第3話
暦が7月に入ってしばらくした頃、第305戦車大隊は再編成を完了し、前線
へと進出することとなった。出発に向けて工場はにわかに慌ただしくなり、大量
の人と物が右往左往した。牽引用の金属製ロープやスコップやツルハシ、さらに
はドラム缶を細長くしたような増槽など大量の車外装備品がヴィクトルらが搭乗
する221号車に取り付けられ、いよいよ実戦への準備が整った。
交換されたエンジンの調子は好調。道具側の不安は一応払拭した。訓練を重ね
た結果アナスタシヤの操縦はだいぶ上達し、ソフィアの射撃もまずまずのレベル
にはなった。人間の方も準備は万端。やってやれないことは無いだろう。
兵士達には新品の夏用軍服一式が支給され、携行食として堅パンや缶詰が与え
られる。戦車大隊全体で600人を下らない兵士が居たが、その内の1割強ほど
が女性兵だった。だが実際に戦車に乗り込んで戦う兵士はその半分にも満たない
十数名と言ったところで、後は後方支援を任されている。彼女たちは概ね1小隊
に3,4人の割合で配属されており、大抵ひとまとめにされて同じ戦車に割り当
てられていた。何故かと言えば、それはもう諸々の都合のせい、としか言いよう
がない。女性兵は女性兵でまとめたほうが色々と好都合なのだ。汚れ一つ無い軍
服に身を包んだ女性兵達は傍目には頼もしく見えるが、「汚れ一つ無い軍服」が
何を意味しているかを知っている古参兵や知恵者達は彼女らに失望とも同情とも
言えない視線を向けていた。
ステパーンもそんな視線を向けている人間の1人だったが、彼は自分に出来る
ことと出来ないことのライン引きを明確にしていたから、愚痴の一つも言わなか
った。彼の出来ることとすべき事はほとんどイコールだ。戦車のコンディション
を最高な状態にして兵士達を送り出すこと、それが自分の使命だと考えていた。
汗と機械油にまみれた彼に対して、ヴィクトルは感謝と別れの言葉を述べる。
「ステパーン・アナトーリエヴィチ。お世話になりました。行ってきます」
「ヴィクトル君たちが行ってしまった後では私に出来ることが全くないのが残念
ですよ。工場の仕事をほっぽり出して付いていく訳にもいきませんからね。ご武
運を」
握手を交わす2人。ステパーンの手は乾いた木材のようにゴツゴツしていた。
出陣式などと格好付けている暇もなく出発。先日少女達と遊びに出かけたスレ
テンスキー駅から列車に乗り一路西へ。目指すはレニングラード戦線。1年半近
くドイツ軍に包囲され続け、今年の1月にようやくその包囲をこじ開けたものの、
未だ完全解囲には至っていないレニングラード。ヴィクトル達の使命はその周辺
に構えるドイツ軍を撃退し、都市の包囲を完全に解くことだ。 途中の停車も考
えれば1日2日ではとうていたどり着かないだろう。駅まで戦車を自走させた後、
無蓋貨車に戦車を乗せねばならないのだがこれが難儀だった。
一番簡単なのはクレーンを使って持ち上げてしまうことで、この場合戦車兵は
クレーンの操縦手に向けてもっと右だの左だの叫ぶだけで事足りる。しかし今回
の移動は大規模らしく、2台しかないクレーンは休む暇無く動いていた。線路上
には有蓋貨車に無蓋貨車に機関車にと、大量の車両が列を成していた。結局中隊
長の命令で自分たちの手で乗せることになり、線路のすぐ脇にせり出したスロー
プから車両用プラットホームへと戦車を移動させた。そこから細心の注意と共に
貨車へと乗せる。
万が一落ちよう物ならオオゴトだ。戦車は乗用車と違ってバックミラーが付い
ているわけでも後ろを見られるわけでもないため乗員4人が互いに指示を出さな
ければならない。アナスタシヤが操縦し、ヴィクトルは砲塔のハッチから身を乗
り出してチェック。車外に出たエカテリーナとソフィアがそれぞれ前方、後方か
ら指示を出す。1両の貨車に付き2両の戦車が乗るのだが、頼み込んで先に乗ら
せて貰った。自動車事故ならぬ戦車事故など起こしたくなかったからだ。ただで
さえ操縦しにくいT-34である。正しい向きに乗り込んで車体を固定するまでに途
方もない時間がかかった。
午前中に開始された乗車だったが、大隊全ての人員と装備が乗り込み列車が動
き始めたのは日も傾き始めた頃だった。ヴィクトルが指揮する第2中隊第2小隊
全ての車両、221号車・222号車・223号車・224号車も何事もなく乗
車を完了した。何両もの貨車が繋がった列車がゆっくりと動き出し、次第に速度
を上げていく。戦車を乗せた無蓋貨車には柵が全くない。上下左右前後の6面の
内、床があるだけである。列車の速度がそれほど速いわけではないのでむしろ景
色を楽しむことが出来た。が、ゆっくり見ている暇はない。
先ずは寝床を確保しなければ。戦車の車体後方にくくりつけた荷をほどき、大
きな車体でほとんど埋まった貨車の隙間に天幕を張る。天幕と言っても到底テン
トと呼べる出来ではなく、タープに毛の生えたような代物だったが、雨風を防ぐ
には十分役に立った。ごわごわした良質の防水生地で出来た巨大な天幕で4人が
身を休めるには十分な大きさだ。個人用の小さな天幕も支給されていたが、こち
らは嫌に小さく生地の質もあまり良くなかった。
天幕を設置するといよいよ貨車の上は手狭になった。貨車の隅で寝るのと天幕
の中で寝るのとどちらがマシか。後者である事は論をまたないだろうとヴィクト
ルは判断するが、少女3人と自分とが同じ天幕で寝るのは正直はばかられた。そ
れとなく聞いてみた所少女達は3人が3人ともそんなことは気にしないと言う。
曰く男だらけの戦場に立つ時点でそんなことは覚悟の上だ、と。君たちが気にし
なくとも俺は気にするのだ――とは思いつつも、ヴィクトルも天幕の中で寝させ
てもらうことに決めた。戦車の下より天幕の中の方が遥かに寝心地がよい。ちょ
っと工夫すればヤブ蚊から身を守れるし、明け方のにわか雨でずぶ濡れになるこ
ともない。戦場とはいえ食うことと寝ることに妥協してはならないのだ。
辺りが少しずつ暗くなり始めた頃、彼らを乗せた列車は停車場へ到着した。こ
こでまた大量の人と物が乗り降りする。その様子を眺めながらヴィクトルは空き
っ腹を抱える。昼間は作業で忙しく、ピロシキを1つ食べただけだった。そろそ
ろ夕食の時間だが配給される気配はまるでない。水筒に入っているお茶をぐびぐ
び飲みつつ愚痴る。主計の連中め、何をサボっていやがるんだ。
携行食があるにはあるが、前線に出る前から食ってしまうわけにもいかなかっ
た。少女達3人は天幕の中で列車が動き出してからずっとおしゃべりをしている。
よくもここまで喋り続けることが出来るな、と感心している場合ではない。部下
の食い扶持を確保するのも隊長の役目という物だ。様子を見に行こうと貨車から
降りようとすると、後から声を掛けられた。
「同志ヴィクトル・イリイチ。ちょいと良いかい?」
振り返った先には222号車――つまりヴィクトルの直接的な部下――の戦車
長、パーヴェル・アンドレーエヴィチ・ピロゴーフが口元をにやつかせながら立
っていた。大隊中で並ぶ物の無い札付きのワルとしてその名を存分にとどろかせ
ている有名な人物だ。軍人にしては長髪の部類に入る茶色の髪と、手入れが足り
ていないのか無精なのか分からないしおれたアゴ髭が風で小さく揺れている。ヴ
ィクトルより3,4つは年上なのだが階級は2つ下の上級軍曹でしかない。何か
とんでもない事を「やらかした」のだろうがヴィクトル含めて誰も詮索しようと
しなかった。
彼は戦車の扱い方とメシの確保の仕方を熟知している。それを示すように彼の
ポケットには常に将校用の葉巻とシガーケース、そしてウォトカの小瓶が入って
いる。こういう人物とは仲良くしておくべきだ。彼の武勇伝の中には戦車に女を
連れ込んだという物もある。
「何だ?」
「3つ向こうの貨車に食いモンが唸るほどある。ちょっと『ご馳走になりに』行
かないかい?」
停車場ですら抜け目なく獲物を得ようとするパーヴェルにヴィクトルは心底驚
いた。食事が来ない、腹が減った。そういう状況で「盗んでくる」という選択肢
を一番上に置く彼はある意味尊敬に値するとすら思う。時が時なら大泥棒になっ
ていたんじゃないだろうか、などと勝手な想像をする。
「しかし、どの貨車も見張りが立っているじゃないか」
「君の部下のお嬢様方を引き連れて見張りの気を引いてくれ。後は俺と部下でや
る。10分だけで良い」
なるほど。盗める者は盗みを働き、色気のある者は色気を使う。まことに美し
い役割分担だ。承知したヴィクトルはテントに入り、少女達にいきさつを説明す
る。最初3人は驚いていたが、こういう事が戦場ではありふれたことである旨を
パーヴェルから雄弁に説明されるとおずおずと協力した。
もっとも、これは半分嘘である。倉庫の中身を失敬して無罪放免だった試しな
ど無い。事態が明るみに出れば懲罰部隊へ飛ばされるくらいは覚悟せねばならな
い。それでもヴィクトルが盗みを手伝おうとしたのは、数十分後には全く別方向
へ向かう列車から盗むため発覚しにくいと思ったこと、名うての怪盗パーヴェル
の発案であること、そして何より実際の盗みは彼の一味が行うというのがその理
由だ。ヴィクトル達は見張りの気をそらすだけで良い。最悪、知らぬ存ぜぬでし
らばっくれることも出来るだろう。逆に言えば、パーヴェルはあえて「逃げ道つ
きの簡単な仕事」をヴィクトルに紹介したのだ。いきなり銀行強盗に誘うのでは
なくまずは万引きの手伝いから、と言ったところか。
エカテリーナとアナスタシヤがヴィクトルに続き貨車へ赴く。ソフィアはテン
トと戦車の見張りだ。盗人が出かけた際に空き巣に入られたのでは笑い話にもな
らないからだ。またパーヴェルの部下から盗品を受け取り、戦車の中に入れて砲
弾ケースの中に隠す作業を手伝う任もある。目的の貨車を見る。兵士が一人、小
銃を掲げて番をしている。パーヴェル達は見張りが居るの方とは反対側から様子
をうかがっていた。準備が全て整ったのか、手を挙げて合図をしてきた。こちら
の出番だ。
「やぁ兄弟。調子はどうだい」
ヴィクトル達3人は貨車の見張りに近づき、暇そうな様子を装って声を掛ける。
「腹が減ってたまらんが、まぁぼちぼちと言ったところだね。飯の配給はまだ
か?」
「らしい。何をしているんだか」
見た目は30歳くらいだろうが、その割に年を取った声を出して見張りは答え
た。
「同志少尉。そのお嬢さん達は誰だい。まさか兵隊だなんて言うんじゃないだろ
うね? え? それともまさかペーページェーなのか?」
「まさか。頼もしい部下だよ。見た目に騙されると噛みつかれてしまうぞ」
軽口を言うヴィクトルだが内心重い物を感じた。ペーページェー。PPZh。PPSh
短機関銃をもじって作られた「従軍妻」「野戦妻」を意味する略語であり、将校
に愛人として囲われた通信兵や電報打ち、伝令、看護婦などの女性兵士や軍属の
ことを指す。大勢の女性が直接的間接的に戦場に立っているソヴィエト軍ではこ
のような蛮行がしばしば行われていた。
権威のあるところ腐敗有り。アメリカの陸軍婦人部隊やイギリスの空軍婦人補
助部隊でだって似たようなケースはあっただろう。だが民主的でないこの国で上
の立場の人間を手回し無しに告発する事は民主的でない報復を受ける事を意味す
る。一口にPPZhと言っても幅はあり、上は半ば手籠めに近い形で愛人にするケー
スから下は女性の方からアプローチを掛けるケースまで多種多様だが、ともかく
断じて好ましい物ではない事だけは確かだ。
なぜなら軍隊は戦うために存在しているのであって、愛人を囲うために存在し
ているのではないからだ。ただ、時としてペーページェーと女性兵士との違いが
薄れるのもまた事実であり、それが話をややこしくしていた。当たり前だが愛人
になるのに資格が居る訳でも許可証がある訳でもない。ある時は医師、またある
ときはペーページェーという二つの顔を持つ女性軍属などというのはいくらも居
そうなものだった。
見張りは口を閉じたまま笑うと、最近見たというペーページェーの話をし始め
た。連隊の補給部長から名指しされた看護婦の話で、持病があるから面倒を見て
貰うだのなんだのとあれこれ理由を付けて自分の手元に置いているそうだ。いつ
もなら笑って相づちを打つところだったがエカテリーナとアナスタシヤも聞いて
いることを考えると胸くその悪い話に思えて仕方がなかった。補給部長が物資の
横流しをして私腹を肥やしているらしいという話に話題が変わった頃、パーヴェ
ルが貨車の反対側から再びこちらへ手を振ってきた。仕事は済んだのだ。
「中々面白い話だったよ。そろそろ行かないと」
「いや、こっちもこんなに可愛いお嬢さんを見させて貰って眼福だよ」
会話を打ち切ると3人は回れ右して自分たちの貨車へと戻る。結局エカテリー
ナとアナスタシヤは一言も喋らなかった。というより見張りがひたすらに喋り続
けていたのだが。帰り道、ヴィクトルは歩きながら二人へ話す。
「二人とも色々思うところあって戦車兵を志願したのだと思う。少なくともペー
ページェーになりに戦場へ来た訳じゃないはずだ。ふざけた野郎が近寄ってきた
ら俺に言うこと。すぐにそいつの顔面をめり込ませてやる。いいな?」
茶化すような言い方だった。が、半分は本気だった。
「さっきの話、ウチは全然気にしてへんよ」
「あたしも。でも何かあったら頼らせてもらうから。――いや、やっぱりダメ」
不思議なことを言うエカテリーナ。ヴィクトルは彼女の顔を見て次の言葉をじ
っと待つ。
「何かあっても自分で解決するわ。少尉さんの気持ちは嬉しいけど、特別扱いし
ないでね。今は誰もが何かをしなくちゃいけない時。その覚悟であたしはここに
いるから」
正直言ってヴィクトルは度肝を抜かれた。ここまで真率で断固たる意思を表明
されるとは。日頃おしゃべりばかりしている様に見えて、腹の中では随分と固い
決心が根付いているようだ。なんだかエカテリーナがまぶしく見える。
「でもまぁ、自分じゃ無理だと思った時は相談するから、その時はお願いする
わ」
いつもだったらここでアナスタシヤの冗談が入るところだが、エカテリーナの
語気はそんな気にさせない強さだった。要するに大まじめだった。アナスタシヤ
もヴィクトル同様少し驚いた顔を見せてから口を開く。
「ウチはそこまで張り切っとらんけど、少なくとも大恋愛しに来た訳ではあらへ
んよ。そこんとこはよろしゅう」
二人の返事を聞いてだいぶ安堵した。彼女たちは遊ぶためや物見気分で戦場へ
来ているのではない。どころかそれぞれがちゃんとした考えの上に立っている。
彼女たちの決意について少々怪しんでいたヴィクトルだったが大いに恥じるとこ
ろを感じた。彼女たちは自分が思っている以上に本気だ。でなければ戦車兵など
志願するはずもない。二言三言の会話だったが、少女達についての認識を改めさ
せられる価値あるものだった。
ヴィクトルは狭い戦車のハッチから中へ潜り込み、床のゴム製マットをめくっ
た。砲弾ケースを開けると中には「戦利品」が隙間もないほどに詰め込まれてい
た。子供の腕ほどもありそうな太さのソーセージ。辞書ほどの分厚さがあるベー
コン。見たこともない大きさのハム。豚一頭分はあるのではないかと思うほどの
量だった。別の箱を開けると中にはレンガのような巨大なチーズ。さらに別の箱
には様々な缶詰と堅パンの缶が数えられないほど放り込まれている。
取り出した砲弾は砲手席の隣に2つある砲弾ケースの上に肩を狭くしてちょん
と置かれている。後で落ちないように縛り付けておこう。車内から出ると、車体
後部に立ち様子を見ていたソフィアと目があった。
「ごくろうだったソフィア。良い仕事っぷりだ」
「はい」
「ほとぼりが冷めるまで、戦利品はばれないよう車内で切り分けてから、飯ごう
に隠して運ぶこと。後で他の二人にも言ってくれ」
「わかりました。ヴィクトル少尉」
ソフィアは戦車から飛び降りると、4人分の夕食を受け取りに行ったエカテリー
ナとアナスタシヤの帰りを――5分ほど前からようやく配給が始まった――例に
よってポートレートを眺めながら待ち始めた。その間にヴィクトルは、同じ貨車
の反対側にテントを張っているパーヴェルの所へ感謝を伝えに行く。
「ありがとう上級曹長。おかげでしばらくは腹一杯食えそうだ」
テントの中で葉巻を吸っているパーヴェルは、口がふさがっているせいか右手
を挙げて返事をした。彼の部下達はウォトカを痛飲している。やはり持つべき物
は良い友と良い戦友なのだ。今日の分の恩を今度はヴィクトルが、戦場で「勝利
と生存」という形で返す必要がある。これはひょっとするとかっぱらいより難し
いかも知れない。だが望むところだ。ヴィクトルだって死にたくはないのだ。
7月19日早朝。眠い目をこすりながら、ヴィクトルは天幕から出て新鮮な空
気を目一杯吸った。列車はゆっくりとした速度で動いている。今日の午前中には
目的地に到着するはずだ。東の空からはすでに高く昇った太陽が強烈な光を浴び
せている。見渡す限り雲がほとんど見えない。今日も快晴だろう。ふと、西の空
に黒い点がふたつ見えた。その黒点は列車へ向けて一直線に近づいてくる。
鳥ではない。
敵機だ! と誰かの叫びが聞こえた頃には、角張った姿をした戦闘機とそのエ
ンジン音がもう目の前に迫っていた。思わず身を伏せる。ここは身を隠せる塹壕
ではなければ、自分の隣には燃料と弾薬を満載した戦車が撃ってくださいとばか
りに鎮座していることも忘れていた。要するに伏せても余り意味のない場所と状
況だった。しかし、銃撃の恐怖に打ち勝った上でそんなことを瞬時に判断出来る
人間など何処にいようか?
放たれた機銃弾は貨車の壁や屋根を易々と突き抜け、中で安眠をむさぼるソ連
兵や軍需物資をボロ切れのように切り裂いた。列車へ機銃掃射を掛けた2機のド
イツ軍機は、高度を取って反転。再び攻撃態勢に移る。
列車のソ連兵達もようやく目が覚め、列車に据え付けられている対空機銃が火
を吹き始めた。が、空を飛ぶ相手に弾丸を命中させるのは至難の業だ。いつまで
経っても見当外れの場所に弾丸を吸い込ませ続ける対空機銃にいらだった兵士達
は軽機関銃や小銃、果ては拳銃まで持ち出して思い思いに撃ちまくる。そんな物
で戦闘機を打ち落とせるわけもないのだが、「地上から撃った小銃弾がパイロッ
トの頭に直撃し、飛行機を撃墜した」という出所不明の噂はよく知られていたし、
とにかく撃っていれば気が落ち着く物なのだ。
ヴィクトルは眠そうにしている3人の少女を天幕から追い出し、とりあえず戦
車へ搭乗させる。流れ弾程度ならなんとかなるだろうし、戦車ごと吹き飛ぶよう
な攻撃――航空爆弾――を喰らったら貨車の何処にいたってやられてしまうから
だ。一番寝起きが良かったのはアナスタシヤで、ヴィクトルが天幕に頭を突っ込
もうとするのとすれ違いざまに飛び出てきた。そのままエカテリーナとソフィア
をたたき起こす。エカテリーナはハッと飛び起きるとすぐ状況を把握したが、ソ
フィアは頑として目を開けようとしない。結局ヴィクトルが担ぎ上げて、放り込
むようにして車内に押し込んだ。
3度目の攻撃を列車へと掛けようとしたドイツ軍機だったが、東の空から赤い
星を付けた3機のソ連機がやって来るのを見るや否や相手を切り替えた。たちま
ち激しい空中戦が始まり、地上をゆっくりと走り続ける列車はあっという間に蚊
帳の外へと押しやられた。列車の上では、負傷した者とその手当をする者以外は
皆空を見上げ、行く末を見守っていた。
行ったり来たり、くるくる回ったりを繰り返していた5機の戦闘機だったが、
突然1機が煙を上げた。と同時に炎を吹き、真っ逆さまに落ちてきた。誰もが歓
声とともに両の手を挙げたが、落ちてくる飛行機にカギ十字ではなく赤い星が描
かれているのが見えると、皆黙りこくってしまった。やられたのは味方だったの
だ。行きがけの駄賃とばかりにソ連機を撃墜した2機のドイツ軍機は、相手がひ
るんだと見えて一目散に西へと逃げ出した。それを追うソ連機。両者が見えなく
なるのに数分とかからなかった。
後にはまた、朝日を浴びてのたのたと進む列車だけが残った。時間にして10
分かそこらの戦闘――もっともこちらが一方的にやられただけだが――だった。
「喜べソヴィエト兵士諸君。戦場は近いぞ」
西の空を見つつ、どこからか這い出してきたパーヴェルがわざとらしく言った。
朝から酷い目に遭いつつ、それでも昼前には列車は目的地へと到着した。最終
目的地の停車場では例によって大量の兵士と物とが乗り降りの順番を待っていた。
行きの時と異なるのは、工兵によってプラットフォームやクレーン、デリックの
類が準備されていたこと。そしてすれ違い後方へと向かう列車に傷つき血まみれ
になった兵士が所狭しと押し込まれていたことだ。貨車からああでもない、こう
でもないと苦労しながら装備を降ろし、やっとの思いで第305戦車大隊はレニ
ングラードの南東数十キロ程に位置する戦線へ舞い降りた。
最終的な目標は、1941年の開戦以来枢軸軍の攻勢下にあるレニングラード
の完全な解囲。そのために必要なのは前面に展開するドイツ軍の粉砕。が、戦う
までにはまだ時間がかかる。ここから戦場へは自力で移動しなければならない。
歩けば足は棒になり、車を使えば燃料が減る。
では戦車の場合は? 操縦手はくたくたになり、エンジンとトランスミッショ
ンにはガタが来ると相場が決まっている。戦車とトラックの長い隊列は夜になっ
てようやく最前線までたどり着いた。木々と草がまばらに生え、なだらかな丘と
なっている一帯だ。先週まで酷い雨が降っていたらしく、所々が泥沼と化し、兵
士と車両の移動を困難にしている。便宜上、海抜高度から取って付けた「地点1
41」と呼ばれているこの丘の頂上付近にはドイツ軍が先週から陣地を構築して
いるらしい。
そんな戦場へと到着した頃にはT-34の操縦手達は例外なく疲れ果て、青息吐息
になっていた。アナスタシヤも無論例外ではないし、隣でギアチェンジを手伝っ
ていたエカテリーナもまたそうだ。途中何度も休憩を取りながら進軍したのにこ
れなのだから、「操縦手は敵に殺される前に変速機に殺される」などという笑え
ない冗談が流行るのも無理はなかった。
ヴィクトル達は直ちに天幕を設営すると、疲れが酷いアナスタシヤを横にさせ、
次いで件の「戦利品」をふんだんに使って夜食を作ってやる。沸かした湯にベー
コンやソーセージを放り込んだ、味付けは塩だけのシンプルにも程があるスープ
だ。彼女が食べている間に戦車の点検。終わった直後に中隊長から呼び出しがか
かり中隊本部へ。そこで各隊へと指示が出される。翌未明にもう数km前進し、
他の部隊とともに攻撃を行うのだという。目標は言わずもがなだ。本部から帰っ
てきたヴィクトルは時計を確認した。もう夜中の9時を回りつつある。少女達を
寝かしつけ小隊の戦車長達へ先ほどの攻勢の話を伝える。目の回る忙しさだった
戦う前からこんなに忙しいとは、小隊長とはつくづくハードな役職だ。3人分
の寝息を聞きながら天幕の片隅で横になる――暑さのせいで毛布も寝袋も要らな
い――ヴィクトルは、ひとり寂しくつぶやいた。