三月二十六日 Side 蒼樹 01話
「光のもとで」の主人公翠葉が留年するきっかけとなった出来事のお話です。
三月二十六日、その日は最高気温が二十五度まで上がった異例の日だった。
三月半ばには例年よりも暖かい日が続いていて、桜の開花時期も早まるだろうと言われていた。
俺は、妹の入学式まで桜がもつといい――そのくらいにしか思っていなかった。
* * *
土曜日の講義は午前の二時間で終わる。
そのあとは、いつもと同じように高校時代の先輩のもとへ行くことになっていた。
院に進むとはいえ、そろそろ就職のことも考えないと……。
そんなことを考えながら、大学と同じ敷地内にある高校へと足を向ける。
藤宮秋斗先輩――俺の二個上の先輩は藤宮警備の跡取りで、今は高校の一室に職場を確保している。
一年は本社に勤務していたものの、気づいたときには高校に居ついていた。
「蒼樹、社会人ってすごく面倒くさいよ。本社になんていたら媚び諂ってくる人間多すぎて、まとまった作業時間の確保もできやしない。こっちは部屋に篭って仕事したいのにさ、手を変え品を変えの勢いで人間が出たり入ったりするんだからたまらない。みんな仕事ないの? って訊きたくなるくらい。面倒くさすぎて出てきちゃったよ。システム開発のほか、高等部のセキュリティ管理って役職を兼任する形でね。ここはいいよー。こんなにのびのびと仕事できるんだったらもっと早くに出てくるんだった」
嘘偽りなく秋斗先輩の言葉。
その面倒な部分もこなしてこそ社会人と言うんじゃなかろうか、とは思うものの、通常業務以外の仕事を抱えてでも出てきたかったのだろう、と納得することにした。
十分ほど歩くと高校の敷地内にある図書棟にたどり着く。
図書室への入り口はカードキー。中に入るとカウンター奥にあるドア脇のインターホンを押す。
『はい』
「蒼樹です」
カチリ、とすぐにロックが解除された。
中はとても殺風景である。
適当に見繕ってきたんだろうな、と思われる本棚と、会議室から持ってきた間に合わせの細長いテーブルが三つ。
それらに対しアンバランスな椅子が三つある。どうやら、椅子だけはいいものを入れたらしい。
「頼まれていた資料、持ってきました」
「助かる」
言うと、大きく伸びをした。
「コーヒー、淹れましょうか?」
「あー……頼む」
眉間を手で押さえているところを見ると、根詰めて仕事をしていたのだろう。
先輩はハーフと見間違えるほどに顔の彫りが深く、整った顔をしている。この、人目を引く容姿の持ち主は、女性関係に節操がない。
高校のときは知らなかったけど、自分が大学に入ってより親しくなってからそういう部分を垣間見るようになった。
実際に街中で見かけたことはないものの、携帯の使い分けをしている時点で自分と価値観が異なるのだと察した。
いつだったか訊いたことがある。好きな人、というわけではなく遊びなのか、と。すると、
「特定の相手を作るつもりがないだけ。そいうのをわかってくれる相手なら誰でもいいかな? そういう関係を互いが楽しめれば」
「いや、それって……」
「あぁ、そうか。こういうのを遊びって言うのか」
悪びれるでもなくそう答えた秋斗先輩とは、以来恋愛観の話はしていない。
自分が潔癖な人間であれば毛嫌いするタイプなのかもしれない。でも、俺は自分が関与しない部分と割り切って付き合える性質で、とくだん自分の価値観を相手に求めるることも相手を否定することもなかった。
先輩の前にコーヒーを差し出すと、何か思い出したように口を開いた。
「今日さ、俺の従姉弟が来るんだ」
脈絡のない話にどう答えようか考えていると、
「ひとりは今年高校一年になる。司っていって、それなりに頭のいいやつ。たぶん、俺のもとでバイトすることになると思うよ」
「じゃ、俺も会うことがありそうですね」
「うん。だから今日会っていかない?」
「は?」
「もうそろそろ来ると思うんだけど……」
言いながら時計を見て、話を続ける。
「もうひとりは女医。俺の四つ上なんだけど、この人も頭がいいっていうか、抜群に切れ味がいい。つい先日、あっさり病院辞めちゃってさ、今年度から高校の校医になるみたい。太陽が沈んだら仕事は終わりにするもんだ、とか正論のように口にする人」
それはそれは……。
「ふたりとも面白いから会っていきなよ。十二時には来るって言ってたから――」
先輩の言葉半ばでインターホンが鳴った。
ロックを解除し、
「いらっしゃい」
と、にこやかに迎える。
「蒼樹、紹介する。この人が女医の湊ちゃん。で、こっちのそっくりさんが司。湊ちゃん、彼は御園生蒼樹。俺の二個下の後輩。生徒会つながりなんだけど、今は仕事の資料を見つけてきてくれる貴重な人材」
「ふーん……。藤宮湊よ、よろしく」
と、女の人にしては大きな手を差し出された。翠葉の手とはずいぶん違う。身長も百七十はあるだろう。
「御園生蒼樹です」
握手に応えると、相応の力をこめられしっかりと握手を交わした。
「藤宮司です。……秋兄、この人パシリにしてたりしないよね?」
な……!?
「さぁ、それはどうだろう?」
「御園生さん、嫌なら嫌ではっきり断らないと際限なく押し付けられますよ」
「……心配、してくれてるのかな?」
苦笑を返すと、
「別に心配しているわけじゃなくて事実を述べたまでですが?」
はぁ、そうですか……。
「どうかな……。ここには興味本位で通ってきてるようなものだし、確かに資料集めは頼まれるけど、俺も先輩から教わるものは多いから、そんなに負担には思ったことはないよ」
「そうですか」
……今年高校一年って翠葉と同い年だろ?
それにしてはしっかりしすぎていないだろうか……。
司くんはお姉さんの湊さんとよく似た顔立ちで、かなり整ったきれいな顔をしている。
身長も髪の長さもほぼ同じ。メガネは司くんがフレームなしで、湊さんが赤いセルフレームという差のみ。
遠目ならば双子と見間違えるかもしれない。
従兄弟とはいえ、秋斗先輩とは全然似ていなかった。
顔どころか、放つ雰囲気すら異質だ。
すごく神経質そうな出で立ちだが、物言いははっきりすぎるくらい。
「司くん、しっかりしてるね? うちの妹と同い年なんだけど、全然感じが違う」
「……妹?」
「翡翠の翠に、葉っぱの葉で翠葉っていうんだ。臆病な子だけどいい子だよ。いつか友達になってあげてよ」
この言葉に対して次のような言葉が返されると誰が想像しただろう。
「……藤宮の名に集らない人間なら考えておきます」
ふとしたら開いた口が塞がらなくなりそうだった。
しかし、そこにはやはり"財閥"ならではのしがらみがあるのかもしれないと思い直す。
「たぶん、翠葉はそういうのに興味は示さないと思う。何せ、ピアノとハープ、カメラが趣味っていう子だから」
話すと、湊さんが笑いだした。
「ピアノにハープってすごいわね!? そこらのお嬢様よりお嬢様らしい習い事じゃない」
「え……うち一般家庭ですってば」
それに、この高校にはお茶やお琴、いけばななどを嗜む女子は大勢いる。それからしてみたら、普通ではないだろうか?
「ピアノはわかるけど、ハープって普通じゃないでしょ?」
秋斗先輩に言われて、そういうものなのか、と疑問に思う。
「あぁ、もしかして大きなグランドハープ想像してます? 違いますよ? 翠葉がやってるのはアイリッシュハープっていって、オケで見るような大きなハープじゃなくて、高さが百五十センチくらいのフロアハープです」
補足程度に話してみたけど、あまり効果はなかったようだ。
「それ、容姿が伴わないとつらい楽器じゃない?」
楽器に容姿云々関係するんだろうか、と思いつつ、ちょっと自慢をしたくなる。
「いや、それが……うちの妹めちゃくちゃかわいんですよ。それはもう天使か妖精のように」
割と真面目に、自信ありげに説明したつもり。
実際、兄の俺が言うのもなんだが、翠葉は本当にかわいい。それはもう、今から将来が楽しみなくらいに。
次はどんな形容で翠葉を自慢しようかと思っていると、
「出た出た……。蒼樹は妹大好きだからね。司、そのうち嫌でも色々聞かされるよ」
と、秋斗先輩が笑った。
「それにしても……」
湊さんが部屋の中を見回し、呆れたようにため息をついた。
「相変わらず何もない部屋ねぇ……。少しくらい手を入れればいいのに」
言いながら、椅子に座りピザを出し始めた。
「んー……そのうちやるよ。あっ、そうだ! 蒼樹のデザイン起用してあげるよ?」
まるで何かのついでのようにそういうことを言う。
この人のこういう言葉は冗談なのか本気なのかがわからなくて困る。と、
「御園生さん、ちゃんとデザイン料を決めてから取り掛かったほうがいいですよ」
紛れもなく司くんからのありがたいご指摘だった。
一癖ある姉弟だな、と思いながらその場の会話を聞いていた。
姉弟間にはほとんど会話がない。否、どちらかと言うと、湊さんからはかまいたくて仕方がないという空気を感じるものの、司くんがそれを一切許さないというか……。
この姉弟もかなり年の差があるようだけど、うちとは全く違う姉弟関係に新鮮なものを見ている気分だった。
よそ様の兄妹事情はあまり知らないけど、普通はこういうものなんだろうか。
うちは兄妹仲が申し分ないくらいいいため、こういう会話のない感じが不思議に思える。
さらには従兄妹という対象がいないため、実に興味深いものを見ている気分だった。
そこに、普段はめったに聞かない着信音が流れた。
一瞬戸惑う。
母、碧の着信音だ。しかも、電話――。
うちの母親は電話と言うものをかけてこない。
たいていならメールに一言二言容赦ない用件を電波に乗せて飛ばしてくる。
「電話なんてなんか緊急事態でもない限りかけないわよー」
と、言っていたのはいつのことだったか……。
とにかく嫌な予感がしていた。
「出ないの?」
秋斗先輩に声をかけられ、我に返る。
「いえ、出ます」
「女だったりして?」
湊さんがからかいの一言を口にした。
「母です」
沸き起こる嫌な感触を振り払って携帯に出ると、
『蒼樹っ!? 病院へ行ってっ。翠葉が心不全で運ばれたのっ。私たちも今病院に向かってるのだけど、渋滞にはまっちゃって動けなくて。お願いっ、蒼樹、先に病院へ行ってっ』
母の、すごく切羽詰った声が耳に響く。
こんな声、聞いたことがない。
心不全って……心臓が止まったっていうこと?
『蒼樹っ、しっかりなさいっ』
「……わ、わかった。すぐに行くっ」
何を考える余裕もなかった。
とにかく、早く病院へ行かなくては――。
はじかれるように席を立ち、ドアに向かおうとしたら思い切り腕を掴まれた。
「蒼樹っ、待てっ。お前、真っ青だ。どうしたっ!?」
「病院に行かなくちゃっ」
「その前に少し落ち着けっ」
このとき、病院へ行くことしか頭になくて、周りなんてほとんど見えていなかったと思う。
そんな俺を引き止めてくれたのは秋斗先輩と司くんだった。
体に抵抗を感じた次の瞬間、パンッ――。
頭を殴られたのかと思うくらいの衝撃が頬に走った。
目の前に険しい顔をした湊さんが立っていた。
あぁ……あの大きな手で叩かれたのだろう。
前方から肩を押さえていたのが司くんで、後ろから腰に腕を回して引き止めていたのが秋斗先輩だった。
「何があったっ!?」
秋斗先輩は、「吐け」と言わんばかりに訊いてくる。
「妹が……意識不明で運ばれた――」
どうして心不全と言わなかったのかわからない。ただ、受け入れたくなかっただけなのかもしれない。
「搬送先は?」
湊さんに訊かれ、
「藤宮病院」
答えると、秋斗先輩がジャケットを手に取り立ち上がった。
「車出すから乗っていけ。うちの私有地を抜ければ五分とかからない。表通りのバスより早い」
「すみません……」
「ほら、行くぞ」
秋斗先輩に促されるように部屋を出たあとは、ひたすら先輩の背中を追って走った。
車ならたった数分という距離なのに、もう何十分も乗っている気がした。
震えが止まらず、自分の体を抱き閉めるようにして両腕を掴む。
俺がもっと早く家に帰っていたら、こんなことにはならかったのか……?
「蒼樹、着いた。突き当りを右に突っ走れ。左手に救急外来の受付がある」
俺はお礼も言わずに車を降りて走った。
翠葉の顔を見たくて。無事な姿を見たくて――。




