第2話
「やはりエンジンの品質低下のせいですか?」
朝の光がデポに駐車された221号車を照らす。今日も快晴で朝から蒸し暑い。
戦車のエンジン点検口を開けながら、ヴィクトルはステパーンに聞いた。昨日一
日乗っただけなのに、T-34のエンジンには速くもガタが来ていた。前の戦車も相
当ボロなエンジンだったが、こいつのそれはさらに酷い。未熟な乗員が扱ったせ
いもあるだろうが、それにしてもまだ100kmも走っていないはずだ。昨日、
工場へ帰ってくる最中にその異変に気づいたヴィクトルはステパーンを探し、朝
一にチェックしてくれるよう頼んでいた。頭をエンジンルームに押し込んで様子
を見つつステパーンは答える。
「じゃないですか? この工場では規定の5分の1の間隔でエンジンをオーバー
ホールすることになってますが、それでも故障は絶えないですからね。もしかす
ると設計に根本的な欠陥があるのかも……うわ、これは酷い」
ステパーンがあきれた声を出した。やはり故障していたらしい。
「今日も訓練に行きたいのですが、直りますか」
「オイル漏れも酷いし、こりゃ載せ替えた方が早い。修理の順番待ちもあります
し今日一日はダメですね」
「そうですか……」
ステパーンに礼を言うとヴィクトルは戦車中隊の本部へ歩き出した。
ヴィクトルが配属された第305戦車大隊は大隊司令部と3つの中戦車中隊を
持つ。中戦車中隊は全車がT-34で構成されているから、その結果大隊の戦車は右
を向いても左を向いてもT-34ばかり見かける事になる。中隊は一つに付き3つの
小隊があり、1個小隊当たり4両程度の戦車を有する。だから大隊全体では40
両程度の戦車を有することになる大所帯だ。
規定の戦車大隊定数よりもやや多めに戦車を保有しているが、それは壊滅した
部隊を寄せ集めたせいであり、逆に言うとその分戦場では戦力として期待される
事になる。
彼の所属する第2中隊は、今は兵舎の一角を中隊本部として間借りしている。
図書館や大学の講義室を思わせる広々とした部屋が、今は第2中隊の本部として
機能していた。と言ってもあちこちから要員をかき集めている最中だから、部屋
の大きさに比べて人の数はまばらだったし、とくに午前中は無人な時間の方が長
いくらいだった。部屋の一方には開封されていない木箱が両の手では数えられな
いほど積まれ、もう一方には元から部屋にあった椅子だの机だのといった調度品
が申し訳なさそうに寄せて置かれている。木箱から取り出されいつでも使えるよ
うに設置された2台の無線機と、その前で暇そうに番をする兵士だけが、この部
屋が倉庫ではないことを主張していた。
いや正確には、この部屋にはもう3人客人がいる。
一人目は、無線機を勝手にいじってラジオを聞いているエカテリーナ。手には
配給された小さな紙箱を持っている。赤い包装紙で包まれた飴の紙箱だ。口をも
ごもごさせ、椅子に座って足をぶらぶらしながら、流れてくる歌謡曲を楽しんで
いる。
二人目は、部屋の隅へ追いやられた椅子に深く腰掛け、どこからか手に入れた
新聞を興味深そうに読んでいるアナスタシヤ。威勢の良い言葉やプロパガンダ的
な宣伝文句が並んでいる、どう見ても虚偽と検閲だらけの紙面から、どれだけ真
実に近づけるかを競う知的な遊びを一人楽しんでいる。今日のトップ記事は「本
年における小麦生産の概況」だ。
そして三人目は、窓際に腰掛け頬杖をついて外の様子を眺めるソフィア。あち
らへとこちらへと秩序無く動き回る工員達をしばし上の空で眺めていたが、それ
に飽きると胸のポケットから革製の小さなケースを取り出し、中から葉書サイズ
の写真を大事そうに取り出す。視線と神経を集中させてゆっくりと眺める。気の
済むまで楽しんでから、次の写真を取り出す。思わずため息が出そうになる。
「何見てるん?」
跳ね上がって驚くソフィア。見れば、いつの間にかアナスタシヤが隣に立って
いた。写真を裏返しにしつつつ胸に当てて隠すソフィアを見ていたずらっぽい笑
みを浮かべている。人差し指をあごに当て、いたずらの犯人を問い詰めるように
わざとらしく聞く。
「隠さへんでも分かってんで、俳優か歌手のポートレートやろ? 女の子がため
息付きながら見る写真なんてそれくらいしかあらへんし」
「え、あ……」
瞬く間に顔が赤くなるソフィア。ため息が出そう、ではなく気がつかないうち
に出ていたのだ。なんという不覚か――。頬が熱を帯びてくるのと、心臓の鼓動
が早くなるのが自分でも分かった。
「ウチにもちょこっと見せてくれる?」
一瞬どうしようか迷ったが、もうばれてしまったことだ。胸に押し当てていた
写真をアナスタシヤへちらりと見せた。30代後半くらいの男性の白黒写真だ。
鼻が高く、髪は短くセットしている。スーツを着こなして少しかがんだポーズを
取り、こちらに笑顔を向けている。
「スペンサー・トレイシーやね。アメリカの賞を取ったんやったかな」
「知っているの?」
「名前だけやけどね。中々格好ええ俳優やん」
「……うん」
思わぬ理解者が現れたことに、恥ずかしさと嬉しさが同時にこみ上げてきたソ
フィア。顔が紅潮しっぱなしの彼女を見てアナスタシヤはさらに続ける。
「日頃むすーっとしてるんに、ソフィアはんも可愛ええとこあるやん。全部で1
0枚くらいあるけど、このポートレートかてタダやあらへんかったんやろ?懐に
大事そうにしまってお守り代わりなんて、ホントに可愛ええわ」
そう言いながら、アナスタシヤは娘の成長を喜ぶ母のようにソフィアの頭をな
でる。風邪を引いたのかと見間違うほど顔を赤くし、気恥ずかしさで言葉が出な
いソフィアはただひたすらうなずき続けるだけだった。恥ずかしいから止めてく
れとばかりに、頭の上で動き続けるアナスタシヤの腕をつかむソフィア。
「こっちはなんなん? 集合写真?」
ケースの一番下に並べられた写真がはみ出しているのを見てアナスタシヤが指
さす。10人くらいの老若男女が立ち並びにこやかに笑っている。よく見ると、
右から3番目に今より少し幼いソフィアが居た。ポートレートとは違い、写真の
縁はボロボロになり、シミや汚れも付いていた。
「家族全員。昔撮ったもの。これが一番大事」
「そっか。せやね、思い出も詰まってるもんね」
家族は今もお元気なん? こっちはお兄さん? とアナスタシヤが聞こうとし
た直前、ドアがノックされてヴィクトルが入ってきた。全員を近くに呼んでから
告げる。
「3人ともおはよう。集まってもらって悪いが今日の訓練は中止だ」
すかさずエカテリーナが問いかける。
「じゃ、今日はお休み?」
「まぁそうなるが、さっき中隊長から雑用を頼まれてな。スレテンスキー駅に大
隊の補充要員と機材が来るんだそうだが、トラックを使って機材の一部を運んで
欲しいそうだ」
そう言うとヴィクトルは袖をめくり、腕時計の指す時刻を見る。これがまたちゃ
ちな品物で日に1,2分は誤差が出るのだ。
「到着は昼過ぎだ。今出れば列車の到着までたっぷり3時間は駅の近くで遊ぶこ
とも出来るが――」
「賛成賛成賛成! そうしましょ少尉!」
エカテリーナは目を輝かせて飛び跳ねる。街に繰り出して遊ぶことなど訓練期
間中は夢にも見なかったことだ。訓練の最中に居たところと言えば埃っぽい演習
場か、さもなければジメジメとした風通りの悪い兵舎かのどちらかなのだ。無邪
気にじゃれつかれ、困ったヴィクトルはアナスタシヤとソフィアに目線で尋ねる。
君たちはどうするかね?
「ウチも行きたいわぁ。ここしばらくたまきり遊んだことあらへんし」
「私も」
軍服は着ているが3人とも年頃の女の子なのだ。遊びたい盛りでもある彼女ら
は、出発する前からすでに頭の中で予定を組み始めていた。休暇、散策、ショッ
ピング。なんと素晴らしい言葉だろうか。兵隊は日頃閉鎖された環境の中に居る
せいで金を使う機会がない。そのため一度使い出すとあっという間に散財してし
まうのが常だった。もっとも少女達の給料などたかが知れていたが……。
ああ、それにしてもまず何処を覗こう。折りからの戦火で上は百貨店から下は
キオスクまで、大した品物は置いていないがそれでも駐屯地の酒保とは訳が違う。
シャツの一枚でも買おうか、それとも出来の良い靴でも買おうか――何せ新しい
軍靴など履き潰すまで支給されないのだから――ああでも、配給券無しで買える
のだろうか。それはともかくとしてこの少尉も一緒ということは、もしかすると
買い物の後には茶の一杯でも奢ってくれるかも知れないな……。
こんな具合に想像だけが広がっていった。
3人の少女は急いで自分の兵舎へと戻り雑嚢から給与支給手帳を引っ張り出し、
それから兵舎の中にある野戦銀行へひとっ走りして幾ばくかの現金をおろした。
たかだか紙幣数枚引き出すのにも面倒くさい手順を踏まねばならないが、戦場に
現金を持って行ったところで何の役にも立たない以上、それなりに良くできたシ
ステムだった。
ヴィクトルがデポから拾ってきたトラックを兵舎の前に停めると、そこには目
を輝かせて待つ少女達が立っていた。
「少尉! 速く行こ!」
そう言ってヴィクトルを急かしつつ、ちゃっかり助手席に乗り込むエカテリー
ナ。こういう時、柔らかい座席に座れるか、それとも荷台の固い板に尻を置かね
ばならないかは早い者勝ちで決まるのだ。一本取られたアナスタシヤとソフィア
はそそくさと荷台によじ登る。その様子を窓から頭を出して伺うヴィクトルだが、
荷台にはぐるりと柵が設置されていて様子が分からない。
「出発するぞ。後の二人、準備良いか」
「ええで」
「いいです」
返事を聞くとすぐにトラックを走り出させる。アメリカから軍事支援として送
られてきたらしいこの6輪トラックはソ連のトラックとは段違いに運転しやすい。
パワーもあるし、指1本でギアが変えられそうなほどシフトレバーは軽いし、サ
スペンションはなめらかに地面を捉える。これなら、入隊したときに訓練して以
来ろくに自動車を運転したことがないヴィクトルでも駅までの道のりが苦になら
ないというものだ。トラックは順調に速度を上げ、エンジンは快調に回り続ける。
駐屯地から出て幹線道路へ。昨日訓練へ行ったのとは逆の道になる。
ちょっと暑いな、と感じて窓を開けた。涼しい大気が車内へ吹き込んでくる。
車外では太陽の日差しが緑色の車体にひっきりなしに突き刺さっていた。もうす
ぐ7月。本格的な夏はすぐそこまで来ている。
車を走らせ始めて10分ほど経っただろうか。ヴィクトルは話しづらそうに、助
手席に座ったエカテリーナへ話を切り出す。
「君らは」
やっぱり止めようかな、と思ったが今更遅い。意を決して話を続ける。
「なんで軍隊の、しかも前線勤務なんて志願したんだ?」
「それはもちろん国家への忠誠と義務を果たすためよ」
彼女はまるで当たり前の事じゃないかと言った具合に言う。
「プロパガンダを鵜呑みにしたんじゃないだろうな?」
内心嫌な気分になりながら再度聞く。政治宣伝に肩まで使った兵士の中にロクな
のは居なかったし、戦車の車内では勇ましい言葉やスローガンが銃弾一発、ウォ
トカ一口分の働きもしないのは身を持って知っていた。
「そんなんじゃないですって!」
ブロンドの髪が乱れるほど強く首を横に振るエカテリーナ。
「農場じゃ大人達は兵士に食べて貰うんだって朝から晩まで働いてるし、学校は
半分開店休業で男子学生は工場へ手伝いに行ってる、新聞は毎日毎日戦争のこと
ばかり。あたしだって何かしたかったの!」
そこで彼女の言葉は一瞬途切れた。石ころに乗り上げたのか、トラックが跳ね
上がったからだ。揺れが収まってから再び口を開く。
「地元の少女団に負傷兵の人がやってきて話を聞かせてくれたの。『戦場では武
器も兵士も全てが足りない。それでも皆知恵を絞って戦っている』ってね。その
頃だったかなぁ。マリナ・ラスコヴァが亡くなったってニュースが入って、これ
はもうじっとしてらんないって。飛行機の操縦なんて出来そうにないけど、鉄砲
撃つだけなら出来ると思ったの。戦車兵になったのはちょっぴり不純な動機で、
歩くよりかは車に乗ってたほうが楽そうだったから」
「なるほどねぇ」
身振り手振りを交えながら思いを語るエカテリーナを見て、ヴィクトルは彼女
のことを誤解していたかも知れないと少し恥じ入る。みんながやっているのだか
ら自分も何かやりたい。手伝いたい。動機としてはとても純粋なもののように感
じる。
その動機を短い言葉で表すと、彼女の熱い想いとは裏腹に奉公だの愛国だの無
機質で無味乾燥な単語になってしまうのが寂しかった。
「真っ当な理由だと思う。てっきり宣伝広報の浴び過ぎかと思った」
「ひっどーい! 遊ぶつもり出来た訳じゃ無いんですからね!」
悪かったよ、と言ってヴィクトルは謝る。女性兵士に対する考えを根本から変
えるべきかも知れない。エカテリーナは続けて喋る。
「あ、そうそう、少尉さん、お願いがあるんだけど。私たち3人の事を階級無し
の名前だけで呼んでくれない?」
「何故?」
「ベテランの兵士は戦友を気軽に呼び合うものでしょ。その方が団結してるみた
いで格好いいし。それとも、女の子に気安く呼びかけるのは恥ずかしい?」
エカテリーナの目がある種の挑発めいた艶やかさでこちらを眺める。彼女は自
分の強みをよく知っていて、しかもそれを武器として使うことに何のためらいも
ない。残念ながらヴィクトルが手に負える相手ではなかった。
「ば……、馬鹿言うんじゃない。別に構わんが、外の二人にはちゃんと言ってあ
るんだろうな」
「大丈夫大丈夫。ちゃぁーんとあたしが話を付けておくから問題ないって。少尉
さんのことも『ヴィーカ』(『ヴィクトル』という名前の一般的な愛称)って呼
んであげようか?」
追撃急にして戦況不利である。ここは逃げの一手だ。
「構うなっ。普通に呼んでくれっ」
年下の女の子に手玉に取られている事を恥ずかしく思いつつ車を走らせる。こ
のお調子者の口はその後も機関銃の如く喋ることを止めなかった。
スレテンスキー駅はこの付近の地域における鉄道網の中心で、それ故に周囲に
は大小様々な建物が乱立していた。鉄筋コンクリート製のモダンな集合住宅から、
何を売っているのやら安売りを伝える看板を掲げた小汚いバラックまで、「駅
前」という言葉から想像しうる一通りの建造物があった。物不足の中懸命に営業
を続ける飲食店や食料品店や本屋にはそれなりの客――ほとんどが軍服に身を包
んだ兵士であるが――で賑わっていた。共産主義下の、しかも戦時で、配給制が
敷かれてはいるが金銭による売り買いが死滅したというわけではない。
邪魔にならなさそうな場所を見つけてトラックを駐車させると、4人は一緒に
なって繰り出す。まさか迷子になることもないだろうが、念には念を入れ全員で
行動すること。それがヴィクトルが3人の少女達に課した唯一のルールだった。
まだ朝と言っていい時間だが、すぐにでも日陰に入りたい暑さだ。右手に巨大
な駅舎と、そこに掲げられている「勝利のために団結」とスローガンが書かれた
横断幕を見ながらヴィクトルは尋ねる。
「で、まずどこから行きたいんだみんな?」
「服屋行きたいんやけど、ええかな」
アナスタシヤがうやうやしく申し出た。エカテリーナとソフィアも同意し、ま
ず一同は服屋へと足を進める。明るく清潔に保たれたその店は駅舎のすぐ近くに
店を構えていた。入り口の隣に大きな窓ガラスがはめられておりショーウィンド
ウとなっているのだが、物不足のせいか営業中を示す立て札がポツンと立ってい
るだけだった。窓ガラスの向こうに見える店内も少し物寂しげだ。
それでも少女達は嬉しそうに店内へと入っていく。わずか3ヶ月の間だったが、
寂れ気味の服屋が天国に見えるほどきつく辛い訓練を重ねていたのだろう。そう
思考を巡らせながら、ヴィクトルも店内へと続く。
入ってすぐ目に飛び込んできたのはヒラヒラとしたランジェリーだった。思わ
ず目をそらした先には肌着。驚きつつ店内を素早く見回すと、どれもこれも女性
向けの品ばかり。ここは女物を扱う店なのだ……。
「あー、お、俺は外で待ってるからゆっくり楽しんでくれ」
そう叫んでヴィクトルは急ぎ回れ右し店内から飛び出す。店員と少女3人の視線
が背中に刺さるようで痛い。入り口までしか入っていないのだから問題ないだろ
うか? いやいや、店内に入った時点でダメなのだろうか? 店内に客はどれく
らい居ただろうか。午前中だからそんなに居ないと思うが、もし居たら目も当て
られない。そんなことを考えつつあらん限りの罵倒語を自分に浴びせる。なんた
る阿呆だこの俺は!
もっとも、少女達にとっては目の前に陳列された洋服に食指を伸ばすのが第一
であり、ヴィクトルの行動など気にも止めなかった。ヴィクトルが一通り自問自
答し終えてしばらくすると、ソフィアが店の外へと現れた。ちょっと来て下さい、
と言うなりヴィクトルの袖を引っ張る。考える間もなく再び場違いな店内へ。
抵抗してみた物の「二人とも待ってます」という意味深な言葉のせいで足を止
めることが出来なかった。何をさせる気なのか見当も付かないまま店の奥へ奥へ
と進み、試着室の前へと連れて行かれた。
「連れてきました」
ソフィアが試着室のカーテンの向こうへ告げると、アナスタシヤがまず顔だけ
出し、続いて全身を露わにした。試着室から出てきたアナスタシヤは、白がベー
スでライトブルーの模様があしらわれたワンピースを身につけていた。肩が露出
するタイプでスカート部分は膝までしかない。夏用だからだろう。色も合わさっ
て見るからに涼しげだ。生地が薄いのか、年の割にグラマーな彼女のボディライ
ンが一層くっきり見えるようだった。その場でふわりと回って見せたアナスタシ
ヤが問う。
「どや、少尉さん? 似合っとる?」
「ああ、うん。ヤボな軍服とは訳が違う」
「おおきに。でもこういう時は『抱きしめとうなるくらい可愛ええ』とか『目が
潰れそうなほど愛おしい』って言うとさらに高評価やで」
そんな台詞口が裂けても言えた物ではない。そう思っていると隣の試着室のカ
ーテンが揺れ、今度はエカテリーナが飛び出てきた。
「どう? 可愛い?」
たくさんの刺繍がちりばめられた真っ赤なサラファンを着込んでいる。サラフ
ァンはロシアの伝統的な民族衣装で、ジャンパースカートの仲間だ。胸の上から
足のつま先までゆったりとした大きさがある。彼女が着ているのは晴れ着として
使うタイプで、金色の飾りがこれでもかと言わんばかりに付いている。腰に締め
たベルトにも、目にも鮮やかで丁寧な装飾が施されている。派手な色遣いと少々
オーバーなサイズのせいで元々幼く見えるエカテリーナがさらに幼く見えてしま
う事が、欠点と言えば欠点だろうか。
軍服と戦車帽に身を包んだいつもの姿と比べれば十分美しいと言えるだろうが、
さてなんと感想を言った物か。だめ出しを喰らったことだしここは一つ可能な限
りの褒め言葉でも言ってみるか。
「映えるじゃないか。ピッタリだ。まるで女優みたいだ」
「あはは、アナスタシヤに言われたからって褒めすぎ。でもありがと」
二人に対して「まさかそいつを買うつもりじゃないだろうな。戦場では着られ
ないぞ」などとは絶対に言わなかった。彼女たちはそんなことは百も承知で今を
楽しんでいるのだ。休暇の楽しさと、そこから戦場へと戻るときの物悲しさをヴ
ィクトルは知っていた。日曜日が終わる時とは比べものにならない、あの焦燥感
と絶望感が入り交じった感触。何かの間違いで休暇がもう24時間延長にならな
いかと妄想する瞬間。酒を飲み交わし馬鹿騒ぎした時に限って訪れる出動命令と、
さっきまで酒を飲んでいた戦友が帰ってこないことの悲哀。苦しい時のことは苦
しい時になってから考えればいい。楽しい時まで苦しい時のことを考える必要は
ない。
結局アナスタシヤのアイデアで、少女達3人はおそろいのハンカチーフを購入
した。縦横に模様の入った可愛げのあるデザインだ。何故そんな物を、と聞かれ
れば配給券がなければ大抵の物は買えなかったし券があったところで買えるとは
限らないからだ、と答えるしかない。券が無くても買える品物があっただけ幸運
だったのだ。店から出ると熱気が4人に襲いかかる。まだ午前中だぞ、とヴィク
トルは心の中で愚痴りながら口を開いた。
「それで次はどうする」
「あ……。カメラ屋に行きたい、です」
ハンカチを日にかざして見ていたソフィアが呟くように答えた。カメラ屋なん
か何の用があるんだ、とは思ったが、なんとなれば部下の頼みだ。店の前で掃き
掃除をしていた服屋の店員に場所を聞くと、4人はできるだけ日影を歩くように
しながらカメラ屋へと向かう。道路をとぼとぼと歩く4人。汚れた軍服さえ着て
いなければ、そして戦時でさえなければ仲の良い友達か兄妹に見えていただろう。
それを意識した時ヴィクトルはほとほと困った。妹と言って良いほど年が離れ
た少女に「祖国のために死ね」「さあ突撃だ」などと命令するのは趣味がよいと
は言えそうにない。少女が銃を持って戦場に出る事自体褒められたものではない
のに、そのうえさらに悪趣味な命令をするのか?
ところがだ。彼女たちは列車に押し込められて無理矢理連れられてきた訳では
ない。エカテリーナの話を聞くに新兵募集官に集団で直談判する事数回、ようや
く軍服を着させて貰ったらしい。彼女たちは彼女たちなりの意義や志があってそ
うした訳で、それを無下にするような「女は家を守るのが性分だ」などという物
言いは、まぁ反革と言って悪ければ無神経が過ぎると言って差し支えあるまい。
戦車兵などという生き物は、衛生大隊の看護婦とか、司令部の電報打ちの婦人
とは全く異なる世界に生きている。彼女たちはそれを覚悟の上で枯草色の軍服に
袖を通した。その決意は尊重されるべきだ。百戦錬磨の強者がきらびやかな軍服
を身に纏い戦場を駆け抜けた時代、戦争に名誉と華々しさを求めた時代、戦争に
きらめきと魔術的な美が存在した時代はとうの昔に終わってしまった。それが良
いことなのか悪いことなのかは分からないが……。
とどのつまり、男だろうと女だろうと、年寄りだろうと子供だろうと、敵を打
ち倒す兵士が一番良い兵士だ。堂々巡りの結果ある種の極論にたどり着いたヴィ
クトルは、視界にカメラ屋の看板が見えるととりあえずそれ以上の思考を打ち切
った。
道路を挟んで丁度駅舎の反対側に、地味な看板と共にそのカメラ屋は店を構え
ていた。先ほどの服屋に比べれば小さく狭いし、小ぎれいというわけでもない。
暑さのためか開けっ放しにされているドアから店内へと入ると、目の前に陳列棚
が現れた。近づいてみると、どこそこの工場で作られた謹製のカメラだという事
を示すメッセージカードが商品の前に垂れ下がっている。
何かの機会があればカメラの一つくらいあっても悪くないとヴィクトルは思っ
たが、すぐにその考えを取り消した。少尉の給料をもってしても手が出そうな価
格ではないし、揺れと衝撃が襲う戦車の中ではよほど丁寧に仕舞っておかないと
バラバラになってしまうだろう。それに何より、戦場のど真ん中でどうやって現
像したりフィルムを手に入れたりすると言うのか。
それを考えるとますますソフィアがここに来たがった理由が分からない。振り
返ってそのソフィアを探すと、アナスタシヤと一緒に壁に顔がくっつきそうなほ
ど近づいて何かを眺めていた。遠くから見ても分かるくらい壁一面に俳優・女優
の写真が貼られている。あらゆる国――おそらくドイツを始めとする交戦国を除
く――の人々の顔がこちらを向いていた。アナスタシヤがこちらをチラッと振り
向き、ヴィクトルに近寄ると耳元で小さく呟いた。
「ソフィアはんはこういうハンサムな俳優のポートレートを集めてるん」
「ほう」
それでカメラ屋か。納得することしきりだったし、また意外な趣味だとも思っ
た。多少少女趣味なきらいが無きにしもあらずだが、実際に少女なのだから文句
の付けようなどない。戦争以来めっきり入荷が減ったのか、ただの写真にしては
あまり安くないらしい。そのせいもあるのか真剣な顔をしてどれを買うべきか逡
巡するソフィア。写真とにらめっこしながら、その傍らにいるエカテリーナが指
をさして尋ねる俳優の名前を答えている。その俳優が出てくる映画の名前まで言
っているのだから結構な知識があるに違いない。腕組みしたりうなったりしたり、
自分以外の3人の視線を感じて時々顔を赤くしたりを何度か繰り返した後によう
やく1枚のポートレートを選んだ。
店の奥から出てきた店主は軍服を着た少女が俳優の写真を欲しているという、
突拍子もない出来事に一瞬混乱したが、すぐに愛想の良い笑顔をして釣り銭を渡
した。ポートレートを満足げに眺めた後、ソフィアはポケットから皮のケースを
取り出し大事そうに仕舞った。
戦場の真ん中でも心が安らぐような道具を持っている兵士はうらやましい、と
ヴィクトルは思う。大抵の兵士は酒やタバコに安らぎを求める物だが、飲んだり
吸ったりすれば無くなってしまうという欠点があった。その点写真なら使って無
くなることが無い。ただし、腹を満足させることもないが。
「エカテリーナ、君は何処へ行きたい?」
時計を確認しつつヴィクトルは聞く。まだまだ時間の余裕はある。
「んーと。おいしい物が食べたいのだけれど」
食事か。これは難題だった。昨今外食一つにも配給券が要る。食堂やレストラン
はまず利用できないだろう。軍人は衣服や食事が保証されているので、一般人向
けの配給券など貰えるはずもなかった。何か欲しければ酒保で買うのが普通だ。
もっともこの酒保の品揃えと品質は市場のそれに比べればかなり劣り、それゆえ
エカテリーナは街で食事がしたいと申し出たのだ。
開店していたビアホールを覗いてみる。どうやらビールだけは券なしで買える
らしい。ジョッキ1杯のビールを頼むと鳥肉か魚の乗ったオープンサンドが1つ
おまけで付いてくるらしく、その意味では券なしで食事が出来そうだが、昼間か
ら飲んだくれるわけにも行かないし、ましてそんな物がエカテリーナの希望する
「おいしい物」とはとうてい思えなかった。あちこち探した結果、運良く駅舎内
で軍人向けのカフェが営業していた。壁板の代わりに大きなガラスで店の外と中
を区切っている。外から見ると昼が近いせいか結構人で込んでいるらしい。構わ
ず入店する4人。しばらく待つと小さなテーブルが空き、そこに座る運びとなっ
た。
手書きのメニューを見る。一般人にはもうお目にかかれないだろうコーヒーと
いう文字が1行目から記されている。開戦以来めっきり見なくなった茶もあるし、
一方で広く飲まれているベリー類のジュース、モルスもある。ただしこちらとて
これまた開戦以来品薄な砂糖がふんだんに入れられているだろうが。アルコール
の欄――隣の席では歩兵中尉の階級章を付けた兵士が顔を赤くしていた――を見
ても、お馴染みのウォトカがあればグルジア産のワインや怪しげな薬草酒もあり、
まさしく豪華絢爛といった感じだ。
ヴィクトルがメニューから顔を上げると、ぼろぼろの服を着た女の子が一人ガ
ラス板の向こうからこちらを見ていた。しばらく散髪の機会に恵まれなかったら
しい長い茶色の髪を後にひもで結びつけ、足には穴の開いた靴を履いている。何
かを言うわけでもなく、何をするわけでもない。両手をガラスに押し当てただ眺
めるだけ。こちら側と向こう側を隔てる物がガラス板だけではなく、しかもその
状況を彼女はどうすることも出来ないという理不尽な現実をその小さな体全てを
使って耐えているに違いなかった。
しばらくすると母親らしい人物が現れた。少女同様色あせたボロ着を来ている。
あちこちに丁寧な継ぎ接ぎがしてあるものの、「古着」より「ボロ着」のほうが
ふさわしい姿だった。母親はこちらに見向きもせず、しわだらけの手で少女の細
い腕を掴んだ。物言わぬまま少女は連れられていく。その様子を眺めていたヴィ
クトルが、先ほどのめかし込んだエカテリーナとアナスタシヤの姿と少女の姿と
を比較し悲痛な物思いにふけろうとするのを、テーブルへとやって来た給仕の声
が止めた。
考える必要がないことを、考える必要が無い時に考えることもあるまいよ――
と頭を切り換えて、全員の注文をまとめて伝えた。ソフィアとエカテリーナが紅
茶、ヴィクトルとアナスタシヤがコーヒー、それとブーブリキというドーナツ状
の菓子パンを4人分。飲み物はすぐに出てきた。湯気が立つコーヒーを見て、暑
い時に熱い物を頼んでしまったことを悔やんだヴィクトルだが、一瞬の後に肺一
杯に広がる素晴らしい香りを感じてそんな気分も吹っ飛んでしまった。給仕がカ
ップの他にもう一つ、マッチ箱を半分にしたような紙製の包みをヴィクトルとア
ナスタシヤの前にひとつずつ置いた。さわってみると中にさらさらした砂のよう
な物が入っている。どうやら砂糖のようだが、包みに描かれているのはラテン文
字だった。
「コーヒーも砂糖もアメリカからの支援物資なのかね」
独り言とも質問ともつかないヴィクトルの言葉に、テーブルの向かい側にアナ
スタシヤは包みをまじまじと見つめつつ口を開く。
「たぶんね。砂糖はカリブ海、コーヒーは南アメリカで作ってるんやから、地球
を半周してやって来た訳やね」
「そうなのか……。詳しいな」
「おおきに。でも褒めてもなんも出ぇへんよ?」
笑みを浮かべたアナスタシヤは包みを破り、中の白い粉を全てカップへと注い
だ。その隣ではソフィアが、小皿に盛られたジャムをスプーンで舐めつつ紅茶を
飲んでいる。伝統的なロシアンティーの飲み方だ。一方テーブルを挟んでソフィ
アの反対側、つまりヴィクトルの隣に座るエカテリーナはジャムだけ先に食べて
しまってから紅茶を味わっている。ヴィクトルは包みをポケットに押し込むと、
コーヒーカップを取り一口飲み込む。味も悪くない。
悪くないと言っても、最後にコーヒーを飲んだのはいつかさえ思い出せないの
だから、これが粗悪な代用コーヒーだとしても見破れるかはかなり怪しいところ
であるが……。次にブーブリキが運ばれてきた。見た目はベーグルかドーナツと
対して変わらない。ふっくらと焼き上がっているが持ってみると以外に重さがあ
り、中身が詰まっているようだ。口に入れるとバターの濃厚な味がした。たっぷ
りと使っているらしく口の中でボソボソせずしっとりとした、悪く言えば少々脂
の多い食感だ。この手の物は食べすぎない方が良い。欲張って3つも4つも食べ
ればたちまち気分が悪くなる。
銘々が優雅な一杯を存分に楽しんだ後に会計の段となるのだが、ヴィクトルは
ここに来てようやく気がついた。まさか俺が4人分払わなければならないという
のか。だがよくよく考えてみれば、階級も年齢も下の少女と同席して割り勘とは
いくら何でも陸軍少尉の名折れだろう。男として最低限のプライドだってある。
エカテリーナも、ソフィアも、アナスタシヤも、いずれもが期待のまなざしをこ
ちらへと投げかけている。「無駄に金を貯め込むと早死にする」というジンクス
には逆らわない方が良い。それに、打算的ではあるがこういう小さな事を積み重
ねて部下との信頼関係を築いていかねば。
2つの都合の良い理由を頭ではじき出し、ヴィクトルは席を立った。
「今回は俺が奢るよ。いいか特別だぞ」
彼がそう切り出すのと3人の少女が小さく歓声を挙げるのとはほぼ同時だった。
次にこんな楽しい買い物に出かけられるのは1週間後か、1ヶ月後か、はたまた
あの世に行くまで休めないかは誰も知らない。が、知らないから平気でいられる
というのもまた一つの事実と言える。
駅から駐屯地へと帰るトラックの荷台には、下はタイプライターから上は発電
機まで大隊が使う機材が納められた木箱が山のように積まれていた。駅に到着し
た補充要員達に担がせるには文字通り荷が重い代物だ。彼らは運良く駐屯地行き
のバスなりトラックなり、最悪戦車なりに乗れない限りこの道を歩いて移動する
ことになるのだからこれくらいの荷物は引き受けたって良いだろう。
帰りのトラックの中で、少女達は始終ご機嫌に見えた。久々に文化的な空気を
一杯に吸い込み、買い物をした上にお茶までご馳走になったのだから言うこと無
しだった。トラックは来た道を逆に辿り軽快に走る。行きよりもさらに気温が上
がっていたが、窓を全開にした上でスピードを出しているせいもあり車内はそれ
なりに涼しい。クジ引きで決めた結果、帰りはソフィアが助手席に座ることとな
った。窓の外を眺めるソフィア。ヴィクトルはカメラ屋へ行く最中に考えていた
ことをふと思い出し、口を開いた。
「あー。そ、ソフィア。君は何故志願したんだ? 良ければ教えてくれないか」
ソフィアは黙ったまま振り向きもしない。彼女の白み掛かったグレーの髪だけ
が風に揺れていた。聞こえなかったのかと思ってもう一度口を開けたその瞬間、
彼女はこちらをじっとみて一言こうつぶやいた。
「私……私は白ロシアの出身です」
その一言で十分だった。白ロシア。ベラルーシ。ウクライナと並んで最も西に
位置するソ連を構成する共和国の一つであり、広大なロシアの大地へのヨーロッ
パ側からの玄関口でもある。一昨年の開戦以来今に至るまでドイツによって占領
されており、多数の避難民が東へと逃れていた。
彼女もまた、土地を追われ着の身着のまま這々の体でなんとか逃げ出した人達
の一人だという訳だ。「家族はどうしたのか」という言葉が喉まで出かかったが、
胃の奥に押し込んだ。逃れた家族とまともな生活が送れていれば、あるいは親族
を頼って生活基盤を確保できていれば、誰が好き好んで兵隊になどなるものか。
彼女の苦悩を根掘り葉掘り聞き出そうとするほど品のない人間ではない。
彼女がポケットから例の革製の写真入れを取り出し、その中から一枚の写真を
撮りだした。ガラスの容器や信管の付いた砲弾よりも丁寧に扱い、こちらへと見
せる。
「これ、家族の写真です。こっちはお兄、こっちはお姉」
運転中なのでじっと見る間がなかったが何人かの集合写真らしいことは分かっ
た。それよりも、ボロボロになった写真の縁と、指の先ほどの赤黒いシミが気に
なった。
「辛かったな……。よく頑張った」
彼女へ掛ける適切な言葉が思い当たらず、それらしい言葉を選んで口にする。
怨恨。復讐。彼女の戦う理由というのもつまりはそう言うことなのだろう。その
小さな体にどれだけの苦しみや悲しみ、あるいは恨み辛みがのしかかっているか
想像も付かない。
ヴィクトルは彼自身の良心に従って戦争をしていた。人間としての良心と軍人
としての義務は、彼の中では必ずしも矛盾しない。無論進んで人殺しをしたい訳
ではないが、国家の危機だ。目の前に殺意と武器を持った人間が現れたら迷わず
撃ち殺せるだけの勇気や気概は持っているつもりだ。戦争は気の狂った行為であ
ることを一応理解しているから、発狂した仲間の兵士や無抵抗のまま射殺される
ドイツ兵捕虜を見ても、彼自身は平静を保っていた。しかし同時にドイツ兵のう
ちかなり多くの者が、大多数のロシア人と同じく渋々戦っているらしい事も知っ
ているから、自ら武器を捨て投降することを選んだ兵士に関しては出来るだけ
「人間的に」接しもした。配給のウォトカや乾パンをくれてやったこともある。
ヴィクトルの他にもそう言う行為をする兵士は居た。
自分たちは確かに戦争をしているが、人間を辞めた訳ではない。それだけだ。
だがソフィアにとってドイツ人は憎悪の対象であり、唾棄すべき敵であり、生
活――おそらく家族も――を奪った仇だった。人の形をした悪魔であり、同情や
尊厳の対象ではなかった。口や態度に出さない敵愾心は危険かも知れないな、と
ヴィクトルは思う。ある日突然爆発を起こすからだ。
「何様と思うかも知れないが、あまり思い詰めるなよ。何かあったら俺やエカテ
リーナやアナスタシヤに話してくれ。話し相手にくらい何時だってなってやるか
ら」
「はい」
慰めの言葉をかけたつもりだったが、あまりにも軽薄に感じられた。何処まで
想像力を発揮したところで、それは所詮想像でしかない。ソフィアの本当の気持
ちは他人などには分かりようがないのだ。彼のアンニュイな気持ちをよそに、ソ
フィアは写真をじっと見つめた後ケースにしまい込み、また先ほどのように窓の
外を眺め始めた。短く暑い夏の前触れであるギラギラとした日差しがまぶしい。
その日差しの中をトラックは快調に道路をひた走っていく。ヴィクトルは辟易し
ながら顔の汗を拭った。