第5話
ドイツ軍から陣地を奪い、残敵の掃討が一通り終わる頃には昼を回っていた。
敵の反撃が無いと分かると、歩兵達はつい数時間前までドイツ人が居座っていた
陣地で順繰りに昼食を取り始める。中にはドイツ兵の置き土産らしい黒パンやソ
ーセージをかじっている兵士も居た。
一方221号車の3人の少女達は、半日戦っただけにも関わらず強烈な疲労感
と眠気に襲われていた。戦闘の後は一日25時間眠ろうが1週間が8日だろうが
疲れが取れないなどと俗に言われていたが、幸か不幸かその意味が理解できるよ
うになった。ヴィクトル一人だけが、小隊長としての任を果たすべくあれこれ無
線で受け答えをしていた。警戒はいつ解かれるのか、弾薬と燃料の補給は何時か、
飯はどうなるのだ、エンジンが吹っ飛んだ224号車の整備はどうするのか、な
どなど。
忙しそうな小隊長をよそに時計の針だけが進んでいく。殺人的に狭い戦車の中
にも関わらず短い休息を貪る少女達。アナスタシアとソフィアは重いまぶたが閉
じないよう堪えていたが、エカテリーナは睡魔に打ち勝てなかった。貴重な、あ
まりにも貴重なひとときだったが、それをヴィクトルの気まずそうな声がぶち壊
しにした。
「あー諸君。申し訳ないが移動だ。中隊本部へ戻って補給と昼食を取る。その後
なら寝ても構わんぞ」
アナスタシアが右肘でエカテリーナをちょいとこづくと、彼女の上半身は指で
弾かれたかのように跳ね起きた。警戒任務を別の戦車中隊と交代し、第2中隊は
補給に向かうよう命令が下されたのだった。T-34はさも疲れたのだと言いたげに
黒煙を吹き出し、のろのろと走り出す。
勝ち戦の時は体が苦しくても心は楽な物だ。制圧した陣地から遥か後方、朝方
出発した地点に構築された中隊本部で整備を受ける頃には、少女達の心のざわつ
きはだいぶ収まっていた。先ほどまでの眠気は何処へやら。物もいわず黙々と補
給作業を行う。空薬莢を車外に放り出し新品の砲弾を受け取り、車内に押し込む。
機銃の弾倉を補充する。ドラム缶からディーゼル燃料を燃料タンクへ送り込む。
ついでにエンジンのチェックもする。その一つ一つが面倒きわまりない労働で、
整備兵と戦車兵が協力して仕事をこなさなければならなかったが、当面の間命を
失う心配がないと分かっている状況なので気は楽な物だ。楽な物だが、それでも
まだまだ少女達の顔は引きつっていた。
戦車の補給が済むと今度は人間の補給だ。大隊全員分の胃袋を賄うべく全力で
稼働している炊事所へ駆け込み、戦車と同様の緑色をした野戦炊事車の大鍋から
昼食をよそって貰う。配給係は4人分の飯ごうを受け取ると、蕎麦の実を粗挽き
にしたカーシャと肉、イモ、玉ねぎ、にんにくがゴロゴロと入っている熱々のス
ープをたっぷりと入れてくれた。隣の炊事車ではお茶を淹れており、水筒にあふ
れんばかりに注いでくれる。
脇を見ると、投降したドイツ兵達が列を成して後送されていくのが見て取れた。
一様に不安と恐怖を浮かべた彼らの心境は察するにあまりある。銃を取る前に投
降していたと言うのならそれなりの礼儀で扱う必要があるのだろうが、つい先ほ
どまでこちらを殺そうと血眼になっていたのだから全く同情は出来ない。
とある戦線に、今の今までこちらにありったけの銃弾を撃ち込んでいたにも関
わらず弾と食糧が無くなり形勢不利と判断するや否や何食わぬ顔で投降し「捕虜
様」としての待遇をふてぶてしくも求める枢軸国兵士がいた、という噂を聞いた
ことがある。誇張かさもなくば全くの流言なのだろうがこの話から一つ学べるこ
とがある。自分が殺そうとした相手に情けを掛けて貰おうというのだから、たと
え殺されても文句は言えない。精々相手に慈悲の心がある事を祈るが良いさ。
捕虜というのは惨めな物だと古今東西決まっているが、ナチスドイツの兵士ほ
ど惨めな捕虜をヴィクトルは知らない。常日頃自らを優良人種と喧伝し、一方で
ロシア人を劣等民族と蔑んで憚らない彼らドイツ人が、その「劣等民族」に慈悲
を乞う姿は哀れというほかなかった。
もっとも捕虜になれるだけ良いのかも知れない。ソ連軍は兵士達に捕虜になる
ことを禁じていた。「一歩たりとも退くな」の一文と懲罰部隊を設置する旨で悪
名高いあの命令227号が制定される1年前の1941年8月、同じく命令27
0号というものが制定されたのだが、そこで捕虜になることは国家に対する重大
な背信行為だと規定されてしまったのだ。ソヴィエト軍に捕虜は居ない、裏切り
者が居るだけだ――というのが公式見解となり、兵士達はますます死に物狂いで
戦わざるを得なくなった。生還した捕虜に対する扱いは良くない。具体的には、
ドイツ軍に捕虜にされた後隙を見て逃げ出してきた兵士が収容所送りになったケ
ースがあるくらいには。
ただし、この国では何事もそうなのだが全ては時と場合による。懲罰部隊送り
になる兵士も居たが、その一方で身の潔白が証明されて原隊復帰することが出来
た兵士も居たことも述べなければフェアとは言えないだろう。
結局――結局という言葉はあまり好きではないが――彼らも我々もお互い難儀
な国に奉じている訳だ。
のろのろ歩くドイツ兵をソフィアは割り切れなさそうな表情で眺めていた。彼
女の家族の命を奪った兵士があの中にいるかもしれない。しかし確かめる術はな
い。ソフィアがドイツ兵を見つける度にそう考えているのかもと考えるだけでな
んとも気が沈んだ。ドイツ人を何人撃ち倒そうと彼女の家族が帰ってくることは
ないのだが、その事実が一層彼女を苦しめているのだ。
補給を受ける際に中隊長から指示を受けた。大隊は整備と補給が済み次第移動
するのだそうだ。どうやら北方で敵が突破をもくろんでいるらしい。目的はソ連
の支配下にある鉄道分岐点。鉄道分岐点と言っても要するにYの字型をした線路
というだけだが、その分岐点から伸びる線路は北方で戦っている第145、およ
び第172歩兵師団の生命線なのだそうだ。西側から圧迫を受けている彼らは、
迂回した敵に万が一鉄道分岐点を押さえられると貴重な兵站機構を失う。
そうなれば両師団は未舗装路すらない文字通りの平地を馬車とわずかなトラッ
クで補給を受けねばならなくなる。305戦車大隊はそれを未然に防ぎ、鉄道線
を死守せよと言う訳だ。
221号車は引き上げてきた他の戦車と並んで列を作り、中隊本部の目と鼻の
先に停車する。4人のクルーがけだるそうに降り、少々遅めの昼食を取る。今日
も快晴だ。涼を求めるため戦車の影になっている場所へ座り込む。4人は飯ごう
の蓋を開けスプーンを握る段になってようやく戦闘が終わったのだと心から実感
できた。大量に盛られたカーシャを見たヴィクトルの脳裏に、何も今すぐ全部食
べる必要はない。少し取っておいてもいいかもしれない――という考えが一瞬浮
かんだが、ものすごい勢いでカーシャを口に運ぶエカテリーナを見てそんな考え
はすっこんだ。
食えるときに食うべし。飲めるときに飲むべし。寝られるときに寝るべし。知
ってか知らずか、エカテリーナはこの不文律を忠実に実行していた。スープにス
プーンを突っ込んで様子を探る。ヴィクトルは思わず声を上げそうになった。こ
いつは凄い。汁よりも実の方が多いのではないか? カーシャもずっしりと重い。
これは食い応えがありそうだ。例の「戦利品」の堅パンをスープでふやかして食
べる。間違ってもそのままかじってはいけない。そんなことをすれば歯が欠けて
しまう。
拳銃で撃ってもビクともしないと悪口を言われるくらい硬く味気のない堅パン
だが、出来の悪いクルトンみたいな物だと思えばそれなりに食べられる。
「アナスタシヤ、食べないの……?」
ソフィアが心配そうに尋ねる。少し苦しそうな顔をしていたアナスタシヤは無
理に笑顔を作ってみせると
「お腹すいてへんし、後で食べるわ」
とだけ答えた。無理をしているな、とヴィクトルが思った次の瞬間、エカテリ
ーナが嗚咽をあげた。驚いて3人が彼女を見ると、人前であることも気にせず、
スプーンを握りしめたままボロボロと涙をこぼしている。砲と砲を突き合わせる
ような撃ち合いが終わり、言われるがまま動く整備作業が終わり、そして欲求を
満たすための食事が終わり、緊張の糸が切れた瞬間彼女の我慢は限界に達してい
た。
ヴィクトルはスプーンを飯ごうに放り込む。泣かれていては飯がまずくなると
言うのではない。どうなだめた物か思いつかなかったから、文字通りさじを投げ
たのだ。エカテリーナをソフィアが何も言わずに抱きしめる。戦闘前に車内で
「儀式」を済ませていたソフィアだからできる芸当なのだろう。その時付き合っ
てやったのはヴィクトルだ。ソフィアはエカテリーナの顔を引き寄せ、優しく抱
擁する。
見られて気分の良い物でも無かろうとヴィクトルはアナスタシヤを誘い、小隊
の残りの2両の様子を確かめに中隊本部まで歩き始める。残りの2両とはつまり、
KV-2を引っ張り上げる事になった223号車とエンジンが吹っ飛んだ224号車
の事だ。224号車は修理中だとだけ聞いたが、どのくらいで終わりそうかを聞
くのを忘れていた。223号車に至っては今どこにいるのかすら定かでなかった。
別に、T-34に備え付けの無線で尋ねても良かった。エカテリーナが無線手とは
いえ、ヴィクトルとて無線が全く使えない訳ではない。が、エカテリーナをそっ
としておき、帰って来ているかも知れない僚車をこの目で見るため足を使うこと
にした。初めて持った部下であり、初めて持った僚車でもある。いろいろ気にな
ってしまうのだ。
中隊の整備兵に聞いたところ、224号車の修理には最低でも1日はかかるそ
うだ。下手をすると移動に間に合わないかも知れない。次の戦闘にも参加できな
いようでは困る。一方の223号車だが、なんと別の部隊で回収だの牽引だのを
戦闘中ずっとやり続けていたらしい。完全武装の戦車を戦わせずにそんなことに
使うなんて言語道断も良いところだ。目の前で困っている戦友が居たら自分も何
だかんだで手伝ってしまうかも知れないし、そう思ったからこそ223号車に手
伝うよう命令したのだが、物には限度という物がある。223号車に無線を繋い
で貰い、直ちに戻ってくるよう厳命する。戦車長は「すんません」とバツが悪そ
うに答えた。彼自身は悪い人間ではないのだろうが、しかし小隊の戦力の4分の
1を自分が占めているのだという自覚は薄いようだ。
とはいえ、ヴィクトルにも落ち度がなかった訳ではない。「KV-2を回収したら
直ちに戦闘に参加するように」とあらかじめ命じておくべきだったのだ。小学生
の遠足の統率と同じで、常にあれこれ指示する必要がある。中隊本部で無線機相
手に喋っていると、何者かがヴィクトルの肩を叩いた。振り返ってみればそこに
いたのはパーヴェルだった。
「どうやら無事なようだな、大将」
「よしてくれ。何もかも君のおかげだ」
これはお世辞ではない。パーヴェルの222号車のおかげで敵戦車を撃破でき
たのだから。彼に「戦利品」の恩を返すどころかさらに借りを作ってしまい、ど
うにも気が引けてしまうのだが、パーヴェル自身はまるで気にしている様子がな
い。それ故に彼は兵士達から常日頃感謝され、頼りにされている。
「ドイツ兵達のお引っ越しは終わったみたいだ。塹壕に『家捜し』に出かけない
か?」
要するに無人となった塹壕にドイツ人の忘れ物を漁りに行こうというのだ。ヴ
ィクトルは心の底から呆れ、同時に驚嘆した。この男は本当に、本当に盗みの才
能がある。とはいえヴィクトルにはこの甘い誘いを断るだけの決断力がなかった
し、味方と違って「敵から盗む」のだから罪悪感など微塵もなかった。興味があ
ると言って付いてきたアナスタシヤを含めた3人は、つい数時間前までドイツ兵
が潜んでいた塹壕へ足を進める。万が一の可能性はある。パーヴェルは短機関銃
を構えつつ先頭を進む。戦車に備品として備え付けられているドラム式マガジン
の奴だ。歩兵達が「掃除済み」の塹壕なら、不運にも逃げることも死ぬことも出
来なかったドイツ兵とかち合うことはない。しかしそれは同時に、何の「おこぼ
れ」にもありつけないことを意味する。虎穴に入らずんば虎児を得ず、と言う訳
だ。
ジグザグに掘り進められた塹壕の幅は1メートルと少し。向こうから来た相手
と何とかすれ違える程度の幅しかない。砲撃を受けだいぶ崩れてはいたが、まだ
十分戦いに用いることは出来る。やはり塹壕を砲撃だけで破壊することは難しい
のだ。ふと、塹壕の底に黒い物体がおいてあるのに気がついた。パーヴェルは一
瞥すると何も言わずに跨いでいく。ヴィクトルもそれに続こうとしてハッとした。
それはドイツ兵の遺体だった。身を丸めうつぶせで倒れているドイツ兵からは表
情も死因も読み取れない。見た感じ腕も足も首もしっかり付いているし、血染め
の服を着ている訳でもない。「死にたて」なのか、異臭もしなければ虫もたかっ
ていない。遺体を見るのはこれが初めてではなかった。が、何度見ても慣れない
物だ。
「あまり見ない方が良い」
背後からアナスタシヤの視線に気がついたヴィクトルは少し振り返って言った。
これは余計なお世話だったかも知れなかった。彼が言うまでアナスタシヤはこれ
が遺体だということすら気がつかなかった。するなと言われればしてしまいたく
なる。ヴィクトルの言葉とは正反対にアナスタシヤはそれをまじまじと凝視した。
つい先ほどまで人間だった、今は朽ちるのを待つだけの物。様々な考えが彼女の
脳内をよぎり、浮かんでは消えていった。
「見なくて良いと言っただろう」
「あ……」
アナスタシヤの思考を中断させるためにヴィクトルは彼女の手を取り引っ張っ
た。恐る恐る遺体を跨ぐアナスタシヤ。それからまた塹壕を少し進むと後方へ向
けて続く細い塹壕が現れた。その塹壕を伝っていくと、今度は巨大な横穴がぱっ
くりと口を開けていた。いわゆる待避壕という奴だ。敵とにらみ合いをする際、
兵士はここで寝起きや休憩を取り、砲撃を受けたらすぐここに隠れる。敵の砲撃
が止むと、ここから這い出して細い塹壕を伝いメインの塹壕へと移動するわけだ。
パーヴェルを戦闘に待避壕へ入る3人。地面に向けて斜めに掘られたせいか待
避壕の中は薄暗くジメジメとしていたが、意外と広かった。6,7人くらいは入
れそうだ。もっとも本格的な待避壕は一度に20人くらいは入れるし、ヴィクト
ル達の眼前にあるそれとは違って壁をしっかり木材とコンクリートで補強してい
るはずだ。そうしなければ砲撃で生き埋めになってしまう。
ははぁ、とヴィクトルは一人納得した。時間不足か物不足かは知らないが、ド
イツ軍の陣地の構築は完全ではなかったのだ。
「こいつはお嬢ちゃん達向けだな」
そう言うとパーヴェルは円盤形をした赤い缶をアナスタシヤに渡した。手のひ
らサイズの平たい缶だ。ラテン文字でなにやら書いてあるが、流石にドイツ語は
分からない。缶を眺めつつおずおずとアナスタシヤが質問する。
「これ、なんなん?」
「ドイツ人謹製のチョコレートだよ。あまり美味くないがね」
パーヴェルの説明を信じ開けてみると黒い塊が現れた。鼻を近づけてみると確
かに甘い香りがする。少なくとも靴墨では無いようだ。加えて、封がしてあった
事からして食べさしでもない。パーヴェルは土を被った床をいじると、小さく分
厚い本を拾い上げた。これまたドイツ語が書かれていて表紙からその中身を推測
することは出来なかったが、丁寧に作られたブックカバーから落書き帳でないこ
とは分かる。
「こいつは使えそうだな」
「何かの本か?」
「ドイツ語で書かれたロシア語の慣用句集らしい。塹壕の中でまでお勉強とは
ね」
パラパラとページをめくったパーヴェルが答える。
「『従え、さもなくば撃つぞ』『投降しろ』『はいかいいえで答えろ』……物騒
だねぇ」
外国人のようにわざと変な発音で例文を読み上げてみる彼の姿を見てアナスタシ
ヤが笑い出す。喋っている内容はパーヴェルの言うとおり物騒に他ならないのだ
が。
「それで、そんな本を何に使うん、軍曹さん」
「ドイツ製の本は紙質が良いからな。こいつをタバコの巻紙にすると美味いん
だ」
ヴィクトルもアナスタシヤも、思わず声を出して感心してしまう。
「君には敵わんな……。よくして貰って変な言い方だが、何故俺達を誘ってくれ
たんだ? 見返りらしい見返りなんて用意できんぞ」
するとパーヴェルは肩をすくめて笑って見せた。
「別に見返りなんて期待してないさ。そうだな、強いて言えば『何もしないで欲
しい』って所だ。前の小隊長はそれはそれは石頭でね。この手の行為を一切を禁
止しやがった上、お上に言いつけると脅しをかけやがった。ま、前の戦闘でくた
ばっちまったがね。あんたも酷い目にあったあの戦闘でだ」
本についた砂を払って懐にしまうと、パーヴェルは笑みを浮かべて自分とヴィ
クトルを交互に指さす。
「あんたは見て見ぬふりをする。俺は『仕事』をして、あんたに『お裾分け』を
する。美しい連携じゃないか」
「なるほど。それじゃ、俺が君の『仕事』にわざわざ口を挟む必要は一切無い
な」
「中々理解が早い」
つまり紳士協定を結ぼうというのだ。パーヴェルの盗みを黙認するし、場合に
よってはもみ消す事もあるだろう。その代わりパーヴェルはヴィクトルに盗んだ
品物の一部を渡す。と言うことだ。数分後、3人はポケットにいくつかの戦利品
を忍ばせ、何食わぬ顔で塹壕を跡にした。パーヴェルと別れソフィアとエカテリ
ーナの所へ戻る二人。
そう言えばふと思い出したことがある。戦闘前に預けていた天幕や増槽のこと
をすっかり忘れていた。大急ぎで中隊本部へ戻りあっちを探しこっちを探したが、
増槽は見つかったものの天幕がどこにもない。同じ場所に置いていたにも関わら
ず、天幕だけが忽然と姿を消してしまっていた。誰に聞いても知らないと言う。
本部付きの通信兵に聞いてみたところ「だいぶ前にあんたら自身で持って行った
じゃないか。違うのか?」と言われた。やられた! という感覚がヴィクトルの
体を突き抜けた。
要するに盗みだ。窃盗だ。歩兵達にでも盗まれてしまったのだ。預けはしたが
監視してくれとまでは言っていないし、そこまでしてやる道理もない。慢性的に
物不足な前線ではこのような盗難がたびたび起こっていた。頭に来る話だが、ヴ
ィクトル達も食糧をくすねた前科がある以上文句は言えない。言ったところで盗
品が戻ってくる訳でもない。自分たちが甘かったのだ。「貴重品や日用品は雑嚢
に入れて車内に放り込んでおくこと」と少女達に言い聞かせておいて正解だった。
そのためにただでさえ狭い戦車の中がさらに狭くなっていたが、背に腹は代えら
れない。飯ごうや衣服が盗まれたら笑い話にもならない。しかし、盗みの紳士協
定を結んだ直後に盗みの被害に気がつくとは皮肉な話もあった物だ。
それにしても――ヴィクトルは思う。あの天幕は惜しかった。厚手の防水生地
で出来ていたから、裁断してポンチョにでもすれば素晴らしい雨具になっただろ
う。盗人もそう考えて犯行に及んだのだろうが。
「見事にやられてしもたね」
中隊本部からの帰り道、アナスタシヤが事も無げに言う。
「せっかく君たちと戦車が無事だったのに、これだよ」
「無事。無事か。そやけどほんとにもうめっちゃ緊張したわ」
アナスタシヤは手をきつく握りしめると思い出したくもないといった口ぶりで
呟いた。
「そんなに緊張してたのか? どうって事無い顔してたから凄い度胸だなと感心
してたんだが」
ヴィクトルはエカテリーナとソフィアの泣き顔を思い出しつつ言った。半分はジ
ョークで半分は本心だった。
「全然! 全然そんなことあらへんよ。だってほら!」
そう言うとアナスタシヤはヴィクトルの手を握った。
「震えとる……やろ?」
全速で突っ走るT-34と同じか、それ以上にアナスタシヤの手は震えていた。ああ、
そうか。ヴィクトルは理解した。アナスタシヤが昼食を食べようともしなかった
のはそのせいか。こんな震えではスプーンを握れもしないだろう。ヴィクトルが
あごの震えを押さえつけていたように、彼女もまたそれを隠そうとしていたのだ。
「止まらんのよ。止まらんのよ、全然」
「しゃっくりみたいなものだよ。気にしなければその内止まる。俺も最初は死ぬ
まで震えが止まらないかと思ったもんだ」
「さっすが、歴戦のヴィクトルはんは言うことが違うんやね」
「よしてくれ、まだひよっこさ」
何気ないおしゃべりを重ねていく内に少しずつアナスタシヤの恐怖心が溶け始
め、表情が明るくなっていくのが分かった。彼女も全ての兵士と同じように戦場
の恐怖に身を晒されていたのだ。彼女だけ全く動じないなどという話があるはず
もない。今まで外には見せなかったが、アナスタシヤも相当なストレスを感じて
いたのだろう。
「でも、今日の撃ち合いはほんまに疲れたわ。畑仕事なんて比べものにならへ
ん」
とうとういつもの笑顔に戻ったアナスタシヤは伸びをしながら言った。
「そりゃ、畑仕事で命を落とすことは無いだろうさ。君の故郷はカザフだった
な」
ここまで言ってから、エカテリーナやソフィアがヴィクトルに語った身の上話
が頭をよぎった。彼女もまた、やむにやまれぬ事情があったのだろうか。
「今更改まって聞くのも変な話だが、君は何で志願したんだ? 良ければ教えて
くれないか」
んー、と指をあごに当てしばし考え込むアナスタシヤ。渋っているのではなく
話をまとめているといった様子だった。周囲に自分たちしか居ないことを何度も
確認してから小声で話し始める。
「ウチの実家、ネップの時にずいぶん稼いでしもたみたいでな。クラーク潰しに
巻き込まれて大変やったらしいんよ」
思い出話にしては随分と経済的な話が出てきた事にヴィクトルは驚いた。
ネップとはロシア内戦の後に疲弊した国内経済を立て直すためにレーニンが導
入した経済政策のことだ。企業の民営化や外国資本の導入、さらには余剰農産物
の自由売買を認めるなどといった部分的な市場経済を取り入れたことがその特徴
だ。結果として経済は持ち直した。が、この制度によって都市部ではネップマン
と呼ばれる資本家が、農村ではクラークと呼ばれる富農が誕生してしまう。社会
主義体制の建前を揺るがしかねない彼らは、その後の五カ年計画の始動と同時に
国家の敵と定められ猛烈な弾圧を受け消滅したと言われている。少なくともヴィ
クトルはそう習った。
良いとこの令嬢だったのか。何とも意外な出身だ。
「まぁ首の皮一枚で繋がって、なんとか命だけは取られずに済んだみたいやけど、
今も地元やと悪者扱いされとん。話は飛んで、ウチの地元でも軍隊に志願しよう
って若い娘達のキャンペーンが盛り上がってな」
「そこで娘を軍隊に出して、自分たちの国への恭順ぶりをアピールしようってん
じゃないだろうな」
「大正解。そういうこと」
アナスタシヤはあっけからんとした口ぶりで、まるで興味が無いのだという風
に短く言った。
「馬鹿な」
「ばかばかしくても、ウチにとっては現実よ」
要するに彼女は体の良い生け贄にされた訳だ。彼女にとってこの戦争には何の
意味もない。良くても五体満足で家に帰ることが出来るだけだ。今もなお鼻つま
み者として扱われている住みにくい故郷に。ここでヴィクトルは嫌な考えにたど
り着いた。彼女の家族にとってはむしろ「死んでくれた方が良い」のかもしれな
い。アナスタシヤが華々しく戦死してくれれば、「この農家は国家のために命を
犠牲にする事をいとわなかった少女を輩出した」という素晴らしい名声をアナス
タシヤの家族は手に入れることが出来る。その名声を軒先にぶら下げておけば、
彼女の一家をかつてのクラークと蔑む声も当分小さくなるだろう。何時の時代、
何処の場所でも、生きている人間が死んだ人間を一方的に中傷する事ほど恥知ら
ずな行為はないからだ。
彼女の家族にしてみれば、娘一人で汚名をすすげるなら安いものだと判断した
のだろう。家族への愛情や人間性がまるで感じられないという点を除けば、それ
はそれで合理的判断だ。
ヴィクトルの心にふつふつと怒りが湧いてきた。彼女の家族に? 彼女たちを
虐げる住民に? それともこの国のシステム? 分からない。分からないが、彼
女の家族も、彼女らを弾圧するこの国も、その命令に従って迫害の実行犯となっ
た人々も彼ら自身はそれなりに筋の通った理屈を持って行動していたことは分か
る。彼らが皆自分の利益と損失を計算し巧みに行動した結果、アナスタシヤは全
てのツケを背負って今ここにいる。その事がヴィクトルを一層怒らせた。
「酷い仕打ちだ。俺が君なら――」
「ええの。もうええの」
ゆっくりと首を振りながらアナスタシヤは答える。肩まで伸ばした茶髪が震え
た。
「嘆くのはもう飽きたん。嘆いても何にもならへんから。ウチ、今わりと楽しい
んよ。友達もぎょうさん出来たし、いろんなとこ行けるし。ロハで服もご飯も貰
えるし給料も出る」
にぃっと笑うアナスタシヤを見てヴィクトルの怒りは静まり始める。彼女の並
みでは無いバイタリティは称賛に値する。見た目とは裏腹に叩いてもビクともし
ないタフな神経を持っているようだ。
「だから少尉さんも気にせえへんといて。ウチはそうそうへこたれへんから」
再び笑みを見せる彼女にヴィクトルはある種の畏敬の念を感じつつ、自車へと
向かうその歩みを早めた。
221号車の所へ帰ってくる頃にはエカテリーナは元気を取り戻し、いつもの
にこやかな顔を見せていた。車体の上に座り込んでソフィアとケラケラ笑い合っ
ている。そのことにヴィクトルは心底安心した。こっそり泣きながら不安と戦う
ソフィア、人前でも気にせず泣いて恐怖を解消するエカテリーナ、そもそも泣き
もせず狂気を飲み込むアナスタシヤ。三者三様ながら、初陣という大きな壁を越
えてくれた。まだまだ新米なのだが、そんな彼女たちがなんだかとても頼もしく
感じた。こちらに気がついたエカテリーナがうわずった声でまくし立てる。
「少尉! アナスタシヤ! さっき歩兵の人たちにものすごく誉められたの!
戦車が居てくれたから今日は安心して戦えたって!」
こうなるともう止まらない。すっかりいつものエカテリーナだ。人の役に立ち
たいという一心で志願した彼女だ。兵士として感謝されることは他の何にも代え
難い喜びだろう。
「ソフィアが砲手なんだって言ったらとっても感心されたわ。やっぱり珍しいの
かな? それにしても今日のソフィアは凄かった。だって戦車をやっつけたんだ
もん! ねソフィア?」
「うん……ありがとう、エカテリーナ」
初陣を経た3人の少女は少し興奮気味に今日の体験について話し合う。その様
子を見ながらヴィクトルは、自分たちがチームとして上手くまとまっているな、
と感じた。この連帯感とチームワークこそが、戦車の性能を最大限に発揮する貴
重な力に他ならない。
夕方になってから305戦車大隊は地点141から一路北へと移動を開始する。
結局224号車の整備は間に合わず、帳簿には「第2中隊第2小隊:稼働車3」
と書き込まれることになった。目標は少々北にある鉄道線。夕飯までにはなんと
か間に合う距離だったが、ひとつ余計に荷物を運ぶ必要が出た。地点141への
攻撃に参加した歩兵部隊の一部が抽出され、戦車大隊と共に防衛を行うのだそう
だ。彼ら歩兵は歩くのと塹壕を掘るのが仕事の大半を占める。だから目的地まで
徒歩で向かわせれば良いのだが、誰かが気を利かせて「戦車大隊は保有する車両
で可能な限り歩兵を輸送するように」と言い出したらしい。
かくて移動する戦車の車体には大量の兵士が跨乗し、振り落とされまいと全力
でしがみついていた。歩兵が戦車にまたがって移動したり戦闘したりするこの
「タンクデサント」と呼ばれる戦術は、ソ連軍ではごく日常的に行われていた。
緒戦の負け戦で大量の車両を失ったソヴィエトは、その生産力を乗用車やトラッ
クではなく戦車に振り向けていた。そのため歩兵が自分たちのために使用できる
車両は非常に限られており、歩兵が戦車に進撃速度を合わせるにはこんな危険な
手段を取るしかなかったのだ。せめてもの思いやりか、戦車には大量の手すりが
砲塔・車体を問わず取り付けられていた。移動するだけならともかく、戦車にし
がみついたまま戦闘に参加するなどと言うのは狂気の沙汰だった。
事実戦車跨乗兵の死傷率は極めて高く、平均寿命は1ヶ月以下という噂が蔓延
していた。少なくともヴィクトルは「タンクデサントの熟練兵」などという人物
を見たことがない。ともかく、どこかの誰かの余計な思いやりのせいで221号
車の車体にも10人近い歩兵が乗り合いすることとなったのだ。路面状況は良く
ない。ハッチから半身を乗り出し進路を指示するヴィクトルだが、揺れるたびに
誰かが振り落とされないかとヒヤヒヤしていた。後ろを振り返ればパーヴェル指
揮の222号車が15mくらい後を走っている。さらにその後には223号車。
自動車がそうであるように、戦車もまた急には止まれない。落ちた兵士が轢かれ
るなどという事故など冗談でも起きて欲しくない。ヴィクトルは自車のエンジン
ルーム上に身を寄せ合う兵士達を心配そうに見つめた。彼のすぐ手元には伍長の
階級章を付けた兵士が砲塔に寝そべるようにしがみついている。見るからに背嚢
が重そうだ。
「おい伍長。間違っても落ちてくれるなよ」
「わかってますって、旦那ぁ」
その声の幼さにヴィクトルは驚いた。よくよく顔を見ればまだ若い。恐らく2
0歳にもなっていないだろう。T-34の車体が揺れるのに合わせて伍長の体と背嚢
も跳ね上がる。ふと、背嚢の中から何か布きれのような物が見えた。
「袋の中のそれ、一体何だ」
「これですかい? お手製の雨具でさ」
そう言うと伍長は片手で手すりを掴み、もう片手で器用に背嚢から布を30セ
ンチほど引っ張り出す。深緑と濃紺を混ぜたような暗い色。ごわごわと分厚い質
感。その雨具を、正確には雨具に加工される前の状態をヴィクトルは知っている。
――これは間違いなく、あの盗まれた天幕と同じものだ!
「随分と良い生地じゃないか。何処で手に入れたんだ?」
「さぁて出所は何処だったかね。先月砲兵と物々交換で手に入れたもんで」
この野郎、黙っていれば適当なことを言いやがって。ヴィクトルは腹が立った
が、伍長に殴りかかるには確証がなかった。盗まれた天幕と、この雨具の元にな
った天幕が同じ物かは分からないし、この伍長が直接の犯人かどうかも分からな
い。足が付かないよう盗品をさっさと別の品物と替えてしまう、などというのは
パーヴェルでなくとも思いつきそうな物だ。そもそもこの伍長が言っていること
が本当の可能性だってある。探偵でも警察でもないヴィクトルにはどうしようも
無い。
そうこうしているうちに305戦車大隊は目的の鉄道分岐点へと到着した。南
北に延びる線路から枝毛のようにはみ出た線路。その線路から西方数百メートル
の地点にある土手になっている道路を軸として陣地を構築することが決定される
と3個の戦車中隊がそれぞれの持ち場につき、長さ3km程の薄い薄い戦線を形
成する。何とか振り落とされずに済んだ歩兵達は戦車から降りると早速、陣地と
するにふさわしい場所を銘々が探し出しタコ壺を掘り始めた。堅すぎず柔らかす
ぎず、掘っても水がしみてこない地面が一番良い。彼らはそれを見つけ出す技能
を持っていた。
ヴィクトル達の第2中隊も展開する。10両程の戦車が横隊を作る姿はいかに
も勇ましかったが、戦力不足は誰の目にも明らかだった。少し南には地点141。
遙か北には第145・172歩兵師団。戦区と戦区の間にぽっかりと空いた空白
地帯、それがここだ。1個大隊プラスアルファの戦力にしてはカバーすべき範囲
が広すぎるのだ。
第2中隊の中隊長はそのことで苛ついていた。日が落ち辺りが暗くなる中、中
隊長は各小隊長を集め状況を説明すると共に大隊からの指示を伝えた。言葉の
端々から軍の上層部に対する不満が見て取れたが、それを実際に言葉にするほど
彼は幼稚な男ではなかった。要するに、彼もまた悲しい中間管理職の一人だとい
う訳だ――ヴィクトルは説明を聞きながらそう思った。
打ち合わせと情報交換が終わり、ヴィクトルは部隊が展開している道路をとぼ
とぼと歩く。道路の脇に目をやれば、歩兵達が――その中には天幕泥棒の容疑者
である伍長も混じっていた――たき火で缶詰か何かを暖めている。その様子を見
てヴィクトルは急に空腹を覚えた。時計を見るともう7時を回っている。通りで
腹が減るわけだ。彼はまだ夕飯を食べていない。夕飯の配給を受けに行こうとし
たところで中隊長からお呼びが掛かったからだ。こいつはうかつだった。今から
取りに行ったところでパンの切れ端すら残ってはいまい。少女達に自分の分も貰
ってくるよう頼んでおけば良かった。部下の食い扶持を確保するのが隊長の役目
などと言いながら、自分の食い物にも事欠くのではお話にならないではないか、
とヴィクトルは自分自身に文句を言う。
しかし文句を言ったところで腹がふくれる訳もない。そういえば確か雑嚢の中
に携行食として支給された缶詰があったはずだ。それと例の戦利品とで夕食にす
るとしよう。ああ、一旦想像するとさらに腹が減ってくる。
そんなことをつらつら考えつつしばらく歩くと自分のねぐらにたどり着いた。
傍らには何両もの戦車。たき火を囲う兵士も居れば、もう横になって寝ている兵
士も居た。どこからか手に入れたアルコールを痛飲しどんちゃん騒ぎをしている
兵士すらいた。221号車にまでたどり着く。が、周囲に少女達の姿がない。不
思議に思いつつも砲塔から車内をのぞき込むとソフィアが砲手席に座っていた。
口をもごもごさせている。手元には昼に塹壕で見つけたドイツ製チョコレート。
アナスタシヤから分けて貰ったのだろう。
「ソフィア、他の二人は?」
「車内にいます」
こちらに向き直ったソフィアはチョコレートをほおばったままそう答えた。車
内にいるとは何かおかしい。異常なまでに窮屈なT-34は頼まれなければ車内にい
たくない乗り物なのだ。一旦降りて今度は開け放たれた操縦手用ハッチから中を
のぞき込む。二人の少女が本当に並んで座っていた。
「あら、お帰り少尉さん」
エカテリーナもまた、戦車帽を外して事も無げに言う。
「何やってるんだ。二人とも」
「これこれ、聞いてみてや」
アナスタシヤも同じく戦車帽を外し、ヴィクトルに手渡す。内蔵されているイ
ヤホンに耳を当ててみると何やら音楽と音声が聞こえてきた。なるほど、とヴィ
クトルは理解した。3人はラジオ番組を楽しんでいるのだ。周波数さえ変えれば
無線はそのままラジオになる。調子の良いときは外国の放送すら拾えることがあ
った。戦場ではたびたび見られる光景だったが、無線を装備した車両でしか聞け
ないのだから、その恩恵にあずかれるのは限られた兵士だけだった。ダヴィード
指揮のT-34に乗っていたときは小隊唯一の無線装備車だったから、休息があるた
び多くの兵士が聞かせろ聞かせろとやって来て大変だった。
「エカテリーナ。無線のバッテリーをあがらせないようにな」
「大丈夫大丈夫。ちゃんと時間測ってますから」
流石だな、とヴィクトルは変に感心してしまう。何せバッテリーを充電するに
は戦車のエンジンを回してやらないといけないのだから。無線機の電池一つ充電
するのに最大出力500馬力のエンジンを動かさないといけないとは如何にも無
駄が多いが、他に方法もない。
砲塔から車内に入って自分の戦車帽を身につける。男のナレーターがニュース
を読み上げていた。彼が言うには、今日も今日とてソ連軍は連戦連勝。ドイツの
侵略者を順調に追い出しつつあるのだそうだ。結構だ。実に結構なことだが、本
気で言っているのだろうか? ニュースが終わると明るい曲調の音楽が流れ始め
る。少女達によれば最近流行の1曲だそうだが、ヴィクトルは初めて聞いた。明
日も良い日でありますように、という意味合いの歌詞だった。毒にも薬にもなら
ないニュースよりよっぽど良い。
ふと、肩を叩かれる。振り返るとソフィアがこちらに飯ごうを突き出していた。
よく見るとヴィクトルの飯ごうだ。蓋を開けるとサリャンカ(肉や魚のスープ)
が湯気を上げていた。ソフィアはさらに拳骨二つ分はありそうな大きい黒パンを
渡してくれる。
「少尉の夕食、私が取りに行っておきましたから」
ヴィクトルはソフィアに何度も何度も礼を言ってから車外に降り、戦車のエン
ジンルームに尻を置くと手ぬぐいで手を拭く。そして思い切りパンにかじりつい
た。白パンと違って歯ごたえがあり中身の詰まった重い黒パン。サリャンカの中
にはキュウリやキャベツが浮いており、濃いめの味付けが具材によく染み込んで
いる。
見上げれば雲一つ無い星空。しかしよく考えて欲しい。星空は明日も見られる
がサリャンカは今しか食べる事が出来ない。今のヴィクトルにとって、この熱々
のスープは星空の何倍もの価値があった。




