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プロローグ

 勢いよく打ち上げられた信号弾は、一瞬のためらいの後にまばゆい赤色の光を

発した。敵戦車発見を告げるその光を見て、今か今かと待ち構えていたソヴィエ

ト兵達は一斉に動き出す。車体の軋む音や、エンジンの重々しいうなり声ととも

に、泥と土で構成された戦場へと彼らはなだれ込んで行く。戦車の砲塔ハッチか

ら半身を出し、味方の戦車が土煙を立てて前進する様子を確認してから、ダヴィ

ード・フョードロヴィチは車内にいる3人の部下へ指示を出した。

「我々も前進する。全員準備は良いな」

 車内へ向かって叫んだ後、振り返って僚車に大きく手を振る。付いてこい、の

合図だ。僚車の乗員が手を振り帰して応答する。無線機などというものはダヴィ

ードが乗る小隊長車にしか付いていなかった。ディーゼルエンジンが苦しそうに

黒煙を吹き、4両の戦車が横隊を作って前進する。先に躍り出た戦車と足並みを

揃え、2個小隊計8両の戦車が300mの幅に広がり猛烈な突進を開始した。雨

上がりのじめじめとした空気を体に感じる。もう初夏だった。開けた大地には

木々が少なく、背の短い草が生えているのみ。戦車が戦うには絶好の場所と言え

る。

「祝砲から号砲へ。1時に敵戦車!」

 無線からノイズ混じりに叫びが聞こえた。もう1両の小隊長車――小隊の呼び

出し符号は祝砲――が見つけたのだ。首から提げた双眼鏡をのぞき込む。開戦前

から戦車兵だった彼は揺れる車上からでも正しく目標を発見できる技術を持って

いた。中戦車が3両。しかし僚車にそれを伝える手段がない。心の中で舌打ちし

ながらあらかじめ決めていたとおりの行動に移る。無線機という第3の目を持つ

小隊長車2両が後方から支援し、残り6両は各々で敵を発見出来るまで遮二無二

突進する。

「号砲了解。戦車停止。ヴィクトル、徹甲弾装填。中戦車。距離800m。先頭

の奴からやれ」

 大きく分厚く、そして重い砲塔上面のハッチは常に開けっ放しにしている。そ

こから顔と肩だけ車外に出しながらダヴィードは命令した。狭い砲塔の中、戦車

砲を挟んでちょうどダヴィードの反対側に座っているその青年は、砲塔の内側に

設けられたケースから9kgほどの重さの砲弾を取り出し主砲に押し込んだ。次

に姿勢を変えて照準機をのぞき込む。

 望遠機能付きの照準機とはいえ1km近く先にいる目標は小指の先ほどに小さ

い。角張った形をし、乾いた土のような色に塗られた戦車が見えた。敵はゆっく

りと前進している。砲弾が命中するまでに敵が動く距離に見当をつけ、ほんの少

し前方に狙いをつける。ヴィクトルが発射ペダルを踏み込む。照準機越しに見え

る外の世界が閃光に包まれた。再びクリアになった世界にはしかし、先ほどと何

も変わらず動く敵が映っていた。ダヴィードの叱責が飛ぶ。

「外したぞ。もっとよく狙え!」

 ヴィクトルは急いで次弾を取り出す。一人二役をこなさなければいけないから

忙しい。いや、正確には戦車長であるダヴィードが砲手を兼任するのが決まりで、

ヴィクトルは砲弾の装填手が本来の仕事なのだ。しかし、敵に狙いをつけていた

り、砲弾を装填している最中には周囲の動きを見ることが出来ない。この中戦車、

T-34は只でさえ視界が悪い。ダヴィードはそれをひどく嫌っていた。彼は砲手と

装填手の任をヴィクトルに任せ、自分は本来ヴィクトルが座るはずの装填手席に

陣取っていた。狙撃されるリスクを覚悟の上で砲塔から頭を出し、愛用の双眼鏡

で戦場をくまなくチェックする。指揮と索敵だけに集中して細かな命令を下す。

それが戦車長の本分であり生き残るコツだと日頃から言っていた。そして事実、

開戦から2年を経た今でも彼と彼の部下は生き残っている。この2年のうちほと

んどの期間が負け戦に次ぐ負け戦だった事を考えれば、彼が如何に優秀な戦車兵

かよく分かるというものだ。

 それが分かっていたから、ヴィクトルはダヴィードに決して愚痴をこぼさない。

三十路が近いこの大尉の言うとおりにすれば生き延びられる。それ以上何を望む

というのか。頼れる指揮官の言うことは黙って聞け。それが22歳になる曹長の

考える戦争哲学だった。装填完了、再び照準機をのぞき込み、発射。砲弾は敵戦

車の車体側面に命中し、弾薬に誘爆したのか爆発を起こし炎と煙を噴き上げた。

「命中、撃破! 次だ!」

 敵戦車は停止し、数の不利を悟った上で反撃に出た。勇猛かそれとも蛮勇か。

ダヴィードは前者だと予感した。数倍の敵が今まさに自分を包囲しようとすれば、

大抵の人間はしっぽを巻いて逃げ出すものだ。それをしないのは、勝利のための

自信や秘策を持ち合わせているからに他ならない。突撃を続けていた6両が鉄く

ずと化した戦車から立ち上る炎を見つけ、大きく進路を変更して残りの敵に殺到

する。それを迎え撃たんと敵戦車は火を吹いた。瞬く間に1両が被弾し、動きを

止めてしまった。戦車の乗り心地はこの世に存在するあらゆる乗り物の中でも最

悪の部類であり、砲塔に据え付けられた主砲も乗組員同様起伏を一つ超える度激

しく揺れる。行進間射撃、つまり走りながらの射撃では命中は全く期待できない。

味方は一方的に撃たれるのを承知で突撃を敢行しているのだ。

 こちらも止まって撃てばいい、などという考えは通用しない。

 乗員のほとんどは戦争が始まるまでコルホーズ(集団農場)の畑を耕していた

ような農民だったのだ。十分な訓練期間を取らずに実戦へ投入される彼らの練度

は推して知るべしと言ったところだ。敵の白目が見えるまで近づいて撃つほか、

彼らに敵を討ち取る術はない。親衛戦車旅団を始めとした一部のエリート達はそ

の名に恥じぬ腕前を持っていたが、ダヴィードに言わせれば「最初に敵に叩き付

けられるのはやられても惜しくない俺達雑兵ばかり」なのだそうだ。実際問題と

して、この部隊で正規の教育機関でみっちり訓練を受けた兵士は4割に満たない。

あとは誰も彼も大戦後に召集されてから泥縄式に訓練を――それもカリキュラム

が短縮された訓練を受けただけの兵士だし、下手をすれば徴兵されて軍隊に入る

まで寄り合いバスにも乗ったことがない兵士ばかりだった。

 400mという至近距離まで接近し終えた「雑兵」達は仲間の仇とばかりに砲

撃を開始する。5両がかりの集中攻撃を受け、先ほど味方を射貫いた敵戦車は後

退するまもなくスクラップとなった。

「号砲から祝砲へ。味方が取り付いた。俺達も前に出るぞ」

「了解」

 2両の小隊長車は様子をうかがいながら前進する。ダヴィードはまたもハッチ

から頭を出し、双眼鏡を顔に当てた。突然、向かって右端の味方戦車が大爆発を

起こした。弾薬に誘爆し砲塔が5m近く上に吹き飛ぶ。乗員は即死だろう。驚い

て残り1両となった敵を見るが、その主砲はあらぬ方向を向いていた。奴が撃っ

たのではない。そもそもあの中戦車――正確にはIII号戦車と言うらしい――が装

備する50mm砲弾ではあそこまで派手な爆発などめったに起こすはずがない。

ダヴィードが必死に敵を探していると、視界の隅で発砲炎の赤い閃光が見えた。

敵には援軍がいたのだ。その事実を知ることと引き替えに、また1両味方がやら

れた。

「と、と、虎戦車だ!」

『祝砲』が悲痛な叫びを上げる。虎戦車。ティーガー。我が戦車部隊の宿敵にし

て天敵。こちらの戦車の倍近い厚みの装甲と、あらゆる戦車をボロ板のように貫

く主砲を持つ重戦車であり、ドイツ軍の文字通りの切り札。奴4両を仕留めるた

めに50両以上の味方戦車がやられたとも、30門以上の火砲をかき集めてよう

やく撃ち倒したとも伝えられている。戦場で最も出会いたくない敵だった。ダヴ

ィードは一瞬逃げだそうかと考え、次の瞬間にはその考えを振り払う。彼は味方

を見捨てるような男ではなかった。

 のこのこ逃げ出すか? あり得ない。

 座して死を待つか? あり得ない。

 ならばダヴィード・フョードロヴィチ、重責に堪えかね己が頭に銃弾を撃ち込

むか?

 あり得ない。絶対にあり得ないのだ。

「祝砲へ、接近戦闘で虎戦車を叩く。支援してくれ。砲塔2時方向へ! 止まる

な!」

 いくら虎戦車といえど、ごくごく至近距離から側背面を狙えば装甲を撃ち抜け

るできるはずだ。少なくとも数字の上ではそうなっている。しかし、そんなもの

が当てになるものか。エンジンの唸りとともに速度を上げる戦車の中で、ダヴィ

ードはそう吐き捨てた。数字の上で可能なことと、それを実際に行うことは全く

別のことだ。命のやりとりをするような場では特にそうだ。周囲は凹凸すらほと

んど無い地形で、身を隠しながら進むことすらままならない。だがこの状況下に

おいて、虎戦車が自分に88mm砲弾を撃ち込む前に実現できるという前提条件

が付与された場合、半ば自殺的な突撃をする以外に虎戦車を撃破出来る方法は皆

無だった。要するにダヴィードは他に打つ手がないほど追い詰められていた。そ

れは彼にとって初めての経験であり、悔しさとも焦りとも言えない感情がわき上

がっていた。

 彼我の距離は700m程。最低でも500mまで近づかなくては。もっとも相

手は1500m以上の距離からこちらを撃破できるのだが。ヴィクトルが新たな

砲弾を装填し照準機に顔を押しつける頃には、味方の戦車は自分を含め2両にま

で減っていた。先に突撃した戦車は全て撃破されたのだ。虎戦車はダヴィード車

へとその長い主砲を面倒そうに向け、爆音とともに砲弾を発射した。間一髪、外

れた砲弾は地面をえぐり、大量の土を巻き上げた。細かく向きを変え、ジグザグ

に相手に近づいたおかげだ。

「ヴィクトル、撃て!」

 地面の起伏に合わせて照準機の向こうに映る虎戦車が激しく揺れた。自身の右

側へ回り込もうとするT-34を虎とIII号が迎え撃つ。300mか400mか、とに

かく手を伸ばせば触れることが出来そうな距離に虎戦車は居る。いくら走りなが

らでは当たらないといってもこの距離ならば多少は命中が望める。

 揺れる視界の中、ヴィクトルは思い切って発射ペダルを踏み込む。が、やはり

砲弾は上へ逸れ、空の彼方へと吸い込まれていった。ダヴィードが叫ぶ。

「次弾急げ! 敵の後へ回り込め! 速く!」

 そう言う間にも、先ほど撃ち漏らしたIII号戦車が発砲する。幸運なことにまた

もや敵弾は外れた。砲弾がまた地面をえぐり土と泥をまき散らす。時速40km

近い速度で動いているこちらにそうそう当たる訳がない。当たる訳など無かった

はずだが、しかし虎戦車の第二撃はダヴィード車の車体右側下部に吸い込まれ、

キャタピラとそれを支える転輪をサスペンションごと吹き飛ばした。だが左側の

キャタピラにはまだ動力が繋がれている。結果としてダヴィード車はその場で右

側に急旋回した形になり、脆弱な側面を敵に撃ってくださいと言わんばかりに晒

したあげく、停止した。

 ヴィクトルの視界には虎戦車の大きなシルエットがあふれんばかりに映ってい

た。巨大な砲塔がごくゆっくりとこちらへ向けて旋回している。不思議なほど緩

慢な動きだった。だがそのおかげでこちらが先に撃てる。この距離でしかも敵味

方ともに停止しているなら外しようがない。必殺を念じて発砲。放たれた砲弾は

確かに虎戦車へ命中したが、その砲塔正面にバターを指でえぐったような小さい

後を付けただけだった。

 もし相手が虎戦車で無ければ砲弾は余裕で貫通し、ダヴィードの見込み通り撃

破せしめただろう。その意味で彼の指示は戦車長として合格点と言える。しかし

敵はその虎戦車なのだ。残念ながら言い訳にしかならない。あまりにも相手が悪

すぎた。彼でなくとも、この状況を覆して虎戦車を討ち取ることが出来る者はい

るまい。

 運が悪かった。どうしようもなかった。戦場ではそういう「たまたま」が生死

の境を分けることがままある。たまたま敵の弾が逸れた。たまたま隣に立ってい

る奴の眉間に銃弾が当たった。たまたま敵の真正面に出てしまった……。絶句す

るヴィクトルをよそに、III号戦車が我得たりとばかりに発砲。今度はあやま

たず命中し、砲弾は車体側面前部を貫通。操縦手を即死させ、砲弾と装甲の破片

が操縦手の隣に座る無線手を襲いかかった。

「うわぁっ!」

「アレクサンドル!」

 ダヴィードが無線手の名を叫んだ。お前にはもう興味がないとばかりに、虎戦

車は『祝砲』小隊長車へと狙いをつける。発砲。無線の向こうから小さな叫びが

聞こえた後に、ぷっつりと音が途絶えた。万策尽きた。最早ここまでか。

「クソッ、ヴィクトル! 脱出しろ!」

 言うが早いかダヴィードはハッチから身を乗り出す。しかし一瞬の後、力なく

車内へと崩れ落ち、ヴィクトルに覆い被さるようにして倒れ込んだ。体からは赤

い液体が脈打つように流れ出し、上衣は真っ赤に染まる。主砲尾部にべっとりと

血糊が付いた。

 カンカン、と乾いた音が只一人残された車内に響く。機関銃の掃射を受けてい

るのだ。ぐったりとするダヴィードを見てヴィクトルは思わず息を飲む。敵の弾

は階級章を選り好みしない。ピカピカの勲章を付けていても弾に当たれば死ぬの

だ。

 意を決して車外に飛び出ようとするが、一つしかない出入り用ハッチにたどり

着くにはダヴィードの体を押しのけねばならない。異常に狭い砲塔の中で場所を

入れ替えるのは至難の業だった。車体底面に設けられた脱出用ハッチもあるには

あるが、そのハッチは無線手席の足下、つまりヴィクトルから見て右前方にあり、

とてもではないが手すら届かない。慌てふためき再びダヴィードをどかそうとも

がくヴィクトルだが、未だ射撃を続けている機関銃の音を聞いて体が凍った。

 車外に出たらあっという間に体を蜂の巣にされてしまう。

 しかし車内にいれば安全というわけではない。敵が容赦なく最後の一撃を打ち

込めばそれでお陀仏だし、気まぐれな弾薬と燃料はいつ引火するか分からない。

外の様子すら分からず、暗い車内でもがき焦る彼をよそに再び砲弾が撃ち込まれ

る。今度はエンジンを吹き飛ばされた。燃料タンクに引火しなかったのはガソリ

ンではなく軽油を使うディーゼルエンジンだったせいもあるが、それ以上に運が

良かったからだ。車内を猛烈な衝撃と轟音が襲う。何かが焼けるにおいと煙が車

内に充満する。車内の出っ張りに頭を強く打ち付け、ヴィクトルの視界が歪む。

 戦車の外では、車体の前半分がひしゃげていた『祝砲』がなおも抵抗を続けて

いたものの、虎戦車のとどめを受けると車体と砲塔が泣き別れをした。8両の戦

車を全て撃破した敵はしばし満足げに構えていたが、別方面からの支援要請でも

届いたのか、すごすごと向きを変え進撃していった。後に残ったのは火と煙を上

げる10個の鉄塊。


 この日、ヴィクトルの所属する戦車大隊は、地図上から文字通り「消滅」した。


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