第6話
翌7月21日から本格的に陣地の構築が始まった。南北に延びる道路に沿うよ
うに塹壕が掘られ、これがメインの陣地と定められた。その北と南にも支援のた
めの陣地が同じように作られる。敵を中央の陣地に引きつけ3方から十字砲火を
浴びせようというのだ。上空から見わたせば、街道からほんの少し西側に3つの
集団が直線状に展開しているのが見えただろう。大隊本部は街道から東に行った
ところに陣地を構える。本部が展開する場所の海抜高度から名前を取って、その
場所を臨時に「地点149」と呼ぶことに決めたそうだ。これで対象の位置を地
点149の南だ西だと言葉で表すことが出来る。実際にはこの場所にもちゃんと
した地名があるはずだが、地図がないのでヴィクトルには全く分からない。
第3中隊は北の支援陣地、第2中隊は南の支援陣地、第1中隊は中央の陣地を
守備することと決められたが、そのせいでただでさえ少ない戦力がさらに分散さ
れることになったし、各中隊の戦区の間には大きな隙間が出来てしまった。
「1916年のソンムの戦いで、フランス軍は1ヶ月以上かけて砲弾の集積をし
たのだ」
配置の指示を受ける際、中隊長はヴィクトルに愚痴とも説教とも付かないこと
を言い出した。
「250万発の砲弾がわずが17日で全て撃ち尽くされてしまった。戦力の集中
が重要なのだ」
「分かりますが……」
中隊長は戦力不足が解決していないことがまだ不満気のようだった。彼に出来
ることは配下の部隊に急いで陣地を構築させることと、大隊に掛け合って増援を
求めることくらいしかない。
「増援は来ないのですか?」
ヴィクトルがおずおずと尋ねると、中隊長は今度は打って変わって満足げに、
よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに答えた。
「145、172歩兵師団から増援が目下移動中だ。自分たちの補給線が遮断さ
れてはたまらんからな。敵が来るまでに間に合うかどうかは五分五分といった所
だな」
彼の手元には何やら数字と数式が大量に書き込まれた紙が何枚も広げられてい
た。この中隊長は前線で指揮を執る事がほとんど無い。大抵中隊本部から指揮を
しているし、地点141での戦いの時もそうだった。指揮官としての能力は十分
だが、ハッキリ言って兵隊としての能力には疑問が付く。
しかし彼にはそれを補って余りある特長があった。彼は数学的才能に恵まれて
いるらしく、北方で戦う2個師団の最近の戦闘状況から使用した燃料や弾薬の量
を推定し、そこから物資を運ぶために必要なトラックや鉄道貨車の数をはじき出
し、それら輸送手段が往復するのに必要な時間や距離から師団全体の残弾量、残
燃料を計算していた。そして恐ろしい事にその数値は彼らが参考に送ってきた報
告とほぼ一致していたのである。
大隊が編成される以前からこの中隊長の下で戦っていたパーヴェル曰く、3度
の飯より数学と統計学が大好きな彼が「補給が滞るだろう」と言うと実際に滞り、
「一安心だ」と呟くと数日後には戦車と兵士は満腹になるそうだ。そんな彼が戦
力不足を嘆いているのだから、おそらく間違いはないのだろう。余計なひと言を
付け加えると、そんな中隊長がなぜ戦車隊の指揮官なぞをしているのかは第2中
隊7不思議の一つだった。
中隊本部から自分の持ち場に戻ると、守備を命じられた兵士達が適当な場所を
見つけてタコ壺を掘っていた。よくよく見れば昨日のあの伍長の姿もあった。3
0人以上居るだろうか、彼ら歩兵達は朝方とはいえ夏の日差しが容赦なく降り注
ぐ中、汗を流してタコ壺を掘っている。とはいえ、汗を流すことを惜しんだ者は
血を流すと相場は決まっていたから、疲れたそぶりを見せる兵士はいても手を休
める兵士は居なかった。
さて、自分の仕事に取りかからねばならない。我らもT-34のためのタコ壺を掘
るのだ! 戦車の車体がすっぽり隠れるような大穴を掘り砲塔だけが外に出るよ
うにする。そして敵に向けて撃ちまくった後は、スロープ状にした出入り口から
バック運転で這いだし、第二の陣地に後退するにするのだ。これはダッグインと
呼ばれる基本的な防御姿勢だったが、何分戦車が入るような大穴を搭乗員だけで
掘るのは大仕事だった。
理論派の兵士達が主張するところによると、小柄な45mm砲でも埋設するた
めには30立方メートルの土を掘り返す必要があるそうだ。76mm砲なら56
立方メートル。それより遥かに大きい戦車は? 言うまでもないことだ。普通の
人間が一生に掘る土とは比べものにならない量の土だ!
それでも、工兵が居てさえくれればタバコを喫む間に――ヴィクトルは喫煙し
ないが――穴を掘ってくれるのだが、残念ながらここには居ない。となるとやは
り、歩兵達に頼むしかないらしい。とはいえタダで働いてくれる訳もない。誰だ
って、見返りがなければ他人のために肉体労働をするはずもない。幸いなことに
ヴィクトル達にはそれがある。しこたませしめた「戦利品」が車内にまだ大量に
残っているのだ。ソーセージだの堅パンだのといった保存がきく物ばかりなので、
4人で気長に食べていたのだがそれが功を奏した。
歩兵部隊の指揮官であるアンドレーエフ少尉は話の分かる男で、兵士達を集合
させると戦車3両のために壕を掘るよう指示した。この指揮官は相当な信頼を得
ているらしく、余計な穴掘りを命じられた兵士は嫌がるそぶりも見せずスコップ
を地面に突き立てる。ヴィクトルもそれに続き、水筒のお茶をちびちび飲んで水
分補給しつつ穴を掘る。風が吹いているので暑さの割には過ごしやすいが、それ
でもお茶は飲んだそばから汗となって排出された。
兵士の中には上半身裸で作業をしている者もいる。ヴィクトルもそれに倣い上
衣を脱いで肌着一つでスコップを振るう。エカテリーナ、アナスタシヤ、ソフィ
アの三人はアンドレーエフ少尉から渡された大量の麻袋に土を入れ土嚢を作って
いる。その土嚢は壕の周囲に並べられ兵士を銃弾から守る壁となる。彼女たちも
汗を拭いながら作業に集中していた。
スコップを抱えてやって来た彼らは、しばらくの後にベーコンや缶詰を抱えて
昼食を取るため帰って行った。中にはアルコールとタバコを受け取った兵士も居
た。パーヴェルが渡したに違いない。ヴィクトルら4人も手を休め昼食にする。
車内の飲料水用の金属缶からすこしの水を手ぬぐいに含ませ、丁寧に泥と砂を拭
き取る。戦車大隊の兵士だけでなく員数外の歩兵にも食事を提供しなければなら
ないためか、大隊の製パン部隊と炊事車は昼前からせわしなく働き続けていた。
それでも白パンと牛肉の煮込みを全員に供給するのが精一杯だった。塩とコショ
ウだけで味付けしたらしい至極シンプルな牛肉の煮込みだったが、あふれる肉汁
と登る湯気は兵士達の食欲を刺激するのに十分だった。
軍隊での食事についてヴィクトルは一つ学んだことがある。熱々なら大抵の物
は美味い。
大量の肉汁のせいで煮込みと言うよりグレービーソース掛けと言った方が良い
その脂っぽい液体を捨てるのは忍びなく、かといって舐めるほど美味ではないた
めパンに浸して食べていると、ガソリンエンジンの騒音を派手に響かせて南から
何者かがやってきた。ヴィクトルも、ソフィアも、アナスタシヤも手を止め様子
をうかがう。エカテリーナだけは手と口を止めずパンをほおばりながら行く末を
見守っていた。
列を成して道路を走って来るその車両には例に漏れずタンクデサントの兵士が
鈴なりになっていたが、小さく角張った車体という出で立ちであることをヴィク
トルは何とか判別出来た。
「あれはT-70だ。味方の軽戦車だぞ」
「2、3、4……8両しかおらへんね」
茶色と緑色を足したような単色の迷彩に身を包んだ軽戦車達はそのまま道路を
北上し第1中隊の方へと向かっていく。45mm砲を装備した2人乗りの軽戦車
だ。重量がT-34の3分の1しか無く、その分不整地の踏破力は高い。だが貧弱な
火力と薄い装甲は如何ともしがたく、専ら偵察や支援攻撃に使われているものの
日進月歩の勢いで進化を続ける戦車という兵器の流れに取り残されつつあるのが
実情だ。見た目は勇ましいが、間違っても最前線に立って突撃する車両ではない。
後に聞くところによると、彼らはヴィクトル達が乗せてきた歩兵達が所属する旅
団からの援軍らしい。
増援が来てありがたいと思う嬉しい気持ちと、やはり敵と真正面から撃ち合う
のは自分たち中戦車隊かという暗い気持ちがヴィクトルの中で渦を巻いた。が、
愚痴を言っても始まらない。1ミリの装甲にも守られていないし、内燃機関の力
で座ったまま戦場を移動できる訳でもない歩兵の事を思えば、戦車兵としての恩
恵にふさわしい責務なのだ。
歩兵達に壕を掘って貰っている間、少女達に命じて砲身の清掃をさせる。清掃
と言っても戦車の側面に括り付けた数本のクリーニングロッドを繋いで長い棒に
し、砲身に突っ込んで前後させるだけだ。見た目の割にこれが意外と重労働だっ
た。付け加えるならば、この砲身洗浄は戦車兵達に大変卑猥な隠語で呼ばれてい
た。それ故少女達に命令を下すことに若干とまどったヴィクトルだったが、自分
たちでやらなければ誰もやってくれないのは明白だ。心を鬼にして――というほ
どおおごとでもないが――作業を始めさせる。ついでに機関の点検と各部のグリ
スアップ。砲弾と燃料のチェック。戦闘の際に戦車と歩兵がどのように協力する
かの確認。小隊各車への指示。さらに、目の間に広がる平野が戦車の走行に適し
ているかどうかの調査をアナスタシヤと実際に歩いて行う。
理由を知らない歩兵からは散歩しているのかと白い目で見られたが気にする必
要はない。いざという時に全速で走れないのではお話にならないし、ぬかるみや
砲撃跡に突っ込んで行動不能になった日には目も当てられない。分かった情報は
手元の紙切れに大ざっぱな地図を描いた上でそこに書き込んでおく。戦っている
時間よりも戦う準備をする時間の方が遥かに長い。だが古代の兵法家は言う。勝
者は勝ってから戦いに望み、敗者は戦い始めてから勝とうとするのだと。
ともあれ、日も傾きはじめた頃になってようやく作業は終了。数人でT-34の周
囲を見渡しつつゆっくりとスロープへ移動させる。アナスタシヤは視界が悪い中
よくやった。何処にもぶつけずスロープへと車体を滑り込ませたのだ。掘った土
の深さは転輪がなんとか隠れるかといった程度だったが、掘った際に出た大量の
土を壕の周囲に盛ってかさ上げし、それでも余った土を土嚢にして積んだ結果、
外からはほぼT-34の砲塔しか見えなくなった。時間と人数を考えれば上出来と言
える。これで戦闘準備は完了だ。土地の水はけが良くて地面が掘りやすかったた
めか、かけた時間の割には良くできている。そう満足しながらヴィクトルは壕を
掘ってくれた歩兵達にねぎらいの言葉をかけ、昼の時と同じように「戦利品」で
手間賃を払う。かくして南側陣地は最低限の構築が完了し、兵士達は塹壕――と
言うには少々心細いタコ壺の中で各々夕食を取り始めた。