っていただろうから」

「だから忍耐力と話術、 ですか。 仕事については?」

「この犯人は恐ろしく慎重だ。 だから被害者を一人殺した後、 次の被害者を漁る場所は恐らく変えているはずだ。 それに被害者に近づくにはその生活をある程度把握して、 それに合わせる必要がある。 だから比較的時間を自由に使えて、 住む場所もころころと変えられる職種。 だから在宅だろうね」


 周はさらに続けた。


「被害者を拉致した後は、 長い時間をかけて楽しんでいる。 その間は仕事も請け負わずに被害者に集中する。 そして悲鳴も聞こえず、 人目につかずに遺体を処理できる場所と敷地があるのだろう。 住まいはコロコロ変えているが、 犯人にとっての本拠地はそこだ。 写真から推測すると山かな、 っていうだけ」

「犯人の年齢層は尤も古い遺体の写真からの逆算ですか」

「恐らく二十年以上は犯行を続けている。 けれど十代からこんな緻密で根気のいる犯行が出来るとも考えにくい。 最低でも最初は二十代の頃だ」

「犯人が女性や複数の可能性は?」

「複数はないね。 カードに人称は一貫して "I" だ。 あとは統計学と印象かな。 連続殺人犯に男性が多いというのは事実だし、 一人で遺体の処理をするのなら女性の力では厳しい。 遺体をばらばらにするとか軽量化しているなら話は変わるけど、 特にそういう痕跡もない」


 だから男性、 と周はゆったりとした口調で締めくくると、 明石の方を見やって言った。


「この犯人は、 承認欲求を満たしたくなったのさ」

「――貴方を知って?」

「そう、 俺を知って。 同じように犯罪を重ねている自分は、 一つだってバレていない。 でもだからこそ、 世間はそれを知らない。 俺よりも自分の方が優秀であると示したくなった――月野の通勤は電車?」

「いえ、 バスと」

「職業柄帰宅時間はばらばらだろうから、 近づくなら恐らく出勤時間。 彼はきっと時間にはそうルーズじゃなかったんだろうね」


 確かに彼の言う通り、 明石が知る限り月野が遅刻したことなど一度もなかった。

 学生時代はバスケ部だったという彼は驚くほど几帳面で、 何時も朝一番に出勤しては、 室内をコーヒーの香りで満たしていたのだ。

 ――全ては最早過去形だった。

 どうして、 とそう呟かずにはいられない。

 そんな明石を見やった周は暫しの沈黙のあと、 静かな声で言った。


「彼の最寄りのバス停を調べると良い。 乗るバスの時間帯は決まっているだろうから、 その時間に聞き込みをするんだ。 恐らく見つかるよ。 月野と親し気に話していた男。 そして最近姿を見せない男が――ねぇ、 アゲハ」


 彼が奏でる呼称は特別なものなのだと、 今は言い募る気にもならなかった。


「最初からこの犯人が仕掛けてきた勝負はフェアじゃなかった。 法医学者のアンタが遺体の極一部の写真しか見せないなんて愚行だ。 アンタに責任はない。 この犯人は結局アンタを探偵役ではなく、 オブザーバーにしかしなかった。 全ては最初から決まっていた」

「――それでも、 あと少し早ければ、 月野君は助かったかもしれない」

「否、 違う。 月野の死まで予定調和だ。 彼が前々から有休をとっていたのは犯人に唆されたから。 旅行にでも誘われていたんだ。 きっと責任感が強いタイプだったんだろう、 彼は。 同僚が脅かされている状況で駆け落ちする、 なんて男ではないと犯人も分かっていた。 全ては計算されていたんだ。 犯人はアンタを本気にさせるために月野を使ったと思い込んでいるかもしれないが、 その実心の底では残酷にアンタを傷つけて、 永遠に自分を記憶に残したかっただけなんだよ」


 まるで言い聞かせるような口調で周は語るが、 それが明石の耳には上滑りしていることなど、 言っている彼自身も分かっているようだった。


「急いで、 警察に。 早く捕まえないと次の被害者が出かねませんから」

「次はないよ」


 立ち上がりかけた明石はその言葉にぴたりと動きを止める。

 周はどことなく沈鬱な口調で言った。

 

「これで終いだ。 だから犯人はわざと痕跡を残したんだ」

「……それでも、 野放しには出来ないでしょう」

「嗚呼――そうだね」


 周は淡く頷くと話は終いだという風に背を向ける。

 立ち上がって踵を返した明石の耳に、 「すまない」 と小さく聞こえたのは、 ただの空耳だったのかもしれなかった。



***


――犯人は捕まった。 あっさりしたほどに。

犯人像はまさに周の指摘した通りであって、 彼は確かに全てを終いにするつもりだったらしく、 逮捕時にも一切抵抗をしなかったらしい。

そして世間は大きく賑わった。 二十年以上殺人を犯し続けた男の存在が日本中に知れ渡った。


裁判はすぐに執り行われ、 弁護側は被告人の精神鑑定を依頼していたが、 その結果を待たずして事件は思わぬ終着を見せる。

犯人は末期の胃癌であった。 裁判中に吐血し倒れ、 救急病院に運ばれた。 彼には身寄りといえる身寄りはなかったが、母方の祖母が存命であった。

彼女は一時呼吸を止めた孫に人工呼吸器の装着を望んだ――やがてすぐに心拍は再開したものの、 自発呼吸は未だ戻らず、 意識もない。


故に彼はまだ――警察病院で生きている。



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