第7話
戦車の下というのは意外によい寝床だ。あらかじめ地面を掘り下げなければな
らない物の、それなりに雨風をしのげるし腕や足も伸ばせる。いざとなればすぐ
さま戦車によじ登って配置につくことも出来る。ただし、安眠を貪るためには自
分の頭上に数百キロにも及ぶ弾薬と燃料が鎮座していることは忘れておく必要が
あるが。
そんな「戦車ベッド」をヴィクトルは今日始めて恨めしく思った。
寝ぼけ眼のまま戦車に急いで乗り込んだために足を踏み外し、ハッチの縁で額
を引っぱたく羽目になったからだ。夜が明けるか明けないかといった午前5時頃、
手回し式サイレンの猛烈なモーニングコールで兵士達は目を覚ました。敵襲を告
げるサイレン音に急かされるよう、眠い目をこすりながら武器を取る。ヴィクト
ルもまた急いでおのが戦車に乗り込んだのだが、その時にぶつけたのだ。少女達
は戦車ベッドではなく、地べたで3人寄り添って寝ていた。別段慌てる様子もな
くいつも通り戦車に乗り込む少女達。これではまるで俺が馬鹿のようではないか、
などと自虐しつつ左手で額をさすり右手で車内灯とベンチレーターのスイッチを
入れるヴィクトル。主砲を挟んで反対側、おぼろげな光の向こうに、痛がる自分
を不思議そうに見つめるソフィアが見えた。恥ずかしい気もするがそれはそれだ。
各員に矢継ぎ早に指示を出す。
「エカテリーナ、中隊本部へ繋げ。アナスタシヤ、エンジン始動させろ。圧搾空
気でだ」
戦車帽を被りハッチから身を乗り出す。双眼鏡を取り出して前方を見てみるが
薄暗くてよく分からない。目で見てダメなら耳を澄まそう、そう思った瞬間エン
ジンが回り出し、いつもの騒音と黒煙をまき散らし始める。
「兄弟! 敵はどっちから来る? 何人だ?」
T-34のすぐ隣、5mくらい離れたタコ壺から様子をうかがっている歩兵がエン
ジンに負けないくらいの大声で叫んだ。皆目分からん! とヴィクトルも叫び返
し、また双眼鏡に眼を押しつける。
ふと、空が明るく光った。驚いて見上げると、空高く打ち上げられた物体が真
っ白い光を放ちながらゆっくりと落ちてくるのが見える。ありがたい事に気の利
く誰かが照明弾を打ち上げてくれたらしい。北の方角、第1中隊が布陣する辺り
で閃光が走ったような気がした。耳を澄まそうにもエンジン音がうるさくて何も
聞こえない。
「中隊本部、繋がりました!」
エカテリーナが報告する。どうやらドイツ軍の斥候が威力偵察を行っているそ
うだ。複数の装甲車が発見されたそうだが、それ以上のことは分からない。そも
そもこれが単なる偵察か、本気の攻撃の前触れかも判断が付かない。後者だとし
たら最悪だ。薄く薄く伸びた戦線などドイツ軍は腕一本で突破してしまうだろう。
「こちら223号車、正面右の森で何か光ったように見える。確認出来ないか」
僚車に言われるがままそれとおぼしき場所をのぞき込もうとした瞬間、照明弾
の光が消えてしまった。次弾が打ち上げられるまでの数秒がもどかしい。再び明
るくなった視界を獣一匹逃がすまいとにらみ付けると、木々の影にうっすらと角
張った物体が見えた。
よく目をこらしてみると、巨大なタイヤを付けた装甲車がこっそりとこちらへ
進撃してきているのが確認できる。その足下では何かがうごめいているようだ。
そそくさと駆けていくいくつもの塊。上にくっついている丸い物がヘルメットだ
と分かると、脳が自動的に目に捕らえた映像を補完する。ぼやけた輪郭は急にハ
ッキリと見えるようになった。歩兵だ!
「221号車より各車、1時方向に敵装甲車。敵情不明につき壕から出ずに引き
つけろ。命令あるまで発砲するな。繰り返す別命あるまで発砲禁止だ。ソフィア、
榴弾込めろ!」
砲弾を込めたところでこの暗さではろくに狙いも付けられない。相手が不用意
に近寄って来るまでじっとしているのが吉だ。ソフィアが床下から砲弾を取り出
し、砲尾に押し込む。軽い金属音がして砲弾が吸い込まれた。戦車の外では歩兵
達が小銃に弾を込め、いつでも撃てるよう準備しつつ塹壕の中で息を殺している。
敵が近づいてくるにつれ、そのシルエットは少しずつ少しずつ明確になってゆく。
直線主体でデザインされ、三角や四角の板を張り合わせて組み立てたような8輪
装甲車。その少し後には前方にタイヤ、後方に履帯という二つの走行装置を持つ
歩兵輸送用のハーフトラック。
距離は500mを切っている。余りに不注意だな、とヴィクトルは思った。3
00m程離れた地点に布陣している第3小隊はすでに砲火を開いていたので、そ
の閃光に気を取られていたのかも知れない。だからといって情けを掛ける理由も
意味もあるまい。レシーバーを手に取り声を発する。
「222号車、223号車、敵は見えてるな。221と222は先頭の8輪装甲
車を叩く。223は後方のハーフトラックを狙ってくれ。221号車が発砲次第、
各個の射撃を許可する」
「パーヴェル車了解」
「223号車了解」
イヤホンの向こうから部下達の返事が聞こえる。完全な奇襲、やれるはずだ。
「よし、照準しろソフィア。……撃て!」
慎重に狙いを付けたソフィアが発射ペダルを踏み込む。薄暗い中で放たれる戦車
の発砲炎は一際明るく周囲を照らし出した。装甲車の左前方フェンダーに命中し
た榴弾が炸裂。タイヤとその懸架機構を盛大に引きちぎり、車体前半をクシャク
シャに歪め、たちまち走行不能にした。車体の上に乗っている砲塔が慌ててこち
らへと回り始めた次の瞬間、パーヴェル車の放った砲弾が側面に飛び込んだ。小
さな爆発が起きたきり、装甲車は沈黙してしまった。その光景を見たハーフトラ
ックは急停止。
しかしそれが逆に狙いを付けやすくしたのか、223号車の砲弾が正面から命
中。派手な爆発を起こして鉄屑となった。
ソフィアが初弾を撃ってからわずか20秒にも満たない間の出来事だった。
「装甲車、撃破」
「ハーフトラックを撃破」
無線機から景気の良い報告が入ってくる。しかしこれらは激戦を告げる最初の
一発、号砲でしかないだろうとヴィクトルは予感した。気を引き締め直してから
双眼鏡をのぞき込む。今日は長い日になりそうだ。
「――よって付近の空軍は現在全力で防空戦闘中につき支援は期待できない。逆
に言うと敵機を気にする必要も無いわけだ。以上が我々の置かれている状況だ。
よく覚えておけ。敵の攻撃は近いぞ、各員再度武器と陣地を確認を忘れないよう
に。……それにしてもまったく、今日も暑いな」
日が昇り始めたばかりにも関わらずギラギラとした日差しを送り込んでくる太
陽を恨めしそうに中隊長が言った。
ちょっとした小競り合いの後ドイツ軍はそそくさと後退し、あっという間に元
通りの静かな平野が取り戻された。なだらかな丘の向こう、道路沿いにソヴィエ
ト軍が陣地を展開している事をその目に焼き付け、彼らは姿を消した。
静けさが戻ったとはいえ、平和が戻った訳ではない。付近での戦闘が終わると、
直後に中隊長からヴィクトルら各小隊長に呼び出しが掛かり、現在の状況と各隊
への指示が伝えられた。中隊本部近くに張られた天幕の中で立ったままのブリー
フィング。本部付きの兵士達が慌ただしく動き回るのを尻目に第3、第1中隊か
らの戦闘報告が伝えられる。
こちらも偵察隊を出したところ敵の部隊を見つけたこと。大隊規模と推定され
る戦車と歩兵の混合部隊であること。彼らの様子から、ほぼ間違いなく今日中に
こちらへの攻撃があること。そして敵の中にはあの虎戦車が混じっていること。
虎戦車、と聞いて皆の目に不安の色が浮かんだ。その不安とは理性の物差しで
測ることが出来ない心理的なものであり、要するにお化けや悪霊に対する不安と
同じものであった。いくら砲弾を撃ち込んでも奴は死なないのではないか、とい
うほとんどパニック同然の噂すら流れていた。お化けの死体が見あたらないのと
同じく、虎戦車の「死体」を見たことのある兵士は皆無だった。それは虎戦車を
見かけること自体がほとんど無いのが理由であったのだが、逆にそのせいで虎戦
車への「恐怖症」はさらにエスカレートしていった。
自分の背中に嫌な汗が流れているような気がするのをヴィクトルは感じた。
一通り話が終わると、次にこの近辺の地図が1枚ずつ小隊長達に配られた。急
いで作ったらしいガリ版の出来が良くない地図に書き込まれている地名のおかげ
で、ヴィクトルは自分たちが「地点149」ではなく「イルサスカヤ」という場
所にいて、その名前の元になっている村落が北数kmの所にあるのだと始めて知っ
た。
その地図にはまた、縦線と横線が等間隔に刻まれており、砲兵に目標を伝える
際のグリッドが図示されていた。「支援してくれる砲兵など何処にも居ないじゃ
ないか」と誰もが思っていたが、口にはしなかった。居ない人間を怒り付けたっ
て得る物はない。援軍は来るだろうさ。敵が来る方が早いかも知れないが。
中隊長は一瞬呆れた顔をし、次の瞬間には眼光に鋭い光を戻すと、袖をめくっ
て腕時計を眺めた。
「本防衛計画は重要な戦闘につき時計を合わせたい。全員時計を出せ。現在午前
7時11分……さん、にい、いち、今」
ヴィクトルも自分の時計のツマミを回して時間を合わせる。それでブリーフィ
ングはお開きとなり、小隊長達も駆け足で自分の戦車へと戻っていった。ヴィク
トルもそれに続こうとしたところ、中隊長から呼び止められた。
「君は虎戦車のせいで酷い目にあったのだったな。これを読んでみてくれ。敵の
斥候が来る直前に届いた」
そう言いながら一枚の紙を渡す。大隊から中隊への命令文書だった。
「敵『地点149』西7kmニテ攻勢準備中。本日中ニ我ガ大隊正面ニ進出シ突
破ヲ目論ムト思ワレル。目的ハ『鉄道分岐点』ノ制圧ナリ。各戦車中隊ハ街道沿
イニ構築サレタ陣地ニテ防御戦闘ニ努メ、此ヲ撃退スベシ……」
やれ敵の兵力はどれだけだの、我々は何処で守るだのと中隊長が言ったのと同
じ事がうだうだと書いてあった。ただ、その最後に申し訳なさそうに短い不思議
な文章が乗っていることにヴィクトルは気がついた。
「尚、敵『虎戦車』ニ対シテハ至近距離デノ側背面ヘノ射撃ヲ厳命スルモノナ
リ」
襟元を掴んで前後させ服の中に涼しい空気を送り込みつつ、中隊長は言葉を選
んで喋り始める。
「大隊がわざわざ敵の撃ち方まで指図してくるとは珍しい。彼らも虎恐怖症と言
う訳だ。虎を見たことが無いのに想像と伝聞だけで怯える。幽霊並みの扱いだ。
だがまぁ、何事も最初の一度が一番怖いものだ。で、君は幸運なことに『はし
か』を済ませている」
命令書とヴィクトルを交互に指さしながら中隊長は笑みを浮かべた。
「『虎狩り』をしろと言う訳ではないが、怯える連中の尻を蹴ることぐらいは頼
まれてくれないかね」
「やりますよ。やれるだけは」
「期待しているぞ。一度拾った命だ、死に急ぐなよ」
敬礼してから退出し街道を昨日と同じように一人歩く。街道の向こうから、こ
れまた昨日と同じように土煙をあげ頼もしい増援がやってきた。砲兵用トラクタ
ーに牽引された76mm野砲ZiS-3が8門。野砲としても対戦車砲としても
使われている高性能な大砲だ。しかし、今からでは陣地を掘る時間があるまい。
どうするのだろうかと思いながら歩みを進め、我が221号車へとたどり着く。
陣地に戻ると車外で少女達が朝食を取っていた。朝食と言っても黒パンの他に
は正体不明のごった煮が飯ごうに半分ほど配給されただけ。蜂の巣をつついたよ
うな騒ぎの後では熱い物が食えるだけありがたいと思っておく。
「『戦利品』でも缶詰でも食えるだけ喰って飲めるだけ飲んでおけ。次は何時飯
が食えるか分からないぞ」
少女達に語りかけつつ先ほどの地図を取り出す。昨日アナスタシヤと歩いて確か
めた地面の具合を記した紙も胸ポケットから出し、地図に書き写した。さっさと
書き写したらごった煮が冷めないうちに頂くとする。車内から戦利品の缶詰と水
筒を取り出し少女達の輪に加わる。
「ねえアナスタシヤ。その豚肉のスープ煮、一口いい?」
「ええよ。はい、あ~ん」
二人が楽しそうに喋る中、眠そうな目をするソフィアはいつもの飴を舐め始め
ようとした。そりゃないだろうと慌ててヴィクトルは止めに入る。
「おいおいソフィア、いくら何でも朝食代わりに飴は無いだろう。ほら、これを
やるからしっかり食べるんだ」
そういってランチョンミートの缶詰押しつける。が、直後に奪い返し、丁寧なこ
とに缶の蓋を切った上で再度押しつける。半分寝ているソフィアがまともに缶切
りを使えるとは思えなかったからだ。
「ヴィクトルさんってば、まるで旦那様みたい」
「せやねぇ。甲斐性あるし、ええ旦那になりそうやね」
一斉に笑い声を上げるエカテリーナとアナスタシヤ。ソフィアはしばし寝ぼけ
眼のままポカンとしていたが、アナスタシヤの言葉の意味をようやく理解すると
両手を頬に当て顔を真っ赤にした。それを見てさらに2人は攻勢を強める。
「ふたりとも、からかわないで。恥ずかしい……」
「ほな、ソフィアはんはヴィクトルはんの事が嫌いなん?」
「そんなことは、無いけど」
「もっと甘えればいいのよ。『あ~ん』ってしてもらったりとか。なんだか家族
みたい」
しょうもないガールズトークだがヴィクトルの顔からも火が出そうになった。
2人の冷やかしを可能な限り無視しつつ、自分の缶詰を開ける。豚の脂身の塩漬
けであるサーロの缶詰だ。ついでに肉入りカーシャの缶詰も。あの鋼みたいな堅
パンも水に浸して柔らかくし、チーズを乗せて囓る。ソフィアも水筒のお茶を一
杯飲むと、ようやく食欲が出たのか朝食を食べ始める。おしゃべりをしながら4
人で食べる食事。戦場でさえなければ確かに家族の食事風景そのものと言えただ
ろう。
いや、少なくともヴィクトルにとってはもはや家族同然だ。戦車はチームで動
かすものだ。生きるも死ぬも一蓮托生。不仲な人間4人が乗って戦える兵器では
ない。だから戦車兵は互いを信頼し合い、守り合う。戦場という絶望的に孤独な
世界で、自分を守ってくれるのはクルーだけ。そしてクルーを守れるのも自分だ
け。そう、同じ戦車に乗っているクルーだけは絶対的なまでに「そばにいる」の
だ。戦車が鉄パイプ付きの自動車になるか、あらゆる状況を打破できる優れた兵
器になるかは自分たちのチームワーク次第。彼女たちのことをひよっ子などと言
って笑う奴が居たらその口に鉛弾を詰めてやる。彼女たち3人はもう何処に出し
ても恥ずかしくない立派な戦車兵だ。少なくとも指揮官である自分はそう思って
いるし、そう思えないようならお仕舞いだ。
そんなことをつらつら考えていると、エカテリーナと目があった。彼女は何か
察したような表情をすると、豚肉を飲み込んでこう告げた。
「あたし、みんなのこと家族だと思ってるから」
「どないしたん? 急に」
アナスタシヤはポカンとした顔をしたが、少し考えてから続けた。
「ウチも、3人のことめっちゃ好き。大好きよ。家族……はちょい恥ずかしい
わ」
そう言って少し顔を赤らめて視線をそらすアナスタシヤ。その先にはソフィア
が居た。ソフィアはスプーンを運ぶ手を止め、うつむいてしまう。彼女が志願す
るに至った理由についてはエカテリーナもアナスタシヤも知っていた。誰もが口
を閉じ、痛々しい沈黙が訪れる。ポケットからいつもの写真入れを取り出すソフ
ィア。握りしめたそれをじっ
と見つめる。ここからでは表情を読み取ることは出来ない。
「みんなは、私の家族とは別の人たち」
すっと、ソフィアが顔を上げた。そこに浮かんでいたのは泣き顔でも敵愾心に
燃える顔でもない。エカテリーナやアナスタシヤ、そしてヴィクトルと話すとき
だけ見せるにこやかな顔だった。
「でも、新しい家族になら、きっとなれる」
「ソフィア!」
我慢できずにエカテリーナが抱きついた。彼女の目にはうっすらと涙が――悲
しくて流すのではない涙が浮かんでいる。同じように目を赤くしたアナスタシヤ
もソフィアに抱きつく。両脇をしっかりと抱かれたソフィアはまた顔を赤くした
が、目だけは決意に満ちあふれていた。おずおずとヴィクトルに右手を差し出す
ソフィア。しっかりと握り返すヴィクトル。小さく暖かい手だった。
一通り食事が済んだ後、頃合いよしと見たヴィクトルが上衣のポケットから缶
詰を出し、蓋を切って中身を3人に見せる。
「とっておきのデザートだ。パーヴェルから仕入れた極上品だぞ」
「リンゴのシロップ漬け!」
エカテリーナがたまらず声を上げた。彼女にとって甘い物は完全装備の1個旅
団より貴重だ。いや、彼女だけではない。アナスタシヤはもちろん、ソフィアに
すら「おぉー」と小さな驚きの声を挙げさせるだけの価値があった。
銘々が一つずつ口にする。口に入れた瞬間、体がバラバラになりそうなほど強
烈で、にもかかわらず実に心地よい甘みに襲われた。口の中で頬に押しつけると
シロップがしみ出る事しみ出る事。もう干からびただろうと思って噛むとまだし
み出る。4人が4人、妙なうなり声や弾んだ声を出し全身で味わった。
戦場の真ん中で! こんなにも甘い物が存在する事が許されるのか! この甘
く、甘く、そして甘いシロップ漬けを平らげるまで時間にしてみればたったの3
分か4分だっただろう。
しかしこの3分が、兵士に戦争に耐えるだけの力を与える。
たらふく食べた後一服する間もなく各戦車長との打ち合わせをし、戦闘前の最
終確認。燃料弾薬、そして「規定の100グラム」の配給を受け取る。ヴィクト
ルは前回と同じくウォトカの替わりに飴にしてもらった。どのみち戦闘の直前や
最中にアルコールを飲んで景気を付けるような勇気はない。
ほぼ同じタイミングで3トントラックが小隊に割り当てられた分の砲弾を持っ
て来た。弾薬箱を地面に並べると彼らはすぐさま去ってゆく。砲弾が入っている
木製の箱を開けたエカテリーナがその中身を見てぼやいた。
「これ、全部磨くんですよね」
砲弾の補給と一口に言っても、木箱から砲弾を取り出し、表面に分厚く塗られ
たグリスを拭き取り、車内に押し込んだ後床下のケースに入れるという面倒くさ
い工程が待っている。時には1時間以上、延々と砲弾を磨く作業が続くこともあ
った。
「文句は言わないで。大事なことだから」
流石砲手は心得ていると言うべきか、ソフィアはエカテリーナを諭すとボロ布
片手に黙々と砲弾の山へ挑む。朝方の戦闘であまり砲弾を使わなかった分配給さ
れた砲弾の数はそう多くないが、のんびり磨いている暇はない。徹甲弾、榴弾、
高速徹甲弾……榴散弾や見慣れない発煙弾もあった。高速徹甲弾は砲手席横と車
長席横にあるケースに全て入れる。床下の弾薬庫とは異なり砲弾を速やかに取り
出せるからだ。
弾頭が軽く作られている高速徹甲弾は通常の徹甲弾より初速が早い。その一方、
弾頭内部には堅く重いタングステン製の弾芯が使われている。結果として数割増
しの貫通力が得られる。欠点としてはタングステンが戦略資源なため、1両に付
き5発も割り当てがあれば万々歳という程「品薄」な事だ。今回はたったの1発
しか支給されていない。前からT-34に積んでいた分を足しても4発あるだけだ。
この高速徹甲弾が虎戦車との戦いでは切り札になる。
が、これを持ってしても正面装甲を突き破るのは難しい。事実、あの日ヴィク
トルが放った砲弾はごく至近距離で発射されたにもかかわらず虎に致命傷を負わ
せることが出来なかった。如何にして装甲の薄い側面、可能ならば背面に回り込
むかが問題になるだろう。問題になるだろう、などと他人事のように考えてみる
が、そんなことが簡単にできる訳もない。随分と頼りない切り札だった。
全ての準備が完了し戦車へ乗り込む。砲塔から身を乗り出して隣を見ると、タ
コ壺の中で兵士が小銃に銃弾を込めているのが見えた。こちらに気付いた兵士は
笑顔を浮かべ手を振って答える。鉄条網も地雷も無い、ただ穴を掘って土嚢を並
べた塹壕の中で息を潜め、小銃と手榴弾だけで戦う彼らの勇気には誰もが畏怖の
念を抱かざるを得ない。
「全員準備良いな」
エンジンが掛かっていない車内にヴィクトルの声は一際大きく響いた。先ほど
まで名前も知らなかったこの土地で、兵士は今日も戦う。
「エカテリーナ、準備完了!」
ある者は義務感に駆られて。
「アナスタシヤ、準備ええで」
ある者は策謀の果てに。
「ソフィア、準備良し」
ある者はふたつの家族のため。
「よし、ひとつやってやろうじゃないか」
両手を打ち付けてヴィクトルは自分に喝を入れる。暑苦しい車内から身を乗り出
して、ハッチから頭を出す。猛烈な日差しの中に虫の鳴く声と風の音だけが響く。
遠くの木々や背の高い草が揺らめく。他は何一つ動いている物が見えない。遠く
から聞こえる、もうすぐ唸り始めるT-34のエンジン音さえ無ければまるで戦争な
ど起こっていないかのように見えるだろう。でなくとも、敵はもう進撃を諦めた
のではないかと思えるほど静かだった。
しかしそれは見せかけに過ぎない。ドイツ人達は綿密な計画を作り、武器と弾
薬を集積し、兵士をかき集め、静かに静かに時を待っていた。ロシア人が万全と
は言えない兵力に悩みつつ汗を流して戦う準備をしていた頃、ドイツ人もまた完
全とは言えない兵力と足りない時間をやりくりしつつ戦う準備をこなしていた。
そして律儀かつ生真面目なことに時計の針が命令書に書かれた時刻を指したまさ
にその時。彼らは来た。




