その五
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少年を追い出した後の浴室で、少女は少し冷めた身体と茹だった心を引っさげ、再び湯に浸かる。――ぱしゃり、と小さく顔にお湯を浴びせて息をつく。
「あー、もう最悪」
気分が台無しだと少女は呟く。少年に期待するべきではない、それは既にわかっている。だからといって、毎日このような目に遭っていたら、少女の身も心も持たない。
少女に事態を全て受け入れる寛容さも、彼に言い聞かせる程の伝達力も無い。後はひたすら根気を持って叩きこむか、いっその事そっとしておく位しか思いつかない。少女の精神衛生上後者は意地でも避けたい。
前途多難な共同生活の始まりに対して、不安を抱えるものの。その不安も全て瘴気と共に湯船の底の魔晶石の中に沈める事に少女は決めた。
暫くして、少女の身体が動くときに起きる水音とは別に、遠くから水音が聞こえ始めた。その音の正体が気になり、少女は立ち上がり木格子から外を眺めた。
夜でも光り続ける大魔晶石、丸く大地を見下ろす満月と、庭に位置する井戸の側でその少年は立っていた。木桶を置いて、井戸のポンプを手で押していく。レバーが上下する毎に水は勢い良く流れ出て、木桶の中を水で満たした。
すると少年はその木桶を担ぎ上げると、自らの方へと傾けて、頭から勢い良く井戸水を浴びた。彼の装いは鎧の類を脱いで、上は裸で下はズボンを履いて裾をたくし上げている。風呂派ではないとはこういう事だったのかと、少女は理解した。
少年は身体に付いた水を弾くために身体を左右に振る。その仕草は犬だとか熊だとかが行うそれと、見事に一致した。
それから驚くほど簡単に、少年は水浴びを済ませるとタオルで身体を拭き始めた。こういうのを鴉の行水と言うのだろうか、と少女は頷いた。
「春だって言っても、外で水浴びなんてしてたら風邪引くわよ?」
少女はそれなりに大きな声で、少年に向けて話しかける。
少年はその声に気付いたようで身体をこちらに向ける。それから「ああ」と気の抜けた返事を頭に乗せて少年は答えた。
「その点なら問題ない心頭滅却すれば何とやらというヤツだ」
少年はそれだけ言うと独特な呼吸法と構えを始めた。そこから円を描くように独特の足捌きを繰り返すと、方角を定めて一閃、掌打を中に向けて打ち込む。その一連の動作は流れるようで舞踊を見ているようだった。
「火もまた涼しってやつ? あれってやせ我慢みたいなものじゃないの?」
少女はふとした疑問を口にする。武術の達人は炎燃え盛る上を、歩いたり出来るのだと聞くが、いくら鍛えようが炎は身を焼いているのだから、やはり単に熱さをがまんしているのではないかと思わずには居られない。
「――むぅ、確かにやせ我慢と言われればそれまでだが、この辺は本当に鍛錬を重ねないと解らない理屈だ。刃が進む方向と同じ方向に動く発想というか……」
上手く説明しにくいのだと、少年は言った。
少年は再び掌打を放つ。その動きに合わせて、まだわずかに濡れた髪から、水気が雫となって飛び散り、月光を返してきらめく。その姿は例えるなら月下の白刃だ。飾られるような美術品の美しさではない、剣客が幾多の戦いを刻んだ刃だ。
「なかなか、どうして綺麗なもんね」
「ふむ八卦掌という」
「八卦……何?」
聞きなれないフレーズに少女は聞き返した。
「八卦掌だ。円を描く静と動、そして方角に対応する八種の掌。まあ偉そうな事を言っても僕はまともに出来ていないんだがな」
八卦――「易有太極 是生兩儀 兩儀生四象 四象生八卦 八卦定吉凶 吉凶生大業」訳すと「易に太極あり、是は両儀を生む、両儀は四象を生み、四象は八卦を生む。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず」となる。
八卦とは即ち万物の起源の理を示す。天の四象、地の四象、これを合わせて八卦である。天の四象は陰陽だ。日と月の太陽と太陰、星と辰の小陽と小陰を示す。対して地の四象は柔剛である。水と火の太柔と太剛、土と石の小柔と小剛を示す。
日月星辰水火土石、これ以って八卦八字である。この八つで世の事象を表そうとしたというのが、この武術の元祖、八卦思想である。
この思想にちなんで作られたのが八卦掌だ。走圏と呼ばれる特殊な歩法で円を描き、方角を変える。次にその方角に対しての走圏で直線の動きを行い、八母掌という八種類の掌法で攻撃を行う武術である。
「出来ていないって、素人目には随分凄いけど」
「『出来ている』のではなく、『出来た』というのが正しいんだ僕の場合」
少女はその言葉の違いは解るが、それは同じではないのかと思う。「出来る」のは実直にその道筋の地図を描き上げたという事で、「出来た」のはふと道が開ける事を言うのだろう。前者が秀才なら後者は天才だ。しかし、少女にはどちらも結果は同じではないのかと思う。
「どこが違うの?」
「無我の境地だとか、無心だとか言うけど、本当の強さっていうのは自我を持って戦うことなんだ。これを教えてくれた人は言っていた。無我ではなく有我こそ真だって、戦う事の一番の敵は迷いだから、心を捨てて無心で戦えれば強いんだ。迷わない拳は誰よりも速い。でも何の為でもない拳は、軽いんだよ」
だから自分自身が行なっている行動が、何を意味しているのかを知るべきなのだと、少年は言った。
「武術って随分と哲学的なのね。腕立て伏せだとか、石段をウサギ跳びだとか、そんな単純な特訓の繰り返しだと思ってた」
後は重い物を引きずったり、ひたすら戦ったり、少女の思う修行というのは、そういうものだと思っていた。彼が言うような事を考えるのは、書架に篭る学者のする事ばかりだと思っていた。
「身体を鍛えるだけなら武術なんてやる必要はない。それこそリィゼロッテの言うとおりに鍛錬を繰り返せばいい。でも肉体は鍛えられても、なかなか鍛えられない場所がある」
少年は構えをやめて腕を組むと、感慨深げに言った。
「へえ、それって何処?」
「――ふむ、心だよ」
「――あー……」
少女は左の頬をひきつらせて頷く。「あー」に続く言葉は「そういうクサい事言うんだ」という意味合いの「あー」である。
「馬鹿に出来ないものだぞ。拳を振るうのは結局人間だからな。師匠は有我不迷だとか言っていた。言っている理屈は解るが、良くわからない」
軽く宙に向けてジャブを繰り返しながら少年は言った。
「心は捨てずに、それでいて迷わず?」
「うむ、そうだな。自分の考えに全く疑問を持たないで戦える人間が居れば、その人間が一番強いのかもしれない。その点僕は捨てきれなかったし、貫き通せもしなかった。驚くほどに半端者なんだと思う」
少年は右の拳を強く握り締めると、言ってみせる。少女は彼の予想以上に力強さを感じる肉体、その肉体に付いた古傷から目を離せなかった。それはその傷跡がやけに生々しくて痛々しかったからだ。
「――ねえルディ?」
「ん、なんだリィゼロッテ?」
少女の問に対して少年は首を傾げる。表情は少女からはよく見えない。少女は少し思案してから質問の中身を口にする。少し心配そうな少女の表情も、同じように少年からは見えていないのだろう。
「その傷跡痛むかしら?」
「うん……どうだろうな。随分前の物だし、もう痛むことは無いだろうけど」
少年は目線を自分の腕にやると低く唸り、少しだけ語尾を言い淀ませる。
「けど?」
「――ああ、こうして月を見る度に思い出す」
月を背にしながら悼む少年の姿はやけに小さく感じた。歳相応、いや少女から見て、それ以上に幼いように思える。
「そっか――うん、深くは詮索しないわ」
少女は木格子から離れ再び湯に浸かる。これ以上を興味本位で聞くのは良くないと思ったからだ。藪をつつけば蛇が出て来かねない。
「ふむ、そうしてくれると助かる」
少年の声音が少し明るくなる。それを聞いて少女の胸も少し軽くなった。
「――はっ、くしゅん!」
安堵した所為か、油断したせいか、少女は大きくくしゃみをする。湯冷めしたのかもしれない。冷めた身体を口元まで湯船に深く沈めた。
――今日は早いところ寝てしまおう。