その三
3
食後の芳ばしい香り。緩く息をつきながら食卓にて三人は団欒の一時を過ごしていた。会話の内容は他愛ないもの、ただひたすらに普段の街の様子を少女が二人から聞いているだけの片側一通行なものであったが、少女には興味深いものだった。
そして二十分ほど話した後に、エレンは皿を洗いに席を立ち、それに連れ立って少女も手伝いに席を立つ。台所とダイニング、微妙な距離感で会話は続く。皿同士がぶつかり合う音そして水音が響く。
今となっては当たり前だが、新連邦アルメリア共和国所属となってから、大規模な工事により通された水道。中央の峰に位置する大水源ウルスラ、そこから別れた大河アムールより潤沢な水資源の恩恵を市位へともたらした。
調理、洗浄、入浴、飲料。用法にしてみれば無数に数えられる。飲料や調理にこと関しては井戸水に劣るが、屋内に居てすぐに引けるというのはこの上なく便利なものだ。
「そういえば、リィゼロッテは何で行き倒れていたんだ?」
何でというのもおかしな話だが、ただ単純に胸を突いた疑問が、そのまま少年の口から外へと出る。少女の服装は旅をするには軽く、持っていた荷物も旅支度としては心もとない。加えて少女は冒険者協会の登録証を持たない一般人である。
そんな準備で街の外に出ているのは命知らずというか、見る人によっては自殺志願者と取られても仕方のない行為だ。
「――ぐぅ……それは」
言えないと、カエルを潰したような呻き声を少女は出した。
「いや、言いたくないのなら無理にいう必要は無いぞ、誰しも言いたくない事や隠したいことの一つはあるだろう。僕にもある」
少年は無配慮だったと、言葉の一部を撤回する。
「いや、気にしないで――」
世話になっておいて、黙っていようなんてそんな事は、随意と虫の良い話だ。少女は深呼吸を一度して、気持ちを落ち着かせると語り出した。
「――逃げてきたのよ、前に居た場所から」
沈黙、染み入るよりにしん、と少女の言葉が響く。ただ逃げてきたのだと、少女は自ら噛み締めるように言った。過去を悼むような、そんな表情を浮かべる。
「つまり家出という事か?」
複雑な事情も、複雑な心情も、すべてひっくるめた結論を少年が口にする。
「家出――そうね、要するにそれだけの話かもしれない」
「家」が嫌だから逃げた自分は、ただの「子供」だと少女は思った。
「そうか……行く宛はあるのかリィゼロッテ?」
少年の言葉に、少女は食器を洗う手を止めた。行く宛、そんな事は考えてなんていなかったのだから。少女はただ逃げてきただけで、どこかに行こうとしていたわけじゃない。止まればきっといつか捕まるから、ひたすら逃げてきたのだ。
「――無いわ、多分何処にも。明日にはまた出て行くと思う……」
少女の表情は雲がかかり、陰りが落ちる。
本当ならば今日中にでも出て行かなければいけない。残ればきっとエレンや少年に迷惑をかける事になる。今はまだ見つかってはいないが、いずれ「追手」が来る。
「何処に行くか決めていないのに、旅するほど馬鹿な事は無いと思うぞ。迷ったら動くな、冒険者の鉄則だ。君は迷ってるのだろう? ならば今は考えることに集中すべきだ。幸いここなら空室もあるし、居候したらどうだ。エレンさん良いだろう?」
この少年は時々ハッとさせる事を言う。きっとこの少年は少女などよりも実直に物事について考えているのだ。それでいて不器用な彼はそれが空転する。
「もちろん構わないのナー。この冒険者寮『雛の家』では悩める人は歓迎するのナー」
エレンは至って陽気な声で隣の少女に向けて微笑みかける。困ったな、と少女は思う。この人達は今まで少女が会ったどの人間よりも優しくて、それゆえに辛いのだ。
「私がここに居れば迷惑をかける事になるから……やっぱりここには居られない」
彼らがもし悪辣な人間だったなら、少女は躊躇いなく利用していただろう。見つかるまでの仮の宿として使い、追手に見つかればまた姿を眩ます。少女だってそのくらいの強かさと非情さは持っている。ただ非常になるにはあまりにも彼らは優しすぎて、少女にそんな事は出来なかった。
「――だめだリィゼロッテ」
「――え?」
少女はとっさに振り向く。それは少年が今までになく強い口調で、少女に向けて語りかけたからだ。振り向けばそこには真剣な眼差しがある。
「だめだ、君はやはりここに居るべきだ。それに僕ならまだしも、君はエレンさんにまで恥をかかせるつもりなのか? 差し出した手を握り返してくれる手が無い事以上の寂しさも、恥ずかしさも他には無い」
「でも……」
「でもも、だっても、さっても無い」
悩む少女、眉間に皺を寄せる少年。
「…………」
「…………」
沈黙染み入る。その中でカチャリ、と食器を積み重ねる音がした。
そして、その沈黙を割ったのはエレンだった。
「――リィゼちゃんは輪廻という言葉を知ってるかナー」
「いえ……知りません」
輪廻、少女が聞いたことのない不思議な言葉だった。
「サンサーラとも申しますのナー。人の生命は循環する輪の如く、常に止まることのない水の流れの如し。イチがイチであり続けないようにゼロはゼロであり続けない。只、その循環は同じレールの上を走るのナー。拳を作って貰えますかナー?」
エレンは差し出すように握りこぶしを見せた。少女もそれを真似てぎゅっと拳を握り締めて同じように差し出した。
「……こうですか?」
真意を測りかねた少女は尋ねた。それに対してエレンはコクリと小さく頷く。
「この小さな手は握れば拳、一つの輪っかになるのナー。では、次は開いて貰えますかナー」
ゆっくりと蕾のように開く拳。その開いた掌をエレンが、ぎゅっと握り返す。エレンの手はとても温かかくて、それから柔らかかった。
「開いた手と手、合わせて握り合えばこんな風に――一つの輪っかになりますのナー。もしかすると他の輪っかと交わってこそ、開ける輪っかもあるんじゃないかと、私はそう思いますのナー。リィゼちゃんはどう思うのナー?」
「私は――」
エレンは、少年は、少女の事をまだ知らない。
もし少女の事を知ったなら、同じ事を言ってくれるのだろうか。それはまだわからないけれど、どうしたいかなら決まっている。此処に、この「雛の家」に、もう少しだけで良いから居たい。「少し」が過ぎたらどうなるのかは自分にも解らない。
――それでも。
「少しだけお世話になって……良いですか?」
――少しだけ。