トワの大いなる学習帳:「シール」
「これはシールだ」
今まで少女のいる夢の世界へと召喚される際は何の前触れも前フリも無かったために、俺は仰向けでの睡眠状態から脳を徐々に覚醒させた後、一変した周囲の状況に気付く度に驚愕し寿命を縮めなければならなかったが、しかし先日少女に携帯電話を渡してからは、彼女が連絡してきた際に訪問の有無を問われそれに応答するという、言わば事前予約形式となったため、御蔭で俺は知らない天井への心構えを得ることが出来た――電話口で「会えるよ」「じゃあ今夜」などと語りかけている俺の姿を妹に訝しまれ、家庭内がギクシャクする、という代償はあったが――。
この事前予約にはもう一つ大きなメリットがあった。それは予め召喚されることが分かっていることで、こちら側で枕元に少女への献上品を間違いなく用意することが出来るという点である。基本的にトワ(少女の名である)は新たな知識を吸収することを目的として俺をこの白い部屋に連れ込んでいるため、俺が何も目新しいものを持っていない時は好奇心を持て余して、夢だの希望だのといった漠然とした観念の質問をし始めてしまう。そのため俺としてはこの夢の世界に来る際は必ず彼女の見たことのない物品を持参したかったのだ(寝る直前に俺が所持していたり、枕元に置いていたりした物はこの世界に持ち込むことが出来る)。今回完成を見たこの事前予約形式は、そんな俺の願いを見事に叶えてくれる素敵な商品だったのである。
「シールとは?」
「シールってのは、まぁ言うなれば目印みたいなもんだな。これを何かに貼り付けることで、それがどんなものかとか、誰のものかとかを示すんだ」
俺は床に座り、手に持っていたシールの束を床に広げた。今回俺が持ってきたのは、殆どが安くまとめ売りされていた名前シールだ。それだけでは味気無かったので、おまけとして小さい女の子が好きそうなお菓子の書かれたシール用紙を一枚だけ混ぜ込んでおいてある。
「お前字書けたよな?ほら、ペン持ってきたから、トワの持ち物に貼っときな」
そう言って俺は、興味津津といった様子で覗きこんでいた彼女に黒の油性マジックペンを渡した。
俺が今回名前シールを持ってきたのには理由がある。この夢の世界の少女は自分が知り得た情報を自分に適応することでその本質を適宜変化させる存在だ。あえて例えるなら、鏡なのである。鏡は何も映さない限り何も映らないが、何かを映すと何かが映る。彼女もそれと同様に自分の心に物事を映し、自分というものを形作っていた。鏡と違うのは、映ったものが虚像ではなく彼女という本体であるということだ。俺はこの少女の性質を理解出来ていない頃から彼女に物や知識を与えることで彼女を少しずつ定義づけてきた。その問答は先日、とうとう死生観について少女に語り聞かせるところまで辿りついていた。彼女が死生観を知る、それはつまりトワがいつか死んで、その死に向かって生きるようになるということである。生を獲得したのだ。それは存在の変化としてはとても大きなものであることは間違いないし、俺はその変化に対して世界や少女自身の崩壊も考慮するレベルの気構えで臨んでいた。
しかし、その後も特に少女に変化は見られなかった。表情は少しずつだが明らかな差異が見られるようになり、どこか超然としていた物腰も人間らしくなったように思う。何より人間というものや、生きるということに好意的で、積極的に関わろうという姿勢を明確に感じるようになった。しかし、それだけだった。少女は未だに人間では無かったし、現実の世界の存在でもなく、この夢の世界の白い部屋も変わらず在り続けているのだった。
何故変化が起きないのか、俺には見当もつかなかった。もし少女を「少女」たらしめるために一から十までの完璧な概念の投影が必要なのだとしたら、俺にはもうお手上げだった。だからその辺りの結論に決着がつくまでの間、とりあえずの模索として俺は彼女を更に強く定義付けすることにしたのだ。それがこの名前シールを持ちこんだ動機である。俺はこれを使って、彼女に自分自身や個々の品物を改めて強く規定させ、意識させる心づもりなのである。
少女はペンのキャップを外すと、手始めに自分の名前を書いて用紙からシールをはがし、自分の胸元へと貼り付けた。何故歯ブラシも知らない少女が文字を書けるのか俺にはサッパリ分からなかったが、書ける分には困らないので深く追求しないことにした。トワはシールの貼られた自分の胸元を暫くの間ボウっと眺めていた後、唐突に何度か頷いてみせた。
「私だ」
「あぁ、そうだな」
「これは何?」
少女が一枚だけ派手に着飾った柄付きシールを指さして言った。
「あー、これは、おまけだよ。名前とか書かないで、好きなところに好きなように貼るためのもの」
「・・・つまり、オシャレだな」
少女が腑に落ちたように傾げた首を戻した。
「まぁ、そうとも言えるかもな」
少女は子供用シールを掴むと勢いよく立ち上がって、俯いて自分の全身を確認しながらブツブツと呟き始めた。一枚ずつ慎重に用紙からシールを剥がし、一張羅の白いワンピースへと貼り付けていく。角度を変え、距離を変え、気に入らない時は剥がしてもう一度貼り直し、じきにワンピースはシールだらけになっていった。それはつい先日までファッションというものに強い抵抗を抱いていた存在とは思えない変わりようだった。先程変化が無いなどと考えたが、訂正しなければならないな、と俺は頭を掻いた。劇的では無かったが、それでも確実に少女は変わり始めていた。
「アキラ」
シールを全て貼り終わったトワがこちらを向いて全身が見えるように手を大きく広げた。相変わらず表情は無かったが、瞳は若い輝きで溢れていた。明らかに舞い上がっている。笑っているようにすら見えた。
「どうだ?オシャレか?」
「あぁ、悪くないな」
今日学んだこと
シール・・・ファッションの一つのあり方。
・自身の所有物を明確にする効果も持つ。
・ラベルやレッテルと呼ばれる亜種もあるらしい。