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第1話

 1941年6月22日、ドイツはバルバロッサ作戦を決行。300万の兵力を

以てソヴィエトへの侵攻を開始し、独ソ戦の幕が切って落とされた。当初破竹の

快進撃を続けていたドイツ軍だったが、冬将軍の到来とソ連軍の強固な抵抗によ

り首都モスクワへの進撃を中止し越冬する。雪と、雪解けによるぬかるみの時期

が終わった翌42年夏、黒海とカスピ海に挟まれたカフカス地方へとドイツ軍は

攻勢をかけるが、ソ連軍の死にもの狂いの抵抗にまたも阻まれる。

 2度に渡って企図を達せられなかったドイツ軍だが、その兵力は未だ健在だ。

対するソ連軍も緒戦の混乱からは立ち直ったが、ドイツを直ちに圧倒できるほど

優位というわけではない。両軍はにらみ合いを続けながら開戦後3度目の夏を迎

えようとしていた。


 1943年6月末、モスクワ近郊。


 頭がやや薄くなっているその男は、手に持っている紙に書かれたことをそのま

ま読み上げた。

「ヴィクトル・イリイチ・クリコフスキー。野戦任官により本日付で少尉に任命

する。目下再編中の第305戦車大隊に配属とす」

 キラキラとした勲章を胸からいくつかぶら下げた男を見て、佐官とはずいぶん

暇なものなのだなと思いつつ返答する。日に焼けていない不健康な色の肌と、ア

イロンがきっちりかかった綺麗な服を着ていることからして、日がな一日デスク

ワークをしているのだろう。

「祖国と人民のため、死力を尽くして任務に望みます」

 かかとを揃え敬礼してみるが、どうにも決まらない。どのみち分かりきってい

た事を改めて言われているのだから面白みもない。こちとら、もう3週間近く前

からこの大隊で働いていたのだ。今更なんだと言うんだ。

 辞令をもらってそそくさと退出するとその足で工場へ向かった。ここは陸軍の

駐屯地と車両工場が隣接しているのだ。初夏にしては厳しい日差しを浴びながら

一人歩く。空にはほとんど雲が無く、太陽の光は好き勝手に地面に降り注いでい

る。工場の中で一番大きな建物である車両組み立てラインに足を踏み入れると、

耳をつんざくような機械の音が響き渡っていた。手っ取り早く工員を捕まえて目

的の人物がどこにいるか聞く。周囲があまりにうるさいせいで3回も同じ事を聞

かねばならなかった。建物の中に居ないという事を身振り手振りで答える工員に

これまた身振り手振りで感謝を伝えると、今度は練兵場へと向かう。学校のグラ

ウンドのように乾いた土で覆われた練兵場では、工場から出てきたばかりの戦車

が深緑の塗料が乾ききらないうちにもう試験走行をしている。ご苦労なことだ、

と思った。

 皮肉ではない。

 聞けば、工場の労働者達も兵士並みにきつい仕事をしていると言うではないか。

その中には14か15にしかならない子供も交じっている。その上、たいていの

場合工員の食事は兵士に比べれば量も味も劣っているのだ。勢いよく走る戦車を

眺める人の群れに目的の人物を認めたヴィクトルは、近づいて声をかける。

「ステパーン・アナトーリエヴィチ!」

「ヴィクトル! 来ましたね。やはり戦車大隊に配属されたでしょう」

「ええ、小隊長だそうですよ」

 機械油と泥で汚れた上にヨレヨレになったツナギを着ている男に辞令の紙を見

せる。ずり落ちそうになっていた眼鏡を右手を使って上げ、しばらくしげしげと

眺めてた後、紙を帰すと同時に彼は言う。

「私の徹夜が無駄にならなくて済みましたよ!」

 悪魔がほほえんだのか神が味方したのか、ともかくあの時ヴィクトルは運を拾

い生き延びた。戦車の中に残っていた使えそうなもの――例えば備え付けの短機

関銃や医療品――をかき集め、戦場の真ん中を丸1日さまよい歩いた事だけは覚

えている。しかし肝心の、味方と合流したところを覚えていない。

 次に記憶があるのは病院のベッドの上で、あまりに唐突だったからドイツ軍の

捕虜になったのかと思ったほどだ。軽い切り傷や擦り傷で済んだのも幸運だった。

1週間ほど病院にいる筈が、話の分からない看護婦に追い出されるようにして2,

3日で退院した。

 原隊に戻ろうにも、誰に聞いても自分の部隊の居場所が分からない。大目玉を

食らうのを覚悟で旅団本部に聞きに行ってようやく自分の部隊が文字通り消えて

無くなったことを知った。戦車を放棄することは厳しく禁止されており、もし明

るみに出たらタダでは済まなかっためどうしようかと不安だったのだが、それを

処罰するのが任務のあの嫌らしい連中ごと壊滅してしまっている有様だった。

 それから後、あちこちにたらい回しにされたあげく、同じように壊滅した部隊

同士を合流させて再編するとのことで、そこに入り込めとばかりにモスクワ近く

の駐屯地までの列車に乗せられた。今日まで雑用や車両整備の手伝いをさせられ

ていたが、ようやく正式な命令を受けたというわけだ。いわゆる「馬なし」――

乗るべき機材を失った戦車兵やパイロットの俗称――状態とはいえ、そのまま歩

兵にされてしまうなんて事は何が何でも避けたかったから、自走砲でも戦車でも、

自分の乗る「馬」があるのなら選り好みはしなかった。

「あの改造には大分時間を使いましたからね!」

 このステパーンというベテラン工員はダヴィードの親友だった。ダヴィードは

酒が入るたび友人である工員の話をした。いわく、文字を読めるようになる前に

組み立て工の資格を取っただの、ロシア語と英語の二つが話せるだの、熟練工と

して勲章を貰っているため戦争に行かなくて済んでいるだの、今はモスクワ近く

の工場で働いているだの。

 そんな風に前々から聞かされていたから、いかにもインテリなオーラを身に纏

っているステパーンを見てすぐにそれだと分かった。ヴィクトルの口からダヴィ

ードの最期を聞いたステパーンは、ヴィクトルが戦車長になった暁には特別に手

を掛けた戦車を用意してやる、と言った。彼が言うには、熟練工の不足と過大な

ノルマのせいで戦車の品質は日に日に落ちているのだそうだ。もし自分のミスで

前線の兵士が死んだのなら申し訳が立たない、と。

 ダヴィードの死と戦車の品質はそれほど関係がない。

 しかしそう決心できるだけの気概と熱意は、ヴィクトルの心を打つのに十分だ

った。見た目は文学青年風だが、一体どこから沸いてくるのか、底無しのスタミ

ナで常にせかせかと動き回っている。この3週間でいくらかステパーンの手伝い

もしたが、彼が休憩するところはもちろん、座ってものを食べるところすら見た

ことがなかった。ましてや仮眠している所など、どの工員も見たことがないと口

を揃えた。実際彼は話を聞いた次の日には戦車の改造に取りかかっていた。

 無論、個人の勝手で改造して良い物ではない。しかしソヴィエトでは袖の下―

―ふつうルーブル紙幣であるが、時にウォトカであり時に塩漬け肉である――を

使えばかなりのことが「なんとかなる」ものだし、それは国営工場ですら例外で

はなかった。賄賂、もとい「付け届け」の効力はかねがね聞いていたが、本当に

行動に移してしまうステパーンを見て、ヴィクトルはさらに感心するのだった。

 はっと思い出して、枯草色をした戦車兵用作業着のポケットに入れていたもの

を取り出す。手のひらサイズの小さな双眼鏡だ。ダヴィード愛用の双眼鏡。首か

ら提げるためのベルトの部分に黒いシミが残っている。いくら洗っても落ちなか

った血痕だ。

「これ、ダヴィード大尉の形見です。これしか持って帰れませんでした」

「ツァイスですね。よりにもよってドイツの製品をソヴィエト軍人が使うなんて、

まったく彼らしい。どうやらどこも壊れていないみたいですね。なら私よりあな

たが持っていた方が良いでしょう。戦車長をやるのならきっと役に立ちますよ」

 双眼鏡で一度遠くを覗いてみてから双眼鏡をヴィクトルに返す。眼鏡の上から

ではなんだか覗きにくそうだ。

「ところで君の部下とはもう会いましたか。早めに慣熟訓練を始めた方がいい」

「まだ名前も顔も聞いてませんよ。今日中に補充兵がここに来ることになってい

ますから、まぁもうすぐでしょう」

 ステパーンは眼鏡を外し、尻のポケットから手ぬぐいを取り出す。汗ばんだ顔

を拭うと唱えるように言った。

「まさか、例の女性兵士ではないでしょうね」

 それはここしばらく流れていた噂だった。

 今戦場に出ている兵士のうち、10代の青少年達がかなりいる。戦場でなくと

も工場に勤める少年少女はごまんといた。事実、この工場にも女性労働者は居る。

それでも足りないというので老人・障害者・犯罪者などなど、雑多かつ大量の

人々が工場へ、戦場へと押しやられた。しかしとうとう人的資源が枯渇したのか、

年端もいかない少女に銃を持たせて兵隊にでっち上げようというのである。

 冗談ではなかった。著名な航空士であるマリナ・ラスコヴァが政府に直談判し、

自ら音頭を取って女性だけの航空部隊を編成したというニュースはヴィクトルも

聞いていたし、ドイツ兵を300人以上射殺したと伝えられる女性スナイパー、

リュドミラ・パヴリチェンコを筆頭に女性狙撃兵の存在は広く知られていた。今

年の頭まで続いていたスターリングラードの攻防戦では一つ向かいの角までドイ

ツ軍が迫る中、戦車工場で働く女工が完成した戦車にそのまま乗り込んで戦闘に

参加したなどという話がある。

 電報打ちや交通誘導など後方任務に就いている女性兵士は前から多くいたから、

遂に来るべきものが来てしまったと言うべきなのかも知れない。いよいよまずい

ぞ、とヴィクトルは思う。確かに女性兵士はめざましい活躍をしている。しかし、

活躍とオーバーワークとはコインの表と裏だ。「女性兵士がめざましい活躍をし

てしまうほどソ連は追い詰められている」と言い換えることも出来るのだ。

 こんな事で本当にドイツに勝てるのだろうか?

 走行試験を終えたのかゆっくりとこちらに戻ってくる戦車。その向こうからト

ラックが列を成してやってくる。おいでなすったらしい。

「この目で確かめてきます」

 一抹の不安を覚えながら、双眼鏡をポケットにしまう。果たして自分はダヴィ

ードのような頼れる指揮官になれるだろうか? 全てはこれからだ。これから自

分の力でどうにかするのだ。



 目の前で整列している3人の兵士達は、自分の言葉を待っている。それは分か

っているのだが声が出ない。戦車と同じ深緑の野戦服に身を包み、手を体の後ろ

で組んでじっと待つ兵士達。3人分6つの瞳がこちらを品定めするかのように眺

める。だが、何から聞けばいいのか。

「俺はヴィクトル・イリイチ・クリコフスキー少尉だ。第2中隊第2小隊の小隊

長。君たちの上官になる。一人ずつ、名前と階級、役職と年齢を言ってくれ」

 ようやく絞り出せた声は老人のように萎びていた。それに年齢を聞くのはぶし

つけだったかもしれない。言い直そうかな、と思ったが止めた。彼女たちの年に

興味があるのは事実だったからだ。

「あたしはエカテリーナ・ウラジーミロヴナ・クトゥーゾヴァ。一等兵。無線手

よ。年は17歳」

 ヴィクトルより頭一つほども小さい女の子が元気よく答えた。3人の中で一番

小さく、ボリュームのあるブロンドの髪を左右に少しずつまとめ、残りをそのま

ま垂らしている。中々に愛嬌のある顔だが、そんな悠長なことを言っている場合

ではなかった。17だって? 俺より5つも年下じゃないか!

「ソフィア・セルゲーエヴナ・コーネヴァ。一等兵。装填手。16歳」

 二人目の少女が答える。白とも灰とも言えない髪を短く揃えている。少し不健

康ではないかと思うくらい白い肌だ。言うだけ言うとぷいっと目をそらす。どう

もおしゃべりが得意なタイプではないらしい。

「ウチはアナスタシヤ・ミハイロヴナ・コルニロヴァ。一等兵で操縦手。ピチピ

チの18歳よ。よろしゅう」

 三人目。一番背が高く、少し黒みがかった茶髪を肩まで伸ばしている。下世話

な話だが3人のうちで最も女性らしい体つきをしており、胸のふくらみが服の上

からでも分かる。どうも地方の出身らしく言葉に訛りがあるようだ。

 3人が3人とも顔立ちのよい可愛い女の子達。

 その点だけを考慮するならとんだ幸運に恵まれたと言って差し支えない。だが

ヴィクトルはまるで喜ぶ気にはなれなかった。むしろ気分が落ち込んでく有様だ。

これが学校なら鼻の下を伸ばして喜ぶがいいだろう。だが今から行くのはピクニ

ックではなく戦場なのだ。敵は相手が素人だろうと玄人だろうと、女だろうと男

だろうと容赦しない。どだい人間というのは、軍服を着せれば兵士になり、白衣

を着せれば医者になると言った器用なものではないのだ。

「あなたカザフから来た人? 訛りがあるのね」

「せや。カスピ海の近くから来たんよ。乾いた土地やけど、ええとこやで」

 エカテリーナがアナスタシヤに聞く。結構きつい訛りだが普通に話す分には問

題ないようだ。大体のところが分かったので、最も根本的な質問をぶつけてみる。

「さて諸君。念のために聞いておくが、諸君の任務は何だ?」

「ドイツ人を一人でも多く殺して、殺して、殺しまくることよ」

 エカテリーナが、そんなつまらないことを聞いてどうするの、といった感じの

口ぶりで答える。小さな唇から過激な単語が出てくる事に再び何とも言えない気

分を抱いた。それはともかく、殺すだの何だのと簡単に言ってくれるこのお嬢さ

んは随分と赤軍広報部に毒されているらしい。

 ヴィクトルは憎いから殺すとか、殺らなければ殺られるから殺すとか、そうい

った考えで敵を撃ったことがない。命令のままに撃つ。言われたから撃つ。撃っ

てくるから撃つ。考えてみれば酷くドライで無責任な心持ちだった。自分が命令

される側でなくする側になったことに今一度不安を覚えながらも、まぁ戦意があ

るのは良いことだ、と考えをポジティブな方へ切り替える。

「ウチらは3ヶ月の訓練を受けただけやけど、やってみせるで。あんさんもせや

ろ?」

 アナスタシヤの問いかけにソフィアがこくりとうなづく。3ヶ月という言葉を

聞いて目眩がしてきた。3ヶ月! 前の部隊では最も経験の浅い兵隊ですら半年

近い訓練を受けていたというのに! ショックが3人に知られてしまわないよう

に、慎重に言葉を選んでから話す。

「結構だ。戦車を受領しだい直ちに訓練に入る。全員付いてこい」

 自分もまだまだ青二才だという自覚はあったが、彼女たちはそれに輪をかけて

新人なのだ。生き延びたければ、彼女たちを――正確には自分も含む全員を――

悪魔も泣いて逃げるような兵隊にしなければならない。何もかもが不安だらけだ

がやるしかない。戦車の部品と違って人間は「相性がよくないから交換」とは行

かないのだ。



 車両組み立てラインのすぐ外に設けられた巨大なデポには、多種多様な軍用車

両が整然と並べられていた。今まさに工場から出てきた新品の装甲車もあれば、

スクラップ同然の軽戦車がその隣に並んでいたりする。忙しく動き回る工員達の

中からステパーンを探すのは少々根気が必要だった。なんとなれば、かなりの数

の修理工達がトラックの下に寝そべって修理していたり、戦車の中で作業してい

たりするのだ。

 ようやくステパーンを見つけだし、自分の戦車の所へ連れて行って貰う。横目

でチラッとヴィクトルの可愛い部下達を見る。彼女たちは全員が戦車兵用の枯草

色をした衣服を身につけていた。が、それを着れば誰でも戦車兵になれるという

訳ではない。ステパーンの顔は「まさかこの娘っ子が部下だというわけではない

でしょうね?」と言っていた。無言のまま「そうだが何か問題でも?」と表情で

返す。

 デポの端っこにお目当ての戦車はあった。ステパーンが徹夜に次ぐ徹夜で整備

と改造を施した戦車。砲塔の横には赤い星が描かれ、その右隣には白色で221

と書かれている。221号車。第2中隊第2小隊1号車、つまり隊長車を示して

いる訳だ。

「少尉殿。とりあえず受領書にサインを」

 うやうやしく出された紙にサインする。少尉と呼ばれてもいまひとつ実感が湧

かない。紙を受け取ると、ステパーンは一気にまくし立てた。

「簡単に説明しますよ。これは撃破されたT-34を回収して再利用した戦車です。

いわゆるセコハンですね。砲塔に50mm砲弾を5発も喰らっていましたよ。う

ち3発が貫通して使い物にならなくなっていたので、砲塔は新品のいわゆる『ナ

ット型』を乗せています。新品と言ってもウラルの方で作られているキューポラ

のついた新型砲塔ではなく、その一つ前のタイプですね。新型のギアボックスが

入っているので変速はだいぶしやすくなっていますよ」

 あっけに取られるヴィクトルをよそに機関銃のように話を続けるステパーン。

どうやら機械のことを一度話し出すと止まらないらしい。手を振って話を切ろう

とするが、全く止まる気配がない。エカテリーナとアナスタシヤが顔を見合わせ

て不思議そうな表情をする。ソフィアは相変わらずぼうっとしていた。

「で、ヴィクトル君は装填手の位置に戦車長として乗ると言うことなので上手い

具合に座席を取り付けておきました。ついでに砲塔のハッチを取り外して、装填

手用ハッチが有った所に新型砲塔を真似た司令塔と視察口を取り付けましたよ。

これで車内にいてもそれなりの視界を得られるでしょう。雨風が入ってくるよう

なただのスリットではなく、防弾ガラスをはめ込んだ実用性のある代物ですよ。

ガラス板は透明度の高い奴を出来るだけ選りすぐっておきましたからね。送受信

機能付きの良い無線機を小隊全車に取り付けてあります。この生産ロットからの

取り付けでしたから運が良かったですね。車内通話装置も組み込んでありますよ。

マイクとレシーバーを全員分用意してありますから自由に会話できます。これの

出所はちょっと言えませんね! あと……」

「ステパーン・アナトーリエヴィチ!」

 大声で叫ぶヴィクトル。呼ばれた本人より3人の部下の方が驚いていた。

「ありがとうございました。大尉の仇は必ず取って見せます」

悪い人ではないのだが、止めるにはこうするしかなかった。そそくさと3人を乗

り込ませ、立ち去る。しかし、エンジンを始動させ今まさに出発しようとすると

ころで、なおもステパーンはしゃべり出した。

「車内の洗浄は丁寧にしておきましたけど、もしかしたら『出てくる』かもしれ

ません」

「洗浄?」

「言ったでしょう。50mm砲弾が3発も中に飛び込んだんですよ。車内にもか

なり飛んでましたね」

「ああ、なるほど。部下には言わんで下さいよ」

 つまり、車内で飛び散った兵士の血や肉や骨の破片を洗い流したと言っている

のだ。どんなに綺麗に洗ったつもりでも時々その痕跡が姿を現すらしい。「らし

い」というのは、ヴィクトルは幸運なことについこの前まで一度も乗車を失った

ことがなかったし、車内の戦友が死んだこともなかったから、伝聞調でしか語れ

ないからだ。

 あの時、主砲の尾部がダヴィードの血で真っ赤になっていたこと、血と油が混

じったひどく不快な臭いに包まれていたことだけは覚えているが、他のこととな

ると全くと言って良いほど覚えていない。これから自分の馬となり手足となり仕

事道具となる戦車、T-34。その車体前方左側にアナスタシヤ、車体前方右側にエ

カテリーナ、砲塔内部左側にソフィア、そして主砲を挟んで右側にヴィクトルが

座る。

「各員準備よろしいか?」

「操縦手、ええで」

「無線手、いいわよ」

「砲手、準備よし……」

「戦車前へ。砲弾と燃料を貰ったら北に20kmほど行ったところにある演習場

へ向かう」

 車内通話装置を通して、当て物付き戦車帽に組み込まれたイヤホンから聞こえ

てくる少女達の声。以前の戦車にはそんな便利な物は乗っていなかった。戦車の

車内は猛烈にうるさい。それに戦闘の騒音が加わるのだから隣にいる人間と話

すのにも難儀するくらいだ。ではどうしていたかというと、戦車長が操縦手へ指

示を出すときは背中を蹴っていたのだ! 右肩を蹴ったら右へ変針。左肩を蹴っ

たら左へ変針。2回蹴ったら停止という具合にコミュニケーションを取っていた。

ダヴィードの指揮下で戦っていたときは戦車長と装填手の席が入れ替わっていた

から、ダヴィードが大声でヴィクトルに指示、その指示に合わせてヴィクトルが

操縦手を蹴るという猛烈に面倒な事を行っていた。それと比べれば無線に車内通

話装置にと至れり尽くせりなこの状況は大変ありがたい。

 4人を乗せたT-34は工場の敷地からゆっくり出て、街道へ続く道を曲がる。一

時停止して左右の確認をする。といっても操縦手の視界はハッチを全開にしても

劣悪きわまりなく、戦車の周囲にくまなく目を走らせるのは戦車長であるヴィク

トルの仕事だった。前進しようとした瞬間大きな揺れがヴィクトルを襲った。あ

やうく車内に滑り落ちそうなるのを堪えつつ、何が起こったのかを確かめる。ど

うやら派手にエンストしたらしい。

「アナスタシヤ一等兵、落ち着いて操縦するんだ。エンジン再始動。セルモータ

ーではなく圧搾空気でだ」

 バツが悪そうに小声で謝ると、アナスタシヤは再び戦車を走らせ始める。今度

は巧みに操られた戦車は、そろりそろりと街道へと出る。街道と行っても舗装さ

れていない道だ。戦車が通った後には猛烈な土煙が立つ。演習場までの道筋を確

認してから、ヴィクトルは車内に持ち込んだ雑嚢に地図を押し込む。

 新設されたキューポラ(司令塔)から身を乗り出してその出来映えをしげしげ

と眺める。厚さ数センチ、直径数十センチの鉄の筒が砲塔の上面にある搭乗口を

延長するかのように溶接されている。その側面には長方形の穴が5つ開けられて

おり、その穴の上から防弾ガラスがはめ込まれ、視察口として機能している。

 車内にいたまま外を見られるのは確かに便利だが、視界が狭いのとガラスの品

質があまり良くなく濁っているのが難点だった。やはりダヴィードの教えの通り、

危険を覚悟で頭を外に出すべきなのだろう。キューポラとハッチは一体となって

いて、車内に座って外を眺めている状態から自然に立ち上がるだけで外に出られ

る。ダヴィードが軟体動物のように苦労して身を乗り出していたことを考えれば

実に良くできている。ヴィクトルは改めて感謝する。ステパーンは良い仕事をし

てくれた。

 双眼鏡を目に当て、試しに街道の向こうを眺めてみた。視界がぶれて全く物が

見えない。なんとか見えないかと試みるが、すぐ後から聞こえる轟音で集中力が

削がれた。相変わらずうるさいエンジンだ、とヴィクトルは心の中でぼやく。排

気管に消音器が付いていないのだ。地平線の彼方にいてもドイツ軍に感づかれる

と戦車兵に不評だったくらい、騒音は酷い。

「ううーん……しょっ!」

 一瞬車体が揺れ、アナスタシヤのうめきとともにギアチェンジが行われる。

「操縦手、ギアチェンジの時はエカテリーナ一等兵に手伝ってもらえ。ギアチェ

ンジ直前に声を出して知らせるんだ。エカテリーナ一等兵良いな?」

「分かったわ」

 ヴィクトルは元々は装填手だったが、無線機も扱えたし操縦もすることが出来

た。これは別段珍しいことではなく、いざという時にお互いの役割を交代できる

よう、戦車兵達は全ての役割を一通り覚えておくものだった。規則で定められて

いるわけではなかったが現場の必要性というものだ。だから戦車長をやれと言わ

れても特に焦る必要はなかったし、今こうして新人の教育もしているのだ。

「ほな行くで、エカテリーナ。せーのっ!」

「えいっ!」

 再び車体にショック。ギアが切り替えられる。

 このT-34は車体後方にエンジンとトランスミッションとを配置している。そこ

から延ばされたシャフトが車体前方に座っている操縦手のギアレバーと繋がって

いるのだが、その経路の長さゆえギアレバーの動作は恐ろしく渋かった。

 事実、前の戦車の操縦手は両手に加えて膝まで使ってギアチェンジしていたし、

木槌や金槌でギアレバーを思い切り叩いてギアチェンジする操縦手もよくいた。

ステパーンが言うには、以前ヴィクトルが乗っていたタイプのT-34は2速から3

速へギアチェンジする際に計算上50kgから100kg近い力が必要なのだそ

うだ。道理で行軍の後に操縦手達は皆疲れた顔をしているわけだ、とヴィクトル

は一人納得する。彼らは口を揃えて「戦車を走らせた後には体重が2,3キロは

減っている」と言っていた。

 ヴィクトルの操縦経験は陣地から陣地へ動かすとか、偽装のため林の中に隠す

とかいうくらいしか無く、本格的な操縦をしたことはない。それでもあのギアレ

バーの渋さにはウンザリさせられた。となりの無線手に手伝って貰いようやくギ

アチェンジしたものだ。新型のギアボックスが乗っているおかげで30kgも力

をかければ十分だそうだが、いわゆる「三角座り」の格好で座席に座っている操

縦手、しかも少女が動かすのだからまだまだ改善の余地がある。

 改善の余地と言えば、トランスミッションも出来がよいとは到底言えず、エン

ジンの回転数と車両の速度を上手く合わせてギアを繋がないとあっという間にギ

アの歯が欠けた。それでなくとも少し手荒に扱っただけであっという間にギアや

クラッチは鉄粉になる。このせいで戦車兵達は点検や部品交換に余計な時間を取

られ、その分睡眠時間を削られた。ヴィクトルもまた、眠そうな目をした整備兵

とともに夜遅くまで整備をしたことが何度かある。

 重厚な見た目とは裏腹に、とにもかくにもデリケートな乗り物だった。戦車に

ついて一つ言えることがある。手足を伸ばしてのんびりするための乗り物ではな

いと言うことだ。そんなことだから、演習場に付いた頃にはアナスタシヤはへと

へとになってしまっていた。エカテリーナ共々戦車から降ろし、休憩させる。

「少し離れておけ。今から射撃訓練をするからな」

 二人が戦車の後方、ちょっと離れたところで大の字になるのを確認してから、

ヴィクトルは双眼鏡を取り出す。正面400m程の所に台形状に盛り上げられた

土の山が見える。切り立った側面に2重になった円が書き込まれ、こちらを向い

ている。射撃の目標だ。ここは演習場などと格好付けてはいるが、実際にはあの

土山がいくつかあるだけの原っぱでしかないのだ。

 ヴィクトルは砲塔に入ると、一通りハンドルやペダルの扱い方、砲弾の配置、

砲手の心構えをソフィアに説明した。元は戦車長兼砲手のヴィクトルは装填手席

に座り、元装填手のソフィアが砲手兼装填手として砲手席に座っている。こうす

ればヴィクトルはダヴィードと同じく視察や指揮だけをこなす事が出来るという

訳だ。最低限の訓練は受けている物の、装填手に今日から砲手をやれと言うのは

少々厳しい。とはいえ戦車長が砲手を兼ねる正規の配置では忙しくてとても周囲

を見る暇がない。頭と目が二つ以上あるなら話は別だが。

「よろしい。それでは徹甲弾装填。おっと、車体側弾薬庫から出してみてくれ」

 この型のT-34には大別して2カ所に弾薬が設置されている。砲手席の左側に8

発。装填手席――今はヴィクトルが戦車長席として使っている――の右側に4発。

その後ろに2発。これらたったの14発が即応弾であり、あとの86発は全て車

体底部の弾薬庫に配置されている。戦闘中に即応弾を撃ち尽くしたら弾薬庫から

砲弾を取り出すしかなくなるのだが、これを取り出すのが難儀だった。

 まず狭い砲塔の中でかがみ、床のゴム製マットをめくる。すると金属製の細長

いケースが現れるのでこれを開く。中には弾薬が3発並んで入っているのでそれ

を取り出す。そうしてようやく装填できるのだ。砲弾はケース内部に2層3層と

重ねて設置されているので、撃てば撃つほど床を掘り返さねばならない。端から

順番に使っていこうにも、弾薬庫は車体に設置されているのだから、砲塔を回し

て別の方向を向くとさっきまでとは全然違う場所から砲弾を取り出さねばならな

かったりする。

 この弾薬配置にヴィクトルも散々困らせられたものだ。慌てると砲弾は出てこ

ない。しかし慌てなければ間に合わない。ソフィアもまた苦労して砲弾を取り出

す。彼女の小さい体が窮屈そうに曲げ伸ばしされるのを横目で見つつ、砲弾の装

填までに必要な時間を心の中で数える。戦場では戦車が激しく揺れるし、被弾す

れば焦りもする。それを計算に入れれば1分間に3,4発撃てれば上等と言った

ところだろう。

 彼女に砲手と装填手両方の役目を任せるつもりだったが、連射の際はやはり自

分が装填してやらねばなるまい。重量約9kgの砲弾は重いとは言えないかもし

れないが、少なくとも軽くはない。ヴィクトルはそんな風にあれこれ考えつつ、

主砲に砲弾を押し込んだソフィアに声をかけた。

「ご苦労。急に配置換えして済まないな。君をいじめるつもりは毛頭無いが、出

来れば俺は指揮に集中したい。前の戦車長はそうやって生き延びてきたんだ。優

秀な指揮官だった」

「だった……?」

「ああ、虎戦車にやられたんだ。俺だけ死に損なったがね。とにかく、照準機を

覗いてくれ。中央に黒い十字線が見えるな?」

「見えます」

 T-34の照準機を使うには、照準機に取り付けられた額当てのパッドと、主砲基

部に取り付けられた頬当てを使って頭を固定する。慣れるのに少しコツが要るが、

急いで慣れて貰わねば困る。どんなに高性能な大砲でも当たらなければただの筒

でしかない。

「基本的にはその中央に敵を捕らえて撃つんだ。ただしボールや石ころと同じで、

砲弾も距離が離れると落ちる。そこで遠くの敵に命中させたいときには照準をず

らす必要がある。十字線の隣に数字が書かれた目盛りが縦に並んでいるだろう」

「並んでます」

 ソフィアの返事は一言一言が雲を掴む感じで、どうにもつかみ所がない。緊張

していると言うよりも、やはり性格に寄るところ大だろう。部下とベタベタした

関係になる必要はないだろうが、それでも互いに信頼し合う中になるのは重要だ。

しかし、妹と言って良いほど年が離れた女の子とのコミュニケーション術という

ものを、ヴィクトルは持ち合わせていなかった。第一女の子を楽しませる軽快な

トークがあったとして、それをロマンチックさの欠片もない無機質な戦車の中で

披露してもどうしようもない。

「手元のダイヤルを回すと中央の十字線が上下する。その横線を目盛りの線に合

わせるんだ。400m先の目標に撃ちたいときは4、1000m先の目標に撃ち

たいときは10と書かれた目盛りに横線を合わせる。その上で十字線を目標に合

わせる。すると見事目標に命中させることが出来るわけだ。じゃあ400mに合

わせてくれ」

「合わせました」

「よろしい。目標は正面の土まんじゅう。円の中央めがけて撃ってくれ」

 砲塔旋回用のハンドルをあちらへ回し、こちらへ回し、良く狙いを付けてから

ソフィアは発射ペダルを踏み込んだ。爆音と同時に閃光がきらめき、砲弾が主砲

から飛び出す。ヴィクトルは砲塔からまた体を出し、双眼鏡に顔を貼り付ける。

「見てみてくれ」

 同じく身を乗り出したソフィアに双眼鏡を貸す。二重円の中央から右に逸れた

場所に砲弾は命中しており、土まんじゅうを半分ほど崩していた。

「照準機は主砲の左側にオフセットされて設置されている。君はその照準機を使

って狙いを付けている訳だから、狙った場所と砲弾が命中する場所には数十セン

チのズレが生じるんだ。命中させたい場所より心持ち左側を狙って撃ってくれ。

もう一度だ」

 車内に入った二人は射撃の手順を一からやり直す。ソフィアは慎重に狙いを付

けて2発目を発射した。今度は二重円の左側に大きく逸れた。諦めずに3度目の

挑戦。発射ペダルが踏み込まれ、撃発。ソフィアは恐る恐るハッチから頭を出し、

既に双眼鏡をのぞき込んでいるヴィクトルに声をかける。彼は双眼鏡をソフィア

へ手渡しながらこう言った。

「よくやった。ど真ん中に当たっている」

 双眼鏡の向こう、二重円の中心には確かに穴が穿たれていた。ソフィアの顔が

ほころび、思わず「やった」と小さく声に出す。打ち解けがたい雰囲気の第一印

象だったが意外と仲良く慣れそうかも知れない。口調の割に表情は豊かな彼女を

横目で見ながらヴィクトルは思う。



 そんな風に夕方までたっぷり訓練を行った後、221号車は工場へと戻ってき

た。デポの隅に停車し、全員降車。エカテリーナも、アナスタシヤも、ソフィア

も、疲れた顔をしている。

「みんなご苦労だった。ゆっくり休んでくれ。俺は今から工員と少し話してくる。

あと、これを3人で分けて食ってくれ。明日朝は中隊本部へ集合するように。じ

ゃ、お疲れ様」

 そう言うとヴィクトルは戦車の中から雑嚢を取りだし手を突っ込む。中から紙

に包まれた板状のチョコレートを取りだす。包み紙になにやら風景画が描いてあ

るそれを、名残惜しそうなそぶりも見せずソフィアに渡した。後でアナスタシヤ

に教えて貰った事だが、シーシキンという画家の「松林の朝」という絵の一部ら

しい。

 駆けて行ってしまったヴィクトルをしばし見てから、3人は仲良く歩き始める。

これから自由時間。まずは食堂に行って自分に燃料補給だ。ソフィアは包み紙を

破り中身を取り出すと、まず半分に割り片方を一番疲れているであろうアナスタ

シヤに渡す。残りの半分をさらに半分に割り、一方をエカテリーナに渡した。彼

女なりの優しさだ。

「おおきに」

「あんがと」

 砂糖があまり入っていないチョコレートを、それでも大事そうに口に入れる3

人。カカオ独特の香りとぬめりとした口当たりを楽しんでから飲み込む。

「な。あの隊長さんどない思う?」

歩きながらアナスタシヤが2人に聞いた。

「今日会ったばっかだからまだ分かんない。でもまぁ、甘い物を奢ってくれる人

に悪い人はいないわよ」

 そう言うとエカテリーナは残りのチョコレートをほおばり、指を舐める。

「ソフィアはんは?」

「未知数」

「なんや二人とも反応薄いわぁ。まぁ正直な話ウチも初対面やからよう分からん

のやけど、経験も結構あるみたいやし、頼りになりそうやと思わへん?」

 故郷の話や、訓練所の話、家族の話などをとりどめもなく話しながら食堂へ向

かう。女性が3人もいればまずもって話のネタは尽きることが無い。工場の一角

に設けられた食堂はかなり広々としていて、一度に軽く300人は座れそうだっ

た。しかし、工場労働者だけでなく兵士も利用しているために、足の踏み場もな

い状態となっていた。中には立ったまま食べたり食堂の外で食べたりしている物

もいる。陸軍駐屯地の食堂が改装工事中なので、兵士も工場の食堂を使うように

言われているのだ。

 小柄な体のどこに馬鹿力があるのか、エカテリーナが先頭に立って男達を押し

のける。それにソフィアが続き、最後にアナスタシヤが食堂の入り口においてあ

るトレイを3枚ひっつかんでカウンターへ並ぶ。前にまだ10人は並んでいるが、

すでに香ばしいスープの香りが漂ってきている。メニューは何かな、とジャンプ

して前をのぞき込むエカテリーナ。

 だがまったく無意味な行為だった。目の前に並んでいる男――金属部品を磨い

ていたのか、研磨クズで腕と腰がギラギラ光っているツナギを着たその工員は1

80cmはある大男だったのだ。諦めてじっと待つ。

 ようやく窓口までたどり着くと、あごにも口にも腕にも毛を生やした厨房係の

男がぬっと皿を突き出した。今日の夕食はカーシャ(粥)にシチー(スープ)、

さらにコトレータ(ロシア風カツレツ)も付いている。悪くないわね、と思いつ

つエカテリーナは皿を盆の上へ乗せる。毛だらけの男は後ろを振り返ると、台の

上から右手に二つ、左手に一つの皿を持ち窓口の方へ突き出す。皿を渡すと、ま

た振り返ってそれを繰り返す。まるでバネ仕掛けで動いているようだ。

 さて食事を受け取ったはいいものの、一体どこにどうやって座った物か。盆を

持ったまま考え込む3人。するとたまたま、目の前に座っていた工員がひとり席

を立った。すかさずソフィアが滑り込むようにして座る。

「ナイスよソフィア!」

 エカテリーナが快哉を上げる。続けてソフィアの隣に座っている若い工員に目

をやる。どうやらまだ食べ終わりそうにないらしい。

「お兄さん。少しだけ詰めてくれへん?」

 アナスタシヤが可能な限り色っぽい声と顔をして頼む。女と言えば母親しか知

らないような初心なその工員はドギマギしながらうなずき、言われるがままに席

を詰める。こうなったら勝ったも同然で、いかつい成人男性一人半が普通に座れ

るスペースは、体を斜めにしてみっちり座る少女3人必要なスペースとほぼイコ

ールなのだ。

 ようやく落ち着いたところで、エカテリーナは改めて皿を見る。見たところカ

ーシャは麦と雑穀が混じった物だ。蕎麦の実を使った奴が一番美味しいのだが、

量が多いし、肉も少し入っているようなのでよしとする。シチーはどうかな、と

スプーンを琥珀色をした熱い液体に突っ込んで少しかき回してみる。ほう、いつ

ものキャベツだけでなくジャガイモと玉ねぎ、それにニンジンもいくらか入って

いるようだ。量も十分だし、これは素晴らしい。コトレータはどうか。今日の奴

は魚のすり身で出来た奴だ。トマトソースでもかかっていれば文句なしだが、そ

れはさすがに高望みという奴だ。湯気が上がっているし、油が電灯の光を反射し

てキラキラと輝いている。揚げたてに違いない。文句なし。

 ロシアには「シチーとカーシャ、日々の糧」ということわざがある。

 このふたつは白米と味噌汁、パンとバターのように切っても切れない関係で、

毎日これさえ食えば何とかなるという意味だ。だがしかし、それにもう一品加え

られていたらさらに楽しい食事になることは言うまでもない。もし何かの幸運で

二品加えられていたならば、まさしく天にも昇る気持ちになれるだろう。すごい、

すばらしい、すてき。エカテリーナは何度も何度も呟いてから、思わず生唾を飲

み込み、それから工員用にしては今日の夕飯は豪勢ね、と思いを巡らせた。横目

で先ほどの工員を見ると、彼女よりも嬉しそうにシチーを飲んでいた。ははぁ、

とエカテリーナは合点がいく。きっと兵士も工場の食堂を使うようになったから、

食事のメニューが全て工員用から兵士用に切り替えられたのだろう。

 工場の食糧事情はあまり良くないという噂はエカテリーナも聞いていた。前の

訓練部隊では、本当に戦争中かと思えるほど食料に関しては恵まれていた。訓練

はきつく、いつも腹を空かしていたが食事のたびに満腹になるほど食べることが

出来た。食事くらいしか娯楽がないから特別な配慮があったのかも知れないが。

「じゃ、いっただっきまーす!」

 エカテリーナはカーシャをこぼれ落ちそうなほど乗せたスプーンを口の真ん前

まで近づけてから、そう宣言した。アナスタシヤが手もみし、水を一口飲んでか

らそれに続く。最後にソフィアが、丁寧なことに盆へ向けて頭を垂れ一礼してス

プーンを握る。この3人だけ切り取ってみれば、女学校の食事の風景に見えない

こともない。しかしそんなのどかな風景は、一昨年の開戦以来もうこの国のどこ

にもなかった。

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