1:一卵性双生児(前編)
某年某月某日、 この日本に或る法律の制定が決定した。
様々な規約、 様々な制約がありはするものの、 一般大衆が簡潔にその法律を理解するにあたっては、 ただこの一文のみで十分であろう。
『如何なる理由をもってしても、 殺意を持って人を殺せば極刑に処される』
所謂、殺人極刑法と呼ばれる法律である。
例えそれが自らの悦楽のために行われたものであっても、 誰かを守るためのものであっても――意図して殺してしまえば其処に何らの差異はない。
法律という強者は何時からか、そう声高に語り始めた。
***
「もしこの世界の中で、 アンタと俺二人きりを残して人間が全て死に絶えたらどうする?」
剥き出しのコンクリートがそびえる地下牢で、 そう言った軒端 周の声が無機質に響いた。
ぶ厚い防弾硝子の向こうに居る彼が、 そうした "例え話" を好んでいることを明石 蝶は良く知っていた。 そしてそれに応対しない限り、 彼が延々と同じフレーズを繰り返すことも。
不本意ではあるが致し方ないというように、 明石は少しだけ考える素振りで唇に手を当てた。 リップ一つ塗っていない剥き出しのそれをそうやって撫でるのが、 思索にふける時の明石の癖だ。
暫くの沈黙を挟んで、 明石はゆっくりと手を膝に下ろし周を見やった。
「――貴方から逃げます。 他の人と同じになりたくはないから」
「どうしてアンタはそうやって捻くれた考え方しか出来ないのかな? まるで俺が全ての人間を殺したみたいに言うんだから」
「そう言う意味ではないんですか?」
不服そうな口振りの割には眉一つ動かさない周を、 明石は丁寧に観察していく。
無造作に伸ばした髪は所々跳ねて、 毛先は軽く肩を撫でている。 眠たげに落ちた一重まぶたは細くつり上がっていて、 ある人物はそれを鷹のようだと例えていたが、 どちらかと言えば獲物を狙う猫の目だと明石は常々思っていた。 油断なく光るオリーブ色の瞳など正しくそうだ。 細い首に反してがっしりとした肩幅。 座っている木製の椅子から投げされた足は外人のように長く、 全体的にスマートには見えるが決して華奢な印象は与えない。
彼の祖父はロシア人だったというのだから、 或いはその影響が彼に色濃く隔世遺伝したのかもしれない。
周はがしがしと薄茶色の頭を掻いて、 明石に言った。
「アンタは例え話の中でさえ、 俺を殺人犯にしたいの?」
「貴方は例え話の中でさえ、 人を殺さずにはいられないだろうと思って」
間髪入れずにそう言うと、 周は 「どうだろうね」とぼんやりとした表情のまま肩をすくめた。
「ただ良くある例え話だよ。 そこに至るまでの過程は考えなくて良い。 ただそうなった状況だけを理解して、 どうするか考えて」
「それでも答えは "逃げる" の一択です。 連続殺人犯と二人きりなった状況で、 それ以外にどうすれば?」
「今の状況と大して変わらないでしょ?」
今もアンタと俺は二人きりだ、 と周は気怠げに腕を組んだまま、視線だけを辺りに巡らせてそう言った。
そう。 確かにこの状況とは大して相違はない。 だからこそ本当は逃げ出したい気分で充ち満ちているにも関わらず、 明石が一向にその手の行動に移らないのは、 明石と周以外の他者がこの世界に存在しているからだ。 その唯一の理由すらも無くなってしまったら、 彼の近くに留まり続ける必要性がない。
周はつまらなそうに首を横に振った。
「新世界のアダムとイブになろうとは言ってくれないわけ?」
「それで最終的に、 貴方と共に世界を追放されて? 生憎、私はリリスの方が好みですから」
イブが作られる前に作られたというリリスはアダムの最初の妻だった。 しかしアダムと同じ製法で神に作られたリリスは、 アダムや神に従うことを拒み楽園を脱した。
それに、と明石は更に言葉を繋いだ。
「私はイブにはなれませんよ。 知っているでしょう? 私は、」
「――そうだったね。 悪かった」
凶悪な殺人犯の割に、 周は比較的素直な謝罪で明石の言葉を遮った。 最後まで言わせなかったのは彼なりの優しさなのだろうか。 明石はそんなことを思いながら口を閉ざして、 彼を見つめた。
「それじゃあお詫びとお礼を兼ねて、 今日もアンタの話を聞こうか。 アゲハ」
提案は兎も角として、"アゲハ" という呼称だけは気に障る。 明石は努めて動かさないようにしていた表情を不愉快そうに歪めた。
明石蝶の蝶の字にかけて、 きらびやかにも聞こえるそのあだ名はごく親しい一握りの人間だけのものだった。 『ちょう』 の音だけを拾ってしまえば、 腸のようにも聞こえると何ともなしに一人の友人が呼び始めたのだ。
明石は密かにそれを気に入っていたのだが、 同時にそれは他人との距離感の指標でもあった。 そうやって呼ぶことを許すのは、心を許すことに等しかったから。
わざわざ周が収容されている刑務所に通い詰めてはいるものの、 それは別段心を許しているわけではない。 けれど周もそうと知って、 それでも明石が望むようにはしなかった。
無駄だと知りながらも 「明石です」 と彼の言葉を訂正する。 案の定、 彼は聞こえないふりをした。
明石は仕方なく、 此処に来た本来の目的へと話を進めることにする。
「被害者は50代女性。 自宅にて焼死体で発見されています。 気道には熱傷が認められましたので、 恐らく火災発生時には生存していたのでしょう。 両手に縛られていたような跡が見つかっていることから、 他殺の線が色濃く考えられています」
軒端周は、殺人犯である。 誰にもそうと分からぬような殺人計画を幾つも立てて、 無差別に人を殺してきた人間である。 もう何十年という間彼はそうして生き続けていたのを、 この刑務所に収容する由縁の一端を担ったのが、法医学者 明石蝶であった。
そんな明石が何故彼の元に足繁く通い、 こうして彼に殺人事件の話をしているのかは様々な思索が絡まり合っての次第ではあったが、 兎にも角にもそうしなければいけないという義務が明石には生じていたのだ。
或いは拒もうと思えば頑なに拒めたのかもしれないが、 そうすることが間違いなくこの世界にとって有益に働くのだから我慢しよう――そんな風に思ったのは、 自己犠牲ではなく自己愛だ。 そうすることで明石は明石蝶という存在を許すことが出来る。 受け入れることが出来る。 愛することが出来る。
不意に周が短く疑問を挟んだ。
「――両手だけ?」
「ええ、両手だけ」
「足は自由だったんだ。 随分と間抜けな犯人と被害者だな」
足を縛らないままにすれば、 逃げられるし逃げることも出来る。
そうしなかった二人を間抜けと評した周に、 明石はゆっくりと首を横に振った。
「犯人は兎も角、 被害者は致し方ないでしょう。 採取した血液検査から薬物が見つかっています。 恐らくそのせいで動けなかったのか、 或いは正常な判断が出来なかったのかも知れません」
「そう、それで? それだけならこの事件はアンタの領分ではなく、 警察の領分だと思うんだけど。 被害者周辺の人間関係を洗い出し、 犯人である可能性を探る。 そういう捜査は彼らの得意分野だろう?」
「――被害者が分からないんですよ」
始終詰まらなそうな表情で視線をあらぬ所に彷徨わせていた周が、 そこでようやっと興味を持ったかのように明石の方を見る。
そうやって彼の好奇心を刺激するような話順序は、 此処に来る前にあらかじめ明石が計算していたものだった。
「被害者は自宅で発見された50代女性だって言ってたよね」
「ええ、 ですがその候補が二人」
「DNA鑑定は? 焼死体とはいえ、 火災程度なら中の組織は無事でしょ」
「出来るか出来ないかで言えば、 答えはYESです。 けれどそのDNA鑑定が無意味だったから、 警察がわざわざうちの法医学教室に足を運んできたんですよ」
明石はそう言って、ある資料を食事の挿入口から周に差し入れた。
「自宅には双子の姉妹が二人きりで住んでいたんです」
二人の写真付き資料に目を落としながら、 周はふぅんと声を漏らす。
瓜二つの容貌から見て、 彼女たちが双子の中でも一卵性双生児と呼ばれる全く同じ遺伝子を持つ姉妹であることをこの男ならば察することが出来るはずだ。
「死んだのは一人でしょ? 生きている方は?」
「現在行方不明です。 警察は姉妹の間で仲違いが起こった結果、 殺人にまで発展し、 片方が逃亡したのではないかと」
「まあそれが妥当な考えだろうね。 それで警察はアンタにどちらが殺人犯で、 どちらが被害者かを特定して欲しいと言う訳だ。 成る程ね、そう言うことなら確かにアンタの領分だ」
明石は無言で頷いた。
周は資料を片手で少し離れた距離に掲げながら、 ぺらぺらと捲っている。
傍から見れば本当に読んでいるのかも怪しいスピードだが、 彼の脳内には書かれている全ての文字が刻み込まれていることを明石は良く理解していた。
天才、 と称するには余りにもおぞましい頭脳を持つ周を、 明石は文字通りの意味で鬼才と呼んでいた。
そうこうしているうちに資料を読み終えたらしい周が、 それをぽいっと後ろに放った。
ばさりと紙の束が着地する音がして、 この防弾ガラスは分厚い割に良く音を通すな、 とそんな見当外れな感想を抱く。
「それ、 回収しなければいけませんからきちんと拾ってきて下さいね」
何時ものことながら明石がそう念を押すと、 周は一瞬面倒くさそうな視線をちらりと向けて、 やがてのろのろと椅子から立ち上がった。
壁にぶつかった其れを拾い上げて、 明石がしたように食事の挿入口へと突っ込む。 彼が乱暴に扱ったせいで紙は所々折れたり、よれたりしていた。
何も言わずに、当てつけのようにそれらを丁寧に直す明石に周が言った。
「アンタも警察も暇だよね。 双子のどちらがどちらを殺したところで、どうでもいいじゃないか。 殺人極刑法があるんだ。 どちらにしても、その犯人は捕まって一年以内に死ぬ」
「――如何なる理由をもってしても、 殺意を持って人を殺せば極刑に処される」
殺人極刑法を至って簡潔に要約した一文を明石は呟いた。 この文言がニュース欄に踊ったのはもう20年以上前のことだ。 それ以来、引き延ばしされがちだった極刑――即ち死刑が、 判決が出てからおおよそ一年以内に執行され始めたことを改めて思い出し、 明石は眉を寄せた。
「でも貴方は、 有罪判決が出てから三年以上経っているのに生きている」
「俺は特別なんだ、 色々とね。 知りたいなら教えてやっても良いけど、 アンタはそういうの知りたがらないだろ?」
周が口角を上げて嗤う。
余計なことは知らないに限る。 身の程を弁えない知識はやがて自身を破滅させる――そんな明石の矮小な処世術を熟知しているかのような素振りを見せる周に、 時折底知れぬ不気味さを感じた。
明石は敢えて何も答えずに、本筋へと話を戻す。
「周囲の人間の感情や捜査の都合もあるんでしょう。 私達がするべきことは、"必要性" を論じることではありません」
「アンタのそういうところが嫌いだよ」
「有り難うございます」
彼の言う "そういうところ" がどういう部分であれ、 殺人犯に嫌われるのは僥倖だ。 これが外界であれば、 それ故に殺される恐怖心を抱かなければいけないけれど、 幸いにして彼は檻の中。 明石に手出し出来ようがない。
「それで、 アンタが何をしたのか教えてよ。 アンタはテストの答えが近くにあると知っていても、 自分で問題を解かないと気が済まない性格だ」
「つまり?」
「そういう気の強い馬鹿なところが好きだってこと」
明石が厭がると知っていて言っているのだ。 好きだなどと宣いながらも、 周の表情は相変わらず色が無い。
そうやって人をからかうことに喜悦を見出すタイプだと、彼が明石を知っているように、明石も彼を知っていた。 そうと分かっていて、わざわざ望み通りの反応を返してやる必要はない。
明石は努めて表情を動かさないよう心掛けながら、結んでいた唇を開いた。
「難儀だったのは二人とも歯を治療したらしい記録がなかったことです」
「幸いにも姉妹揃って歯が丈夫だったわけか――いや、不幸にもか」
含み笑い気味に呟かれた言葉に明石は何も答えずに、 ただ時間を惜しむかのよように話を続けた。
「仕方なく残存している筋肉、骨などから生活状況を推察しました。 そうして分かったことは、ご遺体の女性は座っていることの多い生活を送り、 また年齢に比べて極端に骨密度が低かったことから何らかの薬物を日常的に摂取していたのではないかということです」
「しかし双子の姉妹は各々別の会社ではあったが、 同じ事務職についていた」
「はい」
やはりあの資料に書いてある情報は全て周の頭に、貯蓄されている様だった。
「薬物については姉がステロイドを飲んでいた。 ステロイドは骨密度を下げるんだったよね」
「ええ、 その予防薬も処方されていたようですが、 恐らく骨は弱っていたと思います」
「そして――妹の方は、覚醒剤かぁ」
周は独り心地にそう言って、背もたれに体重を預けた。
「あれも骨密度を下げるから、 鑑別にならないわけだ」
「他の点も色々と調べてみたのですが、 決定打と呼べるものが一つも見当たらず」
「それでアンタはこう思った。 視点を変えるべきだと――つまり、遺体がどちらであるかを探るのではなくて、殺人犯がどちらかを探る。 それならばアンタがやるよりも、同じ穴の狢である俺にやらせた方が早い」
賢いよね、 と周は真っ正面から明石を見て目を細めた。 そうしてみるとまるで彼は本当に獲物を狙う獣のようで、 明石の背筋に戦慄が走る。
機嫌を損ねてしまったか。 焦って思案するものの、 彼の疳に障るようなことを言った覚えは一つもない。
息を詰める明石を見て――出し抜けに、周が視線が緩んだ。
「やっぱり、 そういう風に怯えてくれないと」
「…………私の目的は理解していただけたようですね」
先程反応を殺したことへの仕返しだろうか。 からかわれたと知った明石は、 苛立ちを抑えて無理矢理言葉を押し出した。
「君の考えていることは一から十まで全て把握した。 力になれると思うよ。 その前に一つだけ確認したいことがあるんだけど」
周はそう言って、 組んだ足の上に手を置き、 長い指を一本伸ばした。
明石は小首を傾げて、 「なんでしょう?」 と尋ねる。
「被害者を縛っていた物はビニール紐、 と書いてあったよね。 それ自体は家にあったものだと推測されるって資料には書いてあったけど、 遺体の傍にハサミは落ちていなかった?」
「ああ、それなら。 現場写真を見たときに落ちていたのを見ました」
明石がそう答えた瞬間、 周は確信を得たかのようににやり、と笑ってみせた。