その四
4
――カコン、と音がする。
場所は、「雛の家」の一角、浴室だ。あの後エレンにランプを手渡されて、押されるがままに少女は風呂場へと来てしまった。いやそんな事を考えながらも、しっかり服を脱いで湯に浸かる準備をしてるのだから、少女も少女である。
暗い浴室をぼんやりと照らすランプと月明かり。
それから湯船に沈んだ蒼い魔晶石の光だ。
――しかし、圧巻であった。
この冒険者寮の浴槽を見ての感想である。脱衣所から木戸を開けて入れば、すぐに檜の浴槽が目に入った。泳げそう――いや、少女に泳ぐつもりは無いが、例えの一つとして泳げそうな程の広さはある。
一般的な陶器の浴槽と比べて珍しい檜の浴槽。屋内全体を見回してみても、思った事ではあるが「雛の家」には全体的に東方的な家具や意匠が目立つ。服装からも解るように恐らくエレンの趣味による物だろう。彼女の故郷は東の方にあるのだろうか。
湯船から立ち上る湯気は、木製の浴槽ならではの、浴槽自体から立ち上る香りが混じっている。檜の香りは強めだが、キツ過ぎず雑木林の中に入った気分だ。少女はそんな事よりとばかりに左手でタオルを抑えながら浴槽へ足早に歩み寄る。
浴槽脇に積まれた木桶の山から一つ掴むと、湯船から湯を掬った。それからそのお湯を、手や足の先の方から順々に全身へと隈なくかけて行く。数日ぶりに浴びた湯の感覚は、少女の感情の内の一つを確かに溢れさせた。
「――あー生き返る」
少し年寄り臭いかもしれないと、少女は思う。
身体を流し終えるとゆっくりと、今度は足先から湯船へと浸かり始める。親指の先が湯船に触れた瞬間、水面に走る波紋と共に、びりりと痺れるような、そんな感覚が身体に流れる。その感覚は徐々に身体をかけ登って行き、頭の天辺までじんわりとした暖かさで満たされる。
「――くぅっ!」
胸までこみ上げてきた熱は、押し出すように少女の喉から声を漏らさせた。お湯の温度と体温の境目が徐々に緩くなり、それと同時に身体が解されていく感覚を味わう。全身の力を抜いて、少女は手足を放り出した。
やはり何度味わっても、この感覚は心地良い。その上この風呂は広くて、普段の浴槽とは違い、足を曲げなくて良いし、肩まで浸かれる。少女にとってはこの上ない幸福だ。もともと陶器の浴槽の狭さに不満があっただけに重畳だ。
「――それにしても」
少女は思い立ったように目線を落とす。そこには二つの膨らみがある。
少年に言われた事を思い出す。彼に常識が無いのは分かったが、それでも少女を戦力外と評したのは彼なわけで、そこには純然たる彼の感性が含まれている。彼が見て判断した結果暗に「小さい」と言われたのだ。
「別に小さいわけじゃないのに……そりゃあエレンさんに比べれば、そう言われても仕方ないとは思うけれども」
そうだ、エレンを基準に考えているからそう思うのであって、少年の基準が世間一般とずれているのだろう。そうだそうに違いない。少女はうんうんと頷いた。
それから彼女は天井を見上げた。
立ち上る湯気に心まで連れて行かれたように、少女はぼうっと考える。少年の事をだ。あの朴念仁の事を少女は考えていた。常識知らずで、間が抜けたことを言う。それでいて時々ふとした瞬間にハッとさせるような事を言う。
――そうだ、少女はあの少年の事が。
「――大嫌いなのよ、あの手の人間が」
それが何でなのか、少女にはうまく言葉にできなかった。なんとなく、感覚的に腹が立つのだ。腹が立つ理由が具体的に言語化出来ないのが、更に加えて腹が立つポイントだ。これでは逆恨みをしている気分になる。事実そうなのかもしれないが。
――いけない、せっかくの風呂なのだ。もっと気持ちが浮くことを考えなくては損だ。
そうだエレンさんの料理、あれは美味しかった。頬が落ちるような、と言っても大げさではない。あれを食べている間は、きっと誰でも安い値打ちの喧嘩など買う気も売る気も起きないだろう。料理は作っている人の性格が出る。などと言うと大げさかもしれないが、あの料理を食べれば信じたくもなる。
そして、少女が頭のなかで先程食べたシチューの味を思い出して、幸福感に浸っていた時の事だった。
――がらん、と木戸が開く。
薄暗い中に見えたのは先程まで思い浮かべていた顔だった。その顔は記憶のままの通り仏頂面を下げて以前変わりないままに、堂々と浴室の入り口で仁王立ちをしていた。腕を胸の前で組んで、足を開くと高らかに宣言した。
「木桶を貰いに来た!」
――どんっ、と効果音でも出そうな感じで、少年は少女を見据える。
「な、なっ――」
少年と少女の目と目が会う。瞬間、少女は茹で上がる。大海で捕れる蛸みたいに、あっという間に赤く染まった。
「――なに入ってきてんのよ―!」
「――だから、木桶を貰いに来たんだよ」
落ち着いた様子で答える少年、少女はぎりぎりと音がするほど強く拳を握った。それから一秒と少し、少女は手を伸ばし木桶を掴んだ。
「そんなに木桶が欲しけりゃねえ――」
言葉とともに木桶を持った腕を振り上げる。
「くれてやるわよおおお!」
刹那――水飛沫が上がる。少女が飛び上がった。暗闇、湯気の白煙、飛沫のカーテンの向こう側から少女は回転を加えながら、右手で木桶を投擲する。ただの投擲では無い、前方向への回転と木桶の回転。二つの回転を孕んで木桶は飛んでいく。
その木桶の回転は少女から見れば左右非対称にぶれる回転、無限に内側へと向かっていく回転を描いていた。それは無限に内向する回転だ、約十対十六で描かれる黄金長方形、その内側に存在する無限の正方形をなぞる軌道。
それはもう『木桶』を超えた……『牙』だ。
その回転に終わりはなく、ただ内向し続ける、いわば無限の螺旋だ。少年は木桶が迫る中で不可解な音を聞いた。高速て金属が削れる時のような甲高い音、木桶は少年の顔面を覆うように直撃して回転する。
衝撃に仰け反るが倒れることも出来ずに、その場で立ったまま木桶の猛威に襲われる少年。少女は今度は同じように左手で投擲、先ほどの無限の回転とは正反対、逆の回転だ。左向きに内向するその木桶が同じように少年を射抜く。
相対する二つの無限の回転、そこに収束点は生まれ、衝撃が生まれる。少年は木桶ごと木戸の向こう側、廊下の壁まで吹き飛ばされた。――カーン。浴室の木戸のサッシにぶつかり真上に上がった木桶。その木桶がどちらに落ちるのかは「神」にしか解らない。
虚しく少年の側に落ちた木桶が――カラン、と悲しげな音を立てる。
壁にもたれる少年。
彼が望んだ『木桶』今は少年の側にある。本当に廻り道だった。本当に、本当に、なんて遠い廻り道……ただ、普通に投げてくれさえすれば良いのに。
「リィゼロッテ……木桶は一つで十分だ」
少女は木戸へと駆け寄る。
「――ふんっ!」
木戸に手をかけて、掛け声と共に勢いを付けてサッシの上を走らせる。
――ガタン、と音を立てて浴室への道は閉ざされた。